2012.11.20.07.33
表題に掲げたのは、関悦史の第一句集『六十億本の回転する曲がつた棒
』 [2011年刊行] に掲載されている俳句であって、正確な表記をすれば『襖一つ崖を落ちゆく時間かな』である。『詩客 (Shikaku)』の『日めくり詩歌』で、竹岡一郎がこの句を表題に掲げて、関悦史の第一句集『六十億本の回転する曲がつた棒
』 [2011年刊行] を論評している [『日めくり詩歌 俳句 竹岡一郎 (2012/11/02))』参照の事]。
ちなみに、この拙稿の表題が『ふすまひとつがけをおちゆくじかんかな』としてあるのは、この連載企画の趣旨とルールに従っているだけで、他意も悪意もない。
文中総て敬称略で押し通しているのと、同様だ [請了承]。
と、いつもは平気の平左で素通りするところを、いちいち、顰め面して断りを入れたのは今回、読むヒト [もしくは詠むヒト] にとっては、語句いちもじいちもじの違いに激しく凄まじく、拘泥する部分があるかもしれない、と思ったからだ。
勿論、いつもの様にこれから後に続く文章では、暴論や極論がまかりとおっているのだけれども、少なくともその論拠にも派生要件にも、表題そのものはなり得ないし、関知していないのである。
さて、あらためて、 関悦史『襖一つ崖を落ちゆく時間かな』である。
この句を読んだヒトは、まさしく己の眼前に、崖からおちてゆく襖 (Fusuma) 一領 [もしくは襖 (Fusuma) 一本] を観たのだろうか。
もし、観たのならば、その光景をどの様に受けとめたのだろうか。
と、言うのは、襖 (Fusuma) というモノは、元来、おちるモノではないからだ。尤もそれは、襖 (Fusuma) 本来が、家屋のなかにあって果たすべき役割を態々に、指摘しようと言うのではない。そんなモノは自明の理だ。それさえもが不明ならば、ウィキペディア (Wikipedia) で検索すれば良い。
そこでは、日本語も含めれば、15もの言語で説明されている。
否、否。そおゆう話ではない。
物語の構造を考えれば、おちる襖 (Fusuma) という図式は、あり得ないのだ。
勿論、崩落する家屋の物語はある。
旧くは、エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) の『アッシャー家の崩壊 (The Fall Of The House Of Usher)』 [1839年刊行] だろうし、ぼく達世代にとっては、それはそのまま、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 吸血鬼エリート篇
(GeGeGe no Kitaro Episode "Vampire Johnny"』 [水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 週刊少年マガジン 1967年連載] にも『ウルトラQ 第9話『クモ男爵』
(Ultra Q Episode 9 : "Baron Spider")』 [監督:円谷一 脚本:金城哲夫 特技監督:小泉一 1966年放映 TBS系列] にも映画『長靴をはいた猫
(The Wonderful World Of Puss 'n Boots)』 [矢吹公郎 (Kimio Yabuki) 監督作品 1969年制作] にもなり得る。
しかし、そんな幾つも物語られた物語の中に、襖 (Fusuma) がおちる描写は登場しない筈なのだ。
何故ならば、元来が、日本家屋というモノは、崩落するモノではなくて、炎上というナラティヴィティの中にあるからである。
唯一、では流石にないかもしれないが、例外と言えるかもしれないモノをひとつだけ知っている。
それは、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) である。訳あって、そのその出典を示す事はここでは差し控えるけれども、ある意味で、その張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) のおちる様は、掲句での襖 (Fusuma) によく似ているかもしれない。そんな風に思えるのだ。
その一方で、『襖一つ崖を落ちゆく時間かな』を客観的な描写とは読まない解釈をしたヒトビトもいるかもしれない。
例えば、おちる襖 (Fusuma) を自己の投影と観る解釈である。
勿論、ここでの投影とは、ロデリックとマデラインのアッシャー兄妹 (Roderick Usher and Madeline Usher) や吸血鬼エリート (Vampire Johnny) やねずみ男 (Nezumi Otoko : Rat Man) や蜘蛛化してしまった父娘達に、己を準える事ではない。
