2012.12.04.08.06
ブライアン・イーノ (Brian Eno) が交通事故に遭ったその昔、その療養中の出来事である。
先程から音楽が流れている。18世紀 (The 18th Century )の、ハープ (Harp) の曲だ。しかし、ヴォリュームがあまりに低く、その音を聴き取ろうとすると、かなりの労力と聴力が必要だ。しかも、スピーカーの片方からは、一切、音は出ていない。
でも、だからと言って、良好な音環境に調整する事も出来ない。
怪我が癒えていない彼は、ベッドから這い出す事はおろか、身動きひとつ出来ない、今の躯なのである。
もしかしたら、この拙稿の表題に掲げた5文字の平仮名に誘われて、ここに辿り着いてしまった方もあるかもしれない。
勿論、その5文字の平仮名を表題とする漫画作品も登場するけれども、その論評なり紹介なり感想文には、なり得ないかもしれない。
むしろ、その作品を読み耽った [読み耽ざるを得なかった] ぼくの環境が主題だからだ。
つまり、最初から前もって告白しておくけれども、ぼくは必ずしも、『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] のよい読者ではないのだ。
何故ならば、ぼくには他の作品を選ぶ選択肢も与えられなければ、その作品を読む事以外の行為すらも、選ぶ余裕がなかったのであるから。
ある夏の事である。夏とは謂え、暦的には既に秋だったのかもしれない。でも、とても暑い午下がりだった。
不意に立ちくらみがして、歩く事も立つ事も出来なくなったぼくは、周りに助け起こされ、そのまま救急搬送 (By Ambulance) させられた。
上半身を起こす事はおぼつかないものの、意識はしっかりとある。搬送されている途中、救急救命士 (Emergency Medical Technician) の質問にもきちんと対応出来ていた。
日頃の不摂生の仕業なのか、それとも、ムルソー (Meursault) ぢゃあないけれども「太陽が眩しかったから (que c'était à cause du soleil)」 [『異邦人
(L'Etranger)』 [アルベール・カミュ (Albert Camus) 作 1942年刊行] より] なのか、理由や原因はよく解らない。
ただ、解らないのにも関わらず、ぼく自身は、数時間の点滴 (Intravenous Therapy) で済む様なものだろうと、自己診断をしていた。
つまり、ほんの軽いモノだと思っていたのである。
しかし、搬送された病院の緊急救命室 (ER : Emergency Room) で、事態がだんだんと妖しい方面へと向かい出す。
血圧を測り (Using A Sphygmomanometer)、血液採取をし (Testing A Blood Test)、レントゲンを撮り (Taking X‐ray Photograph)、CTスキャン (X-ray Computed Tomography) を施し、さらに、胃カメラ (Gastoroscopy) までも呑まされた。しかも、後日、大腸検査 (Colonoscopy) の必要もあると言う。
そこでの検査結果では、重篤にしてかつ緊急を要する様なモノは発見されなかったけれども、レジデント (Residency) 曰く、輸血 (Blood Transfusion) と点滴 (Intravenous Therapy) が必要で、最低でも一泊はしなければならない、との事なのだ。
そうして、ぼくの約一週間弱の入院生活が始った。しかも、産まれてから、初めての体験である。
携帯は電源を切らされた。貸し付けの寝着に着替えさせられた。右腕には針が刺さっていて、そこからチューヴが伸びて、得体の知れない液体の入ったパックに繋がっている。左掌には指サックが被せられて、そこから伸びたコードは、得体の知れない機器に接続している。
集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) とやらに、いるらしい。
夕となり、また朝となった。第一日である (Et factum est vespere et mane, dies tertius.) [『旧約聖書 創世記 1-5 (Veteris Testamenti liber Genesis 1-5)』より]。
しばらくは、看護師 (Nurse) の言われるがままだった。
