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2012.08.24.05.31

処暑と二十四節気と七十二侯:『ほぼ日刊イトイ新聞』の『くらしのこよみ 「ほぼ日」ver. 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記』と『週刊俳句 Haiku Weekly』の『「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ!』を題材に

昨日は処暑 (Chushu) で、このことばの顕わしているモノが正しければ、「暑さが止む」訳だけれども、実際は、猛暑日であってその勢いのままに熱帯夜に突入。これが偶々の一両日の事で済めば、"誤差"として素通りしてしまう事も出来なくはない。だが、残念この上ない事に、うんざり至極にも、この暑さは梅雨明け辺りからずうっと続いて来た上に、天気予報 (Weather Forecasting) によれば、まだまだ、続いていく様な案配なのである。

しかも、ぼく自身と言えば、あまりの暑さで寝付かれないばかりか、その余勢をかって深夜に風呂を浴びたは良いものの、かえって湯上がりにしとどに汗まみれになってしまって、入浴してしまった事を後悔する事頻り、という体たらくなのである。

と、言う事はあまり本題とは関係ないのだけれども、どこかで毒づいておかないと、妙なところで喧嘩腰にでもなりかねないから、ここで瓦斯抜き (Degas) を試みておいた。


ほぼ日刊イトイ新聞』では、立秋 (Liqiu) から『くらしのこよみ 「ほぼ日」ver. 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記』の連載がスタートしている。
これは、あずま女と京おとこを名乗る男女の対談形式の記事でもって、リアルタイムで、七十二候を紹介していく連載。つまり、一年かけて、72の季節のことばを紹介しようという試みの様なのだ。
男女ふたりの掛け合いで紹介されている、関東と関西の季節感の認識の違いが、随時、顔をのぞかせている。
また、掲載されている図版は総て『和漢三才図会 (Wakan Sansai Zue : Illustrated Sino-Japanese Encyclopedia)』 [寺島良安 (Terajima Ryoan) 編集 1712年刊行] からのモノであって、対談を離れて、それらを観るだけでも愉しい。
連載開始から既に『第三十七候 涼風至』『第三十八候 寒蝉鳴』『第三十九候 蒙霧升降』が紹介済みであって、昨日の処暑 (Chushu) で『第四十候 綿柎開』が紹介されたのである。

と、さも知たり顔で文章を綴ってみせてはいるけれども、その実、七十二候ということばも実際も、この連載で初めて知ったのは、このぼくなのだ。
記事冒頭のリードで、日常的に使われている四季 (Le quattro stagioni) や二十四節気 (Solar Term) を「さらにこまかく分けたもの」として七十二候を紹介している訳だけれども、その次を読むとちょっと吃驚させられる。
と、言うのも「季節ってだいたい5日にいちどめぐってくる」からだ。一週間よりも短いスパン、さすがに新聞には遠く及ばないものの、週刊誌よりも年間の発行号数が多いのだ。
あらためて、日本人の季節への繊細なまなざしと、それを語り尽くすことばの豊穣さに気づかされた次第なのである。

と、言うのは、落語 (Rakugo) で言う処の単なる、本題はむしろ、ここからなのである。
七十二候のひとつ上の階層にある二十四節気 (Solar Term) について、なのである。

週刊俳句 Haiku Weekly』で、島田牙城による記事『「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ!』が掲載されている。
この記事に書かれている事を、ぼくなりに読んでみたいのだ。

事の発端は、日本気象協会 (Japan Weather Association)二十四節気 (Solar Term) の見直しの宣言を発した事にある。それに対しての異議申し立てなのだ。
と、同時に、これまで通説の様に思われていた俳人や研究家等の、二十四節気 (Solar Term) への従来からの認識の、誤りを指摘する。
そしてさらに、自身の新しい二十四節気 (Solar Term) の説を述べているのである。