その他の、これまで数限りなく描かれ来た物語の中の、崖上での格闘の後に落下する敗者の事でもない。
[その敗者の具体例を挙げようと思ったけれども、あまりに多すぎるので、却って誰が誰だか解らない。それの反証を敢て言えば、TV番組『仮面ライダー
(Kamen Rider : Masked Rider)』 [原作:石森章太郎 (Shotaro Ishinomori) 1971〜1973年放映 NET系列] の様に、落下する結果、風圧のエネルギーを得て、敗者から一転、勝者へと成り代わる物語もあるのだけれども、どのエピソードか解らない。確か原作マンガ『仮面ライダー
(Kamen Rider : Masked Rider)』[石森章太郎 (Shotaro Ishinomori) 作・画 週刊ぼくらマガジン〜 週刊少年マガジン 1971年連載] では蝙蝠男 (The Bat Man) のエピソードだと記憶しているが。だからここでは、第71話『怪人アブゴメス 六甲山大ついせき! (Monster Horseflygomes' Rokkoudai Mountain Pursuit)』で演じられた、アブゴメス (Horseflygomes) とのロープウェイ (Aerial Lift) 上でのアクションは見物でしたね、と、お茶を濁しておこうか。]
襖 (Fusuma) を自己投影と観る観方とは、例えば、安部公房 (Kobo Abe) の小説『棒
(The Stick)』[1955年発表。その戯曲版が『棒になった男
(The Man Who Turned Into A Stick)』[1957年初演] で、こちらの方が有名かもしれない] の様な、不条理な存在の象徴としての解釈なのである。
そして、この様な観方をした時点で初めて、下五「時間かな」の解釈の問題になるのではないだろうか。
つまり、おちる襖 (Fusuma) が、どの様にしておちてゆくのか、その解釈の可能性の巾の問題である。
竹岡一郎は前掲の『日めくり詩歌 俳句 竹岡一郎 (2012/11/02)』で、以下の様に記している。
「真新しい襖か、それとも古びた襖かは、読み手の年齢によるだろう。白襖か、何か絵が描いてあるかは、読み手の欲望によるだろう。だが、どんな襖であれ、今や崖から離れ、虚しく空間を落ちてゆく」

上記掲載画像は、ピーテル・ブリューゲル (Pieter Brueghel de Oude) の『イカロスの墜落のある風景 (Landschap met val van Icarus)』。
タイトルに記されている様に、太陽に近づきすぎて落下したイカロス (Icarus) は、海の藻屑と化すしか術はないが、それがナニかを変えるモノではない。この作品に描かれている様に、ヒトビトの様々な生活が営われているココでは、なんらの影響も遡及もしないのである。誰も彼の失墜を観ていないし、誰も彼の死に関心をもたない。彼の失墜とその死を"観ている"のは、画面中央で何処とも知らぬ虚空を"凝視める"ひとりの盲だけだ。
確かにそうなのだ。だが、これだけではおちる襖 (Fusuma) の、解釈の可能性を指摘するのには、不十分な気がする。
何故ならば、例えば"棒 (The Stick)"ならば、すとんとおちるべきところにおちて、それ以外の解釈の仕様がない。
しかし、襖 (Fusuma) の様な形状であるならば、いくらでも様々なおちる、そのおち方を想い描く事が出来るのかもしれないのだ。
占める大きさの割に、軽く薄いそれは、もしかしたら、おちる途上の風を受けて、どこかへと飛んで行ってしまうかもしれないからだ。
否、自力飛行は出来ないとしても、崖下からの上昇気流を受けて、滑らかに滑空し、いずこかで軟着陸しないとは、限らない。
さもなければ、それとは逆に、ずぶ濡れに濡れて原型を喪失し、観るも無惨な形状となってしまう、そんな可能性もあり得ない訳ではないのだけれども。
そんな些事に囚われ出すと、"棒 (The Stick)"と襖 (Fusuma) とどちらがマシなのだろうと、あらぬ方向へ思考の舵を切りかねないが、大事な点は、襖 (Fusuma) 自身に、それを演出する能力も意図も備わっていないかもしれないけれども、そのおちてゆく物語とおちていった先に待っている物語は、"棒 (The Stick)"よりは遥かにその可能性と多義性がある様に思える、と、言う事なのである。
もしも、あなたが掲句を読んで、そこに漂うある種の不条理感に囚われたとするのならば、参照物としては、『棒
(The Stick)』[1955年発表] やその戯曲版の『棒になった男