起きるべき時間に起きて、食べるべき時間に食べて、寝るべき時間に寝る。その間、定期的に体温 (By Medical Thermometer) と血圧を測り (Using A Sphygmomanometer)、採血 (Testing A Blood Test) をする。三度、配膳されるのは、濁った液状化した得体のしれないモノで、口に入れてようやくその原型が推測される。味覚だけが確保されているのだ。
そうして担当医から、4〜5日の滞在が宣告されるのである。
夕となり、また朝となった。第二日である (Et factum est vespere et mane, dies tertius.) [『旧約聖書 創世記 1-8 (Veteris Testamenti liber Genesis 1-8)』より]。
集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) という仰々しい、物々しい名称の割に、実態は安閑としたモノだった。ぼくの様な救急搬送 (By Ambulance) で到着したモノの仮住まいの様な場所なのだろうか。それとも、ぼく自身の症状が、ただ只管に輸血 (Blood Transfusion) と点滴 (Intravenous Therapy) で体力の回復を待つだけのモノだったからなのだろうか。
殆ど、放置状態で、看護師 (Nurse) や医師達は、他の重篤な患者や高齢の患者の看護や介護にその勢力を割いていたし、奪われてもいた。
とは言うものの、ベッドの上に居ざるを得ず、そこに24時間ずっと拘束されているのだ。床に脚を降ろす事も認められず、胡座をかいて座る事も許されていない。
一日に三回の食事と、一日に一回の寝着の着替えの時だけ、上体を起こす事が出来る。
嗚呼。
食事は勿論の事、排泄もそこで行うのだ。溲瓶には随分とお世話になったのである。
夕となり、また朝となった。第三日である (Et factum est vespere et mane, dies tertius.) [『旧約聖書 創世記 1-13 (Veteris Testamenti liber Genesis 1-13)』より]。
いつしか、配膳されるモノは、固形物へと変わった。勿論、[婉曲的に言って] 上手くない。味覚的には、液状化したモノの方が、まだマシの様な気もしてくる。
しかも、週末となった。病院自体は休館で、医師もまた休診である。看護や介護は当然の如くに続けられている訳だけれども、週が明けるまで、医師がぼくを診る事はない。つまり、少なくとも、この数日は、ぼくが快癒し完治していたとしても、この状態が続くという訳なのである。
そんな朝に看護師 (Nurse) のひとりが、分厚い数冊の本を持って顕われた。
それが、『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] なのである。
手渡されたぼくとしては、ありがたく拝受するしかないのだけれども、何故、このタイミングで登場したのか。
それまでは、起きるに任せ、寝るに任せ、喰べるに任せ、排尿するに任せていたのである。日中、集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) に流されているFM放送を薄ぼんやりと聴いているだけのぼくだったのである。
ただ、その解答らしきモノは、数時間後に解る。
週末は、この集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) にも面会客が訪なうのである。
当時、ぼくは独り暮らしであって、入院云々の件は誰にも連絡していなかったし、する暇もなかったから、ぼくがここに居る事は誰も知らない。
ぼくには面会客も見舞の品もないのだ。
きっと、それを宛てがっての事なのであろう。
否、ぼくに対する気遣いというよりも、手持ち無沙汰でいるぼくの視線が、同室内に居る患者やその客へ泳がない様に封じ込める事が主目的だった様に思える。
そんなかたちで、ぼくは『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] に出逢い、病室のベッドの上で、総ての物語を読み切ってしまったのである。
だから、ここから先は『旧約聖書 創世記 (Veteris Testamenti liber Genesis)』のパロディをしている訳にもいかない。文字通りの三日坊主なのである。
一巻を、読み終わる毎にその続巻が補充され、ベット上で鮪になっているだけの時間からようやく解放されたのである。起床時間と共に読み出して就寝時間までそのままだ。しかも、消灯となっても何故だか、読書に足る光量は、看護師 (Nurse) の配慮と采配で、ぼくの枕許へと確保してもらえたのである。