その記事中には、日本気象協会 (Japan Weather Association)二十四節気 (Solar Term) の見直しを宣言した理由が述べられてはいないけれども、ぼくが考えるのには、恐らく、こんな事情があったのではないかと思われる。

ぼく達の幼い頃は、天気予報 (Weather Forecasting) とは当たらないモノの代名詞であって、"明日天気になあれ"と叫んで抛って墜ちた靴の姿勢や、『ノストラダムスの大予言 (Les Propheties)』 ノストラダムス (Nostradamus) 著 1555年刊行] の方が、よっぽど信憑性があったと記憶している。
だが、時代を経るに従って、技術革新や、日々時々刻々と集積されていく情報の蓄積によって、天気予報 (Weather Forecasting) の精度もかなり精緻なモノとなってきた。
しかし、その一方で、地球温暖化 (Global Warming) の影響なのだろうか、これまでにはあり得ない天候の変化や、ごく限られた地域でのごく限られた時間での天候も登場しているのである。それらは、いずれ、これまでと同様に、技術革新や情報の蓄積やリアルタイムに瞬時に行われる情報解析によって、予報可能となるのかもしれない。
だがしかし、それにも関わらず、ひとつ問題が遺る。
そんな、気象状況を語ることばが、日本気象協会 (Japan Weather Association) には、ないのである。
だから、新しい語彙を獲得する必要もあるだろうし、それと同時に、これまで流通していた語彙の中から、消費期限 (Shelf Life) を過ぎたモノと賞味期限 (Shelf Life) を過ぎたモノを洗い直し、日本気象協会 (Japan Weather Association) として提供しうる品質が保全された語彙だけを、今後とも使用し提供していきたい。
そんな意図が宣言の裏にあるのではないだろうかと、ぼくは推理する。

猶、記事中によれば、日本気象協会 (Japan Weather Association)金丸努曰く「現行の二十四節気は残します」との事である。

一方で、それに対抗すべき、俳人や研究家等の認識は如何の通りである。
本来、暦は中国から輸入したモノであり、日本国内の気象状況をそのまま顕わしたモノではない。つまり、二十四節気 (Solar Term) には、あらかじめ、生活実感と暦には「ずれ」が内包されている。そして、その「ずれ」を受け入れる事によって、日本の文化は産まれ育まれて来たのである。

記事中で紹介されているモノをぼくなりに咀嚼し、大雑把に纏めてみれば、上の様な要約になる。
但し、上の要約では、もっとずっと大事なモノも欠落している可能性もなきにしもあらずだ。だから、少なくとも実際に、記事中で紹介されている説を読んでもらいたい。
記事本文には、俳人長谷川櫂、俳人宇多喜代子そして歴史家岡田芳朗の発言が、引用されているから、細かいニュアンスや発言の機微に関しては、そちらをあたって彼らの主張と意図するモノを読み取ってもらいたいのである。

それに対して、島田牙城の主張はこうなのだ。
欧米の季節の認識が"暑い時期が夏"、"寒い時期が冬"であるのに対し、二十四節気 (Solar Term) では「最も寒い(暑い)時期を過ぎたら春が立つ(秋が立つ)」という考えなのである。この差異が生じる原因を、欧州型狩猟民族と極東型農耕民族という違いに求め、二十四節気 (Solar Term) の根幹を成す概念を、島田牙城は「峠の文化としての春夏秋冬」と呼んでいる。
そして、その認識は、日本でも中国でも同じモノであり、そこには「ずれ」はない、と言うのである。

一読しただけでは、"暑い時期が夏"、"寒い時期が冬"という認識と、「最も寒い(暑い)時期を過ぎたら春が立つ(秋が立つ)」という認識の、どこに違いがあるのか解らない。
記事中では、それぞれの概念の違いを図表にして詳細に解説しているから、そちらをあたられるべきだろう。