(The Man Who Turned Into A Stick)』[1957年初演] は相応しくないのではないか。何故ならば、そこではおちる事の一部のみが語られているからにすぎないからだ。
読むべきは『棒
(The Stick)』[1955年発表] でもその戯曲版の『棒になった男
(The Man Who Turned Into A Stick)』[1957年初演] でもなくて、むしろ、『東京ミキサー計画』 [赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 著 1984年刊行] ではないだろうか。
その『第12章 お茶の水のドロップ』として記録されているのは、1964年にハイレッド・センター [高松次郎、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa)、中西夏之] によって行われた"イヴェント"なのである。
「1964年10月10日、御茶ノ水にある池の坊会館の屋上にあらわれたのは、ハイレッド・センターの高松次郎です。落とす物を大型のトランクにたくさん詰めてしっかりと持ち、地球の表面を見下ろしております。これから落とすぞという芸術の表情です」
以上、章冒頭のリード部分をそのまま抜き書きしてみた。
本来ならば、その時その場で興り行われて来た事や、その本に記録されている事をとりあげて、論評すべきかもしれないけれども、それはある意味でネタバレである。
張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) の出典を控えるのと同様に、ここから先は、黙っているべきだろう。
てか、この面白さと馬鹿馬鹿しさは、実際に読んでみなければ解らないだろう。
ええとつまり、整理して纏めてみると、「虚しく空間を落ちてゆく」だけではない、それとは全く異なったおちる襖 (Fusuma) も存在し得るのではないだろうか。
そんな気がするのである。
と、言うのも、ぼく自身が掲句を読んで最初に想い描いたのが、ザ・キュアー (The Cure) のヒット曲『クロース・トゥ・ミー (Close To Me)』 [アルバム『ザ・ヘッド・オン・ザ・ドアー (The Head On The Door)
』収録 1985年発表] なのだからだった。
この曲のプロモーション・ヴィデオは、崖下へと顛落する洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) 一棹から始る。しかも、その洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) の中には、バンド・メンバーである5人の男性が押し込められていて、その窮屈な中で、音楽が奏でられてゆくのである。
曲は終始、軽快な手拍子によるビートが全編を支配し、ポップでストレンジなメロディに彩られて一夜の不条理な悪夢 [原詞はこちら / その邦訳はこちら] が語られて行く。
洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) のそとは、急降下の真っ最中なのにも関わらずに、窮屈ななかにいる5人は、落下と加速度によって発生する無重量状態を愉しんでいるかの様に、危機的状況とは無縁の環境下にいるのである。
こんな描写から、もしかしたら、ヒトはなにか教訓的なモノを見出そうとするかもしれない。そして勿論、そんな安っぽい物語は幾らでも出来てしまうのである。
が、しかし、そうではない。
いまここに崖下におちゆく一棹の洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) があって、しかもその中に大のオトナの男性が5人も閉じ篭っていて、さらには、暢気に歌なぞを歌っているのである。
能天気とも言えるし、恍けているとも言える。だが、それと同様に、気違いぢみた光景でもあるし、狂躁状態の真っただ中にあるとも言える。
きっと、どこからかで乾いた笑いが聴こえてくるだろう。そして、その乾いた笑いというモノは、ザ・キュアー (The Cure) というバンドを知るモノにとっては、既に御馴染みのモノなのである。
しかも、そんな乾いた笑いが、関悦史のこの句からも聴こえて来そうな気が、ぼくにはするのである。
次回は「な」。
附記 1:
乾いた笑いという点に於いては、その遥か前段に登場した、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) についても言える。