飽きるまで読む事が出来たし、飽きても尚、読む以外の事は出来なかったのである。
だから、最初に書いた事の繰り返しになるけれども、ぼくは必ずしも、『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] のよい読者ではないのだ。
だけれども、それとも、だからこそ、とでも、言うべきなのかな。
ほんの少しだけ、作品そのものへの感想じみたモノを記しておきたいと思う。
物語の構造自体は、いたってシンプルだ。類似したナラティヴィティを持つ作品も多いと思う。でも、それは現在の視座からのものであって、この作品が発表された1990年当時は、斬新なモノなのかもしれない。
でも、オカルティックな世界観を背景にして、主役級の二人組の、一方が常にその他方を亡きモノにしようと試みる構図は、決して、新しくはない。例えば、『どろろ
(Dororo)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka) 作 1967〜1968年 週刊少年サンデー連載] のどろろ (Dororo) と百鬼丸 (Hyakkimaru) だってそうだし、『恐怖新聞
』 [つのだじろう作 1973〜1976年 週刊少年チャンピオン連載] の鬼形礼 (Rei KIgata) とポルターガイスト (Poltergeist) だってそうだし、おおもとへと遡ろうとすれば『ファウスト (Faust)』 [ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) 作 1808年刊行] のゲオルク・ファウスト (Johann Georg Faust) とメフィストフェレス (Mephistopheles) へと応着してしまうのかもしれない。
だが、この際、物語の構造に関しては、どうでもいい事なのである。
むしろ、気づかなければならないのは、物語の揺るぎのなさと、主人公である"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"の揺るぎのなさではないだろうか。
東京都下のちいさな寺から始ったこの物語は次第に、日本全土を巻き込む、おおきなモノとなってゆく。否、地理上の拡大だけではない。500年も封印されていた妖怪"とら (Tora)" が偶然にも甦る事から始るだけでなく、春秋戦国時代 の中国大陸という2000年以上も過去へも遡り、その舞台を拡げてゆくのだ。
この長大な物語には、様々なキャラクターも登場し、物語も紆余曲折しているかの様に観える。だが、それはほんの表層的なもので、物語は、始った時点から、最期までただひとつの点に向かって、一心不乱に遮二無二に、突き進んで行くのだ。
そして、その揺るぎのない物語はどこから産まれるのかと言うと、実は、主人公"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"総てに起因しているのではないのかと、思えてしまう。
"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"は最初から最期まで、なにひとつ変わらない。勿論、偶然にも (!?) 身につけてしまった超常能力は、敵との戦闘や味方との遭遇によって、次第に強力なモノへとなっていく。だがしかし、それを振るう彼自身は、一切に変わらないのだ。時には、それが損なわれる危機を何度となく迎えるのだけれども、変わらない事によって、危難をしのいでゆく。
そして、その変わらなさが、彼自身を助け、彼の許へと多くの賛同者が集まる事になるのだ。
だから、この物語はビルドゥングスロマン (Bildungsroman) 足りえない。主人公に出逢う事によって、数多くのキャラクターが"成長"していくのだけれども、肝心の主人公だけは一切の"成長"を止めてしまっているのである
その結果、恐ろしい程に、青臭い台詞や幼気な行動や幼い意識が浩然とまかり通るのである。
しかも、それらを是とするも否とするも、総ての判断は読者個人に委ねられている様なのだ。そんな稚気にも似た認識は、通常ならば、作者や制作サイドの方で正当化させるべきモノでもある筈なのに、それすらもしない。
あるがままにそこにあるのである。
だから、この作品を読んでいるぼくは、何度も何度も、恥ずかしくなってきてしまったのである。
[猶、前文の"恥ずかしく"という言葉の多義性に充分に気をつける事、と同時に、その中のどの意味を取り上げてぼくが使っているのか、よおく考える事]