その張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) が登場せざるを得ない物語本来が、陰惨で凄惨なモノであるだけにそれにとらまれてふと失念してしまうが、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) というオブジェクトそのものは、むしろ、滑稽で喜劇的な存在なのではなかろうか。
原作者が意図したモノとはあくまでも別次元ではあるが、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) の物語は、ぼく達の少年時代の、毎週土曜日夜8時に、ブラウン管の中で行われてたコント
とさして違いはないだろう。しかも当時、そのコント番組放映の2時間後に、TVドラマ化された落下する張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) の物語
が放映されていたのである。
附記 2:
乾いた笑いそのものを説明するのは難しいのだけれども、例えば、これはどうだろう。
TV番組『ウルトラマン 第34話『空の贈り物』
(Ultraman Ultraman Epsode 34 : "A Gift From The Sky")』 [監督:実相寺昭雄 脚本:佐々木守 特技監督:高野宏一 1967年放映 TBS系列] では、物語冒頭から、様々なモノがおちてくる。
様々な自然現象上のモノの描写から始って、蝙蝠傘もおちてくれば、人間だっておちてくる [不謹慎だって!? でも実際におちてくる時だってあるのだから]。
だから、この物語ではその先の類推として、怪獣スカイドン (Skydon) がおちて来る。物語上では至って自然の流れであり、なんの不思議もない。むしろ、不思議なのは、そうやっておちたきたスカイドン (Skydon) を、いつもの回の様に、対峙して退治するのではなくて、もと来た宇宙へ還そうと科学特捜隊 (SSSP : Scientific Special Search Party) もウルトラマン (Ultraman) も躍起になるところである。
その先行番組の一エピソードである、似た様なタイトルの『ウルトラQ 第3話『宇宙からの贈りもの』
(Ultra Q Episode 3 : "A Present From Space")』 [監督:円谷一 脚本:金城哲夫 特技監督:川上景司 1966年放映 TBS系列] では、おちてきたナメゴン (Namegon) を必死に対峙して退治しようとするヒトビトの姿が描かれているから、尚更だ。尤も、このナメゴン (Namegon) は火星人 (Martian) がある目的をもって、おとしてきたのだから、それを考慮すれば当然なのかもしれないが。
そして、もと来た宇宙へ還そうと努力すればするだけ、その作戦は何故だか無様な失敗を遂げてしまう。それはどおゆうことか。つまり、また、再び、スカイドン (Skydon) は地上へと落下して来てしまうのである。
物語の元型として、上昇と下降の物語があるけれども、ここでは、只管に下降するだけだ。上昇はただ、下降の為の婢にしか過ぎない。それに科学特捜隊 (SSSP : Scientific Special Search Party) もウルトラマン (Ultraman) も翻弄されるだけなのである。
しかも、スカイドン (Skydon) の物語をそのままプロローグとして、もうひとつの落下物の物語が『ウルトラマン 第35話『怪獣墓場』
(Epsode 35 : "The Monster Graveyard")』 [監督:実相寺昭雄 脚本:佐々木守 特技監督:高野宏一 1967年放映 TBS系列] で語られるのである。
附記 3:
掲句への論評『日めくり詩歌 俳句 竹岡一郎 (2012/11/02)』が掲載された時季と前後して、同じ俳人の句『四次元はわれらを見つつ萌えてゐる』が『スピカ』の『よむ』に掲載された。
その論評では野口る理によって「萌える」という語句に着目されて解説されているけれども、ぼくはむしろ四次元からの視点の登場の方に、反応してしまう。と、いうのは、様々なSF作品の [その古典的で大衆的なモノの] その殆どに登場する四次元人 (The Fourth Dimension Man) は侵略者としての役割を担っていて、何故、彼らが一次元下の三次元を掌中に収めようとするのか、その動機が不分明だったからだ。
結果、その解決がこの句でなされている様に読めてしまうのだ。
つまり、三次元人、つまり我々が二次元に萌えている様に、四次元人 (The Fourth Dimension Man) は三次元に萌えているのだ、と。