ところで、冒頭に掲げたブライアン・イーノ (Brian Eno) の挿話は、1975年1月の事で、その経緯は自らが自身のアルバム『ディスクリート・ミュージック (Discreet Music)
』 [1975年発表] のライナー・ノーツに記載している [その原文はこちら、その抄訳はこちらで読む事が出来る]。
この時の体験が基で、彼は環境音楽 (Ambient Music) というアイデアとコンセプトを得、多岐に渡る彼の音楽活動の、その後の主流を成す訳である。
だから、そのブライアン・イーノ (Brian Eno) の顰に倣えば、本来ならば、『うしおととら』全巻を読破したぼくも、新しいアイデアなり画期的なコンセプトなりを得るべきなのだけれども、残念ながら、今の処は、そんな兆しすらないのである。

上記掲載画像は、その物語のなかで大きな役割を担う、玉藻前 (Tamamo-no-Mae) を歌川国芳 (Utagawa Kuniyoshi) が描いた作品 [『小倉擬百人一首 文屋朝康・玉藻前 (Poem By Fumiya Asayasu: Tamomo No Mae, Fom The series Ogura Imitations Of The Hundred Poets )』 [1845〜1848年発表]より]。
個人的にはその玉藻前 (Tamamo-no-Mae) 自身も、"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"と出逢う事によって相当に、変質を遂げた様に思えるのだが。
次回は「ら」。
附記 1. :
『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] 全巻を読破したと同時に、退院の運びになったのならば、物語の運びとしては美しいのかもしれないのだけれども、現実はそう簡単に、綺麗な幕切れを用意してくれない。
その後も数日のベッド生活を送り、勿論、その際も、新たな漫画作品の供給を受けていたのである。
例を挙げれば『聖☆おにいさん
(Saint Young Men)』 [中村光 (Hikaru Nakamura) 作 2007年より モーニング・ツー連載] や『銀の匙 Silver Spoon
(Silver Spoon)』 [荒川弘 (Hiromu Arakawa) 作 2011年より 週刊少年サンデー連載] 等だ。
附記 2. :
『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] のその表題に関しては、かねてより訝しく思っている。物語の主人公があくまでも"うしお (Ushio)"であり、"とら (Tora)"はその従者でしかない ["とら (Tora)"自身は決して認めないだろうけれども]。だから、主と従の力関係で言えば、"うしお (Ushio)"があって"とら (Tora)"がある。その事実は否定のしようはないし、物語もこの関係性をそのままずうっと全うして行く。
だけれども、発話上でも、表記上でも、"と"という言葉 / 文字が続けて並ぶのは、個人的には、凄く、居心地が悪いのだ。だからと言って、「"とら"と"うしお" (Tora And Ushio)」という並びが美しいかと観れば、これはこれで、やっぱり納得がいかない。
ただ、作品の題名としては、どこかでなにかを損ねている様な気がして、仕様がないのである。
附記 3. :
『うしおととら
(Ushio And Tora)』 [藤田和日郎 (Kazuhiro Fujita) 作 1990〜1996年 週刊少年サンデー連載] の終幕部分にあるエピソードから、ぼくはゲーム・ソフト『Mother 2 ギーグの逆襲 (EarthBound)』 [ゲームデザイン:糸井重里 (Shigesato Itoi) 作 1994年 任天堂 (Nintendo)より発売] を憶い起こしてしまった。そのゲーム・ソフトの最終部分と雰囲気が非常に、よく似ているのである。
語られる多くの物語の中に於いて、ヒーローは常に孤独であるのにも関わらず、この漫画作品とこのゲーム・ソフトは、ヒーローが孤独である事を許さない。むしろ、孤独である事は敗北への道標であるかの様な、ナラトロジーが、両者にはあるのだ。
先程から音楽が流れている。18世紀 (The 18th Century )の、ハープ (Harp) の曲だ。しかし、ヴォリュームがあまりに低く、その音を聴き取ろうとすると、かなりの労力と聴力が必要だ。しかも、スピーカーの片方からは、一切、音は出ていない。
でも、だからと言って、良好な音環境に調整する事も出来ない。
怪我が癒えていない彼は、ベッドから這い出す事はおろか、身動きひとつ出来ない、今の躯なのである。
もしかしたら、この拙稿の表題に掲げた5文字の平仮名に誘われて、ここに辿り着いてしまった方もあるかもしれない。
勿論、その5文字の平仮名を表題とする漫画作品も登場するけれども、その論評なり紹介なり感想文には、なり得ないかもしれない。
むしろ、その作品を読み耽った [読み耽ざるを得なかった] ぼくの環境が主題だからだ。
つまり、最初から前もって告白しておくけれども、ぼくは必ずしも、『うしおととら
何故ならば、ぼくには他の作品を選ぶ選択肢も与えられなければ、その作品を読む事以外の行為すらも、選ぶ余裕がなかったのであるから。
ある夏の事である。夏とは謂え、暦的には既に秋だったのかもしれない。でも、とても暑い午下がりだった。
不意に立ちくらみがして、歩く事も立つ事も出来なくなったぼくは、周りに助け起こされ、そのまま救急搬送 (By Ambulance) させられた。
上半身を起こす事はおぼつかないものの、意識はしっかりとある。搬送されている途中、救急救命士 (Emergency Medical Technician) の質問にもきちんと対応出来ていた。
日頃の不摂生の仕業なのか、それとも、ムルソー (Meursault) ぢゃあないけれども「太陽が眩しかったから (que c'était à cause du soleil)」 [『異邦人
ただ、解らないのにも関わらず、ぼく自身は、数時間の点滴 (Intravenous Therapy) で済む様なものだろうと、自己診断をしていた。
つまり、ほんの軽いモノだと思っていたのである。
しかし、搬送された病院の緊急救命室 (ER : Emergency Room) で、事態がだんだんと妖しい方面へと向かい出す。
血圧を測り (Using A Sphygmomanometer)、血液採取をし (Testing A Blood Test)、レントゲンを撮り (Taking X‐ray Photograph)、CTスキャン (X-ray Computed Tomography) を施し、さらに、胃カメラ (Gastoroscopy) までも呑まされた。しかも、後日、大腸検査 (Colonoscopy) の必要もあると言う。
そこでの検査結果では、重篤にしてかつ緊急を要する様なモノは発見されなかったけれども、レジデント (Residency) 曰く、輸血 (Blood Transfusion) と点滴 (Intravenous Therapy) が必要で、最低でも一泊はしなければならない、との事なのだ。
そうして、ぼくの約一週間弱の入院生活が始った。しかも、産まれてから、初めての体験である。
携帯は電源を切らされた。貸し付けの寝着に着替えさせられた。右腕には針が刺さっていて、そこからチューヴが伸びて、得体の知れない液体の入ったパックに繋がっている。左掌には指サックが被せられて、そこから伸びたコードは、得体の知れない機器に接続している。
集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) とやらに、いるらしい。
夕となり、また朝となった。第一日である (Et factum est vespere et mane, dies tertius.) [『旧約聖書 創世記 1-5 (Veteris Testamenti liber Genesis 1-5)』より]。
しばらくは、看護師 (Nurse) の言われるがままだった。
起きるべき時間に起きて、食べるべき時間に食べて、寝るべき時間に寝る。その間、定期的に体温 (By Medical Thermometer) と血圧を測り (Using A Sphygmomanometer)、採血 (Testing A Blood Test) をする。三度、配膳されるのは、濁った液状化した得体のしれないモノで、口に入れてようやくその原型が推測される。味覚だけが確保されているのだ。
そうして担当医から、4〜5日の滞在が宣告されるのである。
夕となり、また朝となった。第二日である (Et factum est vespere et mane, dies tertius.) [『旧約聖書 創世記 1-8 (Veteris Testamenti liber Genesis 1-8)』より]。
集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) という仰々しい、物々しい名称の割に、実態は安閑としたモノだった。ぼくの様な救急搬送 (By Ambulance) で到着したモノの仮住まいの様な場所なのだろうか。それとも、ぼく自身の症状が、ただ只管に輸血 (Blood Transfusion) と点滴 (Intravenous Therapy) で体力の回復を待つだけのモノだったからなのだろうか。