ちなみに、この拙稿の表題が『ふすまひとつがけをおちゆくじかんかな』としてあるのは、この連載企画の趣旨とルールに従っているだけで、他意も悪意もない。
文中総て敬称略で押し通しているのと、同様だ [請了承]。
と、いつもは平気の平左で素通りするところを、いちいち、顰め面して断りを入れたのは今回、読むヒト [もしくは詠むヒト] にとっては、語句いちもじいちもじの違いに激しく凄まじく、拘泥する部分があるかもしれない、と思ったからだ。
勿論、いつもの様にこれから後に続く文章では、暴論や極論がまかりとおっているのだけれども、少なくともその論拠にも派生要件にも、表題そのものはなり得ないし、関知していないのである。
さて、あらためて、 関悦史『襖一つ崖を落ちゆく時間かな』である。
この句を読んだヒトは、まさしく己の眼前に、崖からおちてゆく襖 (Fusuma) 一領 [もしくは襖 (Fusuma) 一本] を観たのだろうか。
もし、観たのならば、その光景をどの様に受けとめたのだろうか。
と、言うのは、襖 (Fusuma) というモノは、元来、おちるモノではないからだ。尤もそれは、襖 (Fusuma) 本来が、家屋のなかにあって果たすべき役割を態々に、指摘しようと言うのではない。そんなモノは自明の理だ。それさえもが不明ならば、ウィキペディア (Wikipedia) で検索すれば良い。
そこでは、日本語も含めれば、15もの言語で説明されている。
否、否。そおゆう話ではない。
物語の構造を考えれば、おちる襖 (Fusuma) という図式は、あり得ないのだ。
勿論、崩落する家屋の物語はある。
旧くは、エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) の『アッシャー家の崩壊 (The Fall Of The House Of Usher)』 [1839年刊行] だろうし、ぼく達世代にとっては、それはそのまま、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 吸血鬼エリート篇
しかし、そんな幾つも物語られた物語の中に、襖 (Fusuma) がおちる描写は登場しない筈なのだ。
何故ならば、元来が、日本家屋というモノは、崩落するモノではなくて、炎上というナラティヴィティの中にあるからである。
唯一、では流石にないかもしれないが、例外と言えるかもしれないモノをひとつだけ知っている。
それは、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) である。訳あって、そのその出典を示す事はここでは差し控えるけれども、ある意味で、その張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) のおちる様は、掲句での襖 (Fusuma) によく似ているかもしれない。そんな風に思えるのだ。
その一方で、『襖一つ崖を落ちゆく時間かな』を客観的な描写とは読まない解釈をしたヒトビトもいるかもしれない。
例えば、おちる襖 (Fusuma) を自己の投影と観る解釈である。
勿論、ここでの投影とは、ロデリックとマデラインのアッシャー兄妹 (Roderick Usher and Madeline Usher) や吸血鬼エリート (Vampire Johnny) やねずみ男 (Nezumi Otoko : Rat Man) や蜘蛛化してしまった父娘達に、己を準える事ではない。
その他の、これまで数限りなく描かれ来た物語の中の、崖上での格闘の後に落下する敗者の事でもない。
[その敗者の具体例を挙げようと思ったけれども、あまりに多すぎるので、却って誰が誰だか解らない。それの反証を敢て言えば、TV番組『仮面ライダー
襖 (Fusuma) を自己投影と観る観方とは、例えば、安部公房 (Kobo Abe) の小説『棒
そして、この様な観方をした時点で初めて、下五「時間かな」の解釈の問題になるのではないだろうか。
つまり、おちる襖 (Fusuma) が、どの様にしておちてゆくのか、その解釈の可能性の巾の問題である。
竹岡一郎は前掲の『日めくり詩歌 俳句 竹岡一郎 (2012/11/02)』で、以下の様に記している。
「真新しい襖か、それとも古びた襖かは、読み手の年齢によるだろう。白襖か、何か絵が描いてあるかは、読み手の欲望によるだろう。だが、どんな襖であれ、今や崖から離れ、虚しく空間を落ちてゆく」

上記掲載画像は、ピーテル・ブリューゲル (Pieter Brueghel de Oude) の『イカロスの墜落のある風景 (Landschap met val van Icarus)』。
タイトルに記されている様に、太陽に近づきすぎて落下したイカロス (Icarus) は、海の藻屑と化すしか術はないが、それがナニかを変えるモノではない。この作品に描かれている様に、ヒトビトの様々な生活が営われているココでは、なんらの影響も遡及もしないのである。誰も彼の失墜を観ていないし、誰も彼の死に関心をもたない。彼の失墜とその死を"観ている"のは、画面中央で何処とも知らぬ虚空を"凝視める"ひとりの盲だけだ。
確かにそうなのだ。だが、これだけではおちる襖 (Fusuma) の、解釈の可能性を指摘するのには、不十分な気がする。
何故ならば、例えば"棒 (The Stick)"ならば、すとんとおちるべきところにおちて、それ以外の解釈の仕様がない。
しかし、襖 (Fusuma) の様な形状であるならば、いくらでも様々なおちる、そのおち方を想い描く事が出来るのかもしれないのだ。
占める大きさの割に、軽く薄いそれは、もしかしたら、おちる途上の風を受けて、どこかへと飛んで行ってしまうかもしれないからだ。
否、自力飛行は出来ないとしても、崖下からの上昇気流を受けて、滑らかに滑空し、いずこかで軟着陸しないとは、限らない。
さもなければ、それとは逆に、ずぶ濡れに濡れて原型を喪失し、観るも無惨な形状となってしまう、そんな可能性もあり得ない訳ではないのだけれども。
そんな些事に囚われ出すと、"棒 (The Stick)"と襖 (Fusuma) とどちらがマシなのだろうと、あらぬ方向へ思考の舵を切りかねないが、大事な点は、襖 (Fusuma) 自身に、それを演出する能力も意図も備わっていないかもしれないけれども、そのおちてゆく物語とおちていった先に待っている物語は、"棒 (The Stick)"よりは遥かにその可能性と多義性がある様に思える、と、言う事なのである。
もしも、あなたが掲句を読んで、そこに漂うある種の不条理感に囚われたとするのならば、参照物としては、『棒
読むべきは『棒
その『第12章 お茶の水のドロップ』として記録されているのは、1964年にハイレッド・センター [高松次郎、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa)、中西夏之] によって行われた"イヴェント"なのである。
「1964年10月10日、御茶ノ水にある池の坊会館の屋上にあらわれたのは、ハイレッド・センターの高松次郎です。落とす物を大型のトランクにたくさん詰めてしっかりと持ち、地球の表面を見下ろしております。これから落とすぞという芸術の表情です」
以上、章冒頭のリード部分をそのまま抜き書きしてみた。
本来ならば、その時その場で興り行われて来た事や、その本に記録されている事をとりあげて、論評すべきかもしれないけれども、それはある意味でネタバレである。
張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) の出典を控えるのと同様に、ここから先は、黙っているべきだろう。
てか、この面白さと馬鹿馬鹿しさは、実際に読んでみなければ解らないだろう。
ええとつまり、整理して纏めてみると、「虚しく空間を落ちてゆく」だけではない、それとは全く異なったおちる襖 (Fusuma) も存在し得るのではないだろうか。
そんな気がするのである。
と、言うのも、ぼく自身が掲句を読んで最初に想い描いたのが、ザ・キュアー (The Cure) のヒット曲『クロース・トゥ・ミー (Close To Me)』 [アルバム『ザ・ヘッド・オン・ザ・ドアー (The Head On The Door)
この曲のプロモーション・ヴィデオは、崖下へと顛落する洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) 一棹から始る。しかも、その洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) の中には、バンド・メンバーである5人の男性が押し込められていて、その窮屈な中で、音楽が奏でられてゆくのである。
曲は終始、軽快な手拍子によるビートが全編を支配し、ポップでストレンジなメロディに彩られて一夜の不条理な悪夢 [原詞はこちら / その邦訳はこちら] が語られて行く。
洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) のそとは、急降下の真っ最中なのにも関わらずに、窮屈ななかにいる5人は、落下と加速度によって発生する無重量状態を愉しんでいるかの様に、危機的状況とは無縁の環境下にいるのである。