殆ど、放置状態で、看護師 (Nurse) や医師達は、他の重篤な患者や高齢の患者の看護や介護にその勢力を割いていたし、奪われてもいた。
とは言うものの、ベッドの上に居ざるを得ず、そこに24時間ずっと拘束されているのだ。床に脚を降ろす事も認められず、胡座をかいて座る事も許されていない。
一日に三回の食事と、一日に一回の寝着の着替えの時だけ、上体を起こす事が出来る。
嗚呼。
食事は勿論の事、排泄もそこで行うのだ。溲瓶には随分とお世話になったのである。
夕となり、また朝となった。第三日である (Et factum est vespere et mane, dies tertius.) [『旧約聖書 創世記 1-13 (Veteris Testamenti liber Genesis 1-13)』より]。
いつしか、配膳されるモノは、固形物へと変わった。勿論、[婉曲的に言って] 上手くない。味覚的には、液状化したモノの方が、まだマシの様な気もしてくる。
しかも、週末となった。病院自体は休館で、医師もまた休診である。看護や介護は当然の如くに続けられている訳だけれども、週が明けるまで、医師がぼくを診る事はない。つまり、少なくとも、この数日は、ぼくが快癒し完治していたとしても、この状態が続くという訳なのである。
そんな朝に看護師 (Nurse) のひとりが、分厚い数冊の本を持って顕われた。
それが、『うしおととら
手渡されたぼくとしては、ありがたく拝受するしかないのだけれども、何故、このタイミングで登場したのか。
それまでは、起きるに任せ、寝るに任せ、喰べるに任せ、排尿するに任せていたのである。日中、集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) に流されているFM放送を薄ぼんやりと聴いているだけのぼくだったのである。
ただ、その解答らしきモノは、数時間後に解る。
週末は、この集中治療室 (ICU : Intensive Care Unit) にも面会客が訪なうのである。
当時、ぼくは独り暮らしであって、入院云々の件は誰にも連絡していなかったし、する暇もなかったから、ぼくがここに居る事は誰も知らない。
ぼくには面会客も見舞の品もないのだ。
きっと、それを宛てがっての事なのであろう。
否、ぼくに対する気遣いというよりも、手持ち無沙汰でいるぼくの視線が、同室内に居る患者やその客へ泳がない様に封じ込める事が主目的だった様に思える。
そんなかたちで、ぼくは『うしおととら
だから、ここから先は『旧約聖書 創世記 (Veteris Testamenti liber Genesis)』のパロディをしている訳にもいかない。文字通りの三日坊主なのである。
一巻を、読み終わる毎にその続巻が補充され、ベット上で鮪になっているだけの時間からようやく解放されたのである。起床時間と共に読み出して就寝時間までそのままだ。しかも、消灯となっても何故だか、読書に足る光量は、看護師 (Nurse) の配慮と采配で、ぼくの枕許へと確保してもらえたのである。
飽きるまで読む事が出来たし、飽きても尚、読む以外の事は出来なかったのである。
だから、最初に書いた事の繰り返しになるけれども、ぼくは必ずしも、『うしおととら
だけれども、それとも、だからこそ、とでも、言うべきなのかな。
ほんの少しだけ、作品そのものへの感想じみたモノを記しておきたいと思う。
物語の構造自体は、いたってシンプルだ。類似したナラティヴィティを持つ作品も多いと思う。でも、それは現在の視座からのものであって、この作品が発表された1990年当時は、斬新なモノなのかもしれない。
でも、オカルティックな世界観を背景にして、主役級の二人組の、一方が常にその他方を亡きモノにしようと試みる構図は、決して、新しくはない。例えば、『どろろ
だが、この際、物語の構造に関しては、どうでもいい事なのである。
むしろ、気づかなければならないのは、物語の揺るぎのなさと、主人公である"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"の揺るぎのなさではないだろうか。
東京都下のちいさな寺から始ったこの物語は次第に、日本全土を巻き込む、おおきなモノとなってゆく。否、地理上の拡大だけではない。500年も封印されていた妖怪"とら (Tora)" が偶然にも甦る事から始るだけでなく、春秋戦国時代 の中国大陸という2000年以上も過去へも遡り、その舞台を拡げてゆくのだ。
この長大な物語には、様々なキャラクターも登場し、物語も紆余曲折しているかの様に観える。だが、それはほんの表層的なもので、物語は、始った時点から、最期までただひとつの点に向かって、一心不乱に遮二無二に、突き進んで行くのだ。
そして、その揺るぎのない物語はどこから産まれるのかと言うと、実は、主人公"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"総てに起因しているのではないのかと、思えてしまう。
"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"は最初から最期まで、なにひとつ変わらない。勿論、偶然にも (!?) 身につけてしまった超常能力は、敵との戦闘や味方との遭遇によって、次第に強力なモノへとなっていく。だがしかし、それを振るう彼自身は、一切に変わらないのだ。時には、それが損なわれる危機を何度となく迎えるのだけれども、変わらない事によって、危難をしのいでゆく。
そして、その変わらなさが、彼自身を助け、彼の許へと多くの賛同者が集まる事になるのだ。
だから、この物語はビルドゥングスロマン (Bildungsroman) 足りえない。主人公に出逢う事によって、数多くのキャラクターが"成長"していくのだけれども、肝心の主人公だけは一切の"成長"を止めてしまっているのである
その結果、恐ろしい程に、青臭い台詞や幼気な行動や幼い意識が浩然とまかり通るのである。
しかも、それらを是とするも否とするも、総ての判断は読者個人に委ねられている様なのだ。そんな稚気にも似た認識は、通常ならば、作者や制作サイドの方で正当化させるべきモノでもある筈なのに、それすらもしない。
あるがままにそこにあるのである。
だから、この作品を読んでいるぼくは、何度も何度も、恥ずかしくなってきてしまったのである。
[猶、前文の"恥ずかしく"という言葉の多義性に充分に気をつける事、と同時に、その中のどの意味を取り上げてぼくが使っているのか、よおく考える事]
ところで、冒頭に掲げたブライアン・イーノ (Brian Eno) の挿話は、1975年1月の事で、その経緯は自らが自身のアルバム『ディスクリート・ミュージック (Discreet Music)
この時の体験が基で、彼は環境音楽 (Ambient Music) というアイデアとコンセプトを得、多岐に渡る彼の音楽活動の、その後の主流を成す訳である。
だから、そのブライアン・イーノ (Brian Eno) の顰に倣えば、本来ならば、『うしおととら』全巻を読破したぼくも、新しいアイデアなり画期的なコンセプトなりを得るべきなのだけれども、残念ながら、今の処は、そんな兆しすらないのである。

上記掲載画像は、その物語のなかで大きな役割を担う、玉藻前 (Tamamo-no-Mae) を歌川国芳 (Utagawa Kuniyoshi) が描いた作品 [『小倉擬百人一首 文屋朝康・玉藻前 (Poem By Fumiya Asayasu: Tamomo No Mae, Fom The series Ogura Imitations Of The Hundred Poets )』 [1845〜1848年発表]より]。
個人的にはその玉藻前 (Tamamo-no-Mae) 自身も、"蒼月潮 (Ushio Aotsuki)"と出逢う事によって相当に、変質を遂げた様に思えるのだが。
次回は「ら」。
附記 1. :
『うしおととら
その後も数日のベッド生活を送り、勿論、その際も、新たな漫画作品の供給を受けていたのである。
例を挙げれば『聖☆おにいさん
附記 2. :
『うしおととら
だけれども、発話上でも、表記上でも、"と"という言葉 / 文字が続けて並ぶのは、個人的には、凄く、居心地が悪いのだ。だからと言って、「"とら"と"うしお" (Tora And Ushio)」という並びが美しいかと観れば、これはこれで、やっぱり納得がいかない。
ただ、作品の題名としては、どこかでなにかを損ねている様な気がして、仕様がないのである。
附記 3. :
『うしおととら
語られる多くの物語の中に於いて、ヒーローは常に孤独であるのにも関わらず、この漫画作品とこのゲーム・ソフトは、ヒーローが孤独である事を許さない。むしろ、孤独である事は敗北への道標であるかの様な、ナラトロジーが、両者にはあるのだ。
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