こんな描写から、もしかしたら、ヒトはなにか教訓的なモノを見出そうとするかもしれない。そして勿論、そんな安っぽい物語は幾らでも出来てしまうのである。
が、しかし、そうではない。
いまここに崖下におちゆく一棹の洋服箪笥 (A Chest Of Drawers) があって、しかもその中に大のオトナの男性が5人も閉じ篭っていて、さらには、暢気に歌なぞを歌っているのである。
能天気とも言えるし、恍けているとも言える。だが、それと同様に、気違いぢみた光景でもあるし、狂躁状態の真っただ中にあるとも言える。
きっと、どこからかで乾いた笑いが聴こえてくるだろう。そして、その乾いた笑いというモノは、ザ・キュアー (The Cure) というバンドを知るモノにとっては、既に御馴染みのモノなのである。
しかも、そんな乾いた笑いが、関悦史のこの句からも聴こえて来そうな気が、ぼくにはするのである。
次回は「な」。
附記 1:
乾いた笑いという点に於いては、その遥か前段に登場した、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) についても言える。
その張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) が登場せざるを得ない物語本来が、陰惨で凄惨なモノであるだけにそれにとらまれてふと失念してしまうが、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) というオブジェクトそのものは、むしろ、滑稽で喜劇的な存在なのではなかろうか。
原作者が意図したモノとはあくまでも別次元ではあるが、張り子 (Papier-machre) の鐘 (Bell) の物語は、ぼく達の少年時代の、毎週土曜日夜8時に、ブラウン管の中で行われてたコント
附記 2:
乾いた笑いそのものを説明するのは難しいのだけれども、例えば、これはどうだろう。
TV番組『ウルトラマン 第34話『空の贈り物』
様々な自然現象上のモノの描写から始って、蝙蝠傘もおちてくれば、人間だっておちてくる [不謹慎だって!? でも実際におちてくる時だってあるのだから]。
だから、この物語ではその先の類推として、怪獣スカイドン (Skydon) がおちて来る。物語上では至って自然の流れであり、なんの不思議もない。むしろ、不思議なのは、そうやっておちたきたスカイドン (Skydon) を、いつもの回の様に、対峙して退治するのではなくて、もと来た宇宙へ還そうと科学特捜隊 (SSSP : Scientific Special Search Party) もウルトラマン (Ultraman) も躍起になるところである。
その先行番組の一エピソードである、似た様なタイトルの『ウルトラQ 第3話『宇宙からの贈りもの』
そして、もと来た宇宙へ還そうと努力すればするだけ、その作戦は何故だか無様な失敗を遂げてしまう。それはどおゆうことか。つまり、また、再び、スカイドン (Skydon) は地上へと落下して来てしまうのである。
物語の元型として、上昇と下降の物語があるけれども、ここでは、只管に下降するだけだ。上昇はただ、下降の為の婢にしか過ぎない。それに科学特捜隊 (SSSP : Scientific Special Search Party) もウルトラマン (Ultraman) も翻弄されるだけなのである。
しかも、スカイドン (Skydon) の物語をそのままプロローグとして、もうひとつの落下物の物語が『ウルトラマン 第35話『怪獣墓場』
附記 3:
掲句への論評『日めくり詩歌 俳句 竹岡一郎 (2012/11/02)』が掲載された時季と前後して、同じ俳人の句『四次元はわれらを見つつ萌えてゐる』が『スピカ』の『よむ』に掲載された。
その論評では野口る理によって「萌える」という語句に着目されて解説されているけれども、ぼくはむしろ四次元からの視点の登場の方に、反応してしまう。と、いうのは、様々なSF作品の [その古典的で大衆的なモノの] その殆どに登場する四次元人 (The Fourth Dimension Man) は侵略者としての役割を担っていて、何故、彼らが一次元下の三次元を掌中に収めようとするのか、その動機が不分明だったからだ。
結果、その解決がこの句でなされている様に読めてしまうのだ。
つまり、三次元人、つまり我々が二次元に萌えている様に、四次元人 (The Fourth Dimension Man) は三次元に萌えているのだ、と。
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