ただ、ここでぼくなりの解釈を書いてみると、欧州型狩猟民族の認識が期間であるのに対して、極東型農耕民族のそれは瞬間である、という事になるのだろうか。
妙な喩えで申し訳ないけれども、円形のホール・ケーキを斬り分ける場合に、斬り分けたケーキのサイズを重視するのが前者で、どの位置に刃を充てるのかを重視するのが後者なのである。
単純に考えれば、その期間内になにを為すべきなのかを重要視しているのが前者であり、いつなにを始めるべきかを重点を置いているのが、後者なのだ。
そして、その差異が産まれる原因を、狩猟と農耕という、それぞれの生産様式の違いに求めているのである。

俳人長谷川櫂、俳人宇多喜代子そして歴史家岡田芳朗等による従来の「ずれ」論と島田牙城のこの「峠の文化としての春夏秋冬」論を比較すると、多分に気分的なモノに終始している前者よりも、あらゆる視点から考察している後者の方が、説得力がある様に思える。
尤も、前者の論に関しては、この記事で引用されている部分でしか推し量る事が出来ていないから、その辺は、差し引いて考えるべきなのかも知れない。
いずれにしろ、「ずれ」論を解読し主張するのには、古今の文献や資料をあたって、その時代その時代のヒトビトが「ずれ」というモノに向き合っていたか否やを調査する必要があるのではないかと、想う。と、言うか、それは既に行われていてしかるべきである、と言うべきなのか。

ところで、この記事を読みながら、ぼくにはひとつ、謎が沸き上がってしまって仕様がないのである。

それは" (Seasonal Food)"ということばだ。

いろいろな作物や産物の、ある特定の時季に産出されたモノを"今が (Seasonal Food)"もしくは" (Seasonal Food) のもの"と呼び習わして重宝し、他の時季のモノと差別化する。
このことばが総て一様に、同じ意味のモノとして使われているのならば、なんの問題もない。
しかし、時宜それぞれに於いて、作物や産物のそれぞれに於いて、微妙にそれを指し示すモノが違う。

つまり、"今が (Seasonal Food)"もしくは" (Seasonal Food) のもの"は、必ずしも、最も美味しい時季のモノを指すとは限らないし、最も収穫量が多い時季のモノを指すとは限らない。
場合によっては、初物を指す事もある。
しかも、それがきちんと使い分けられているというよりも、話者の都合で、どうとにでもなる様なかたちで発話されているのだ。

その一番解りやすい例が土用の丑の日鰻の蒲焼き (Kabayaki) である。
ご存知の様に、本来はその時季に売上げが落ちる鰻の蒲焼き (Kabayaki) の販売促進効果を狙って、平賀源内 (Hiraga Gennai) が考案した、その惹句が土用の丑の日
爾来、この日が鰻の蒲焼き (Kabayaki) にとっては"今が (Seasonal Food)"もしくは" (Seasonal Food) のもの"と相成っている。
だが実際に鰻の蒲焼き (Kabayaki) が一番美味しい時季は、脂の乗り切った秋なのである。

こんなかたちで使われる" (Seasonal Food)"をどう解釈すべきなのか。
なんとなく二十四節気 (Solar Term) を考える際に、同じ問題が臥たわっている様に、思えるのだ。
だからと言って、この" (Seasonal Food)"を、俳人長谷川櫂、俳人宇多喜代子そして歴史家岡田芳朗等の「ずれ」で説明出来るのか、島田牙城の「峠の文化としての春夏秋冬」で説明できるのか、それは解らない。

ただ、現在ならば産地直送と謳って、一日も間を置かずに作物や産品が流通するのに対し、かつては生産地から消費地に到達するまでにかなりの日数がかかるのだ。
それを見越して考えれば、希少価値や味覚を主張する場合に"今が (Seasonal Food)"もしくは" (Seasonal Food) のもの"と謳う事は、かなりの効果がある様に思える。

つまり、逆に観れば、全国各地の作物や産品がどこにいても滞りなく流通するという市場が形成されて初めて成立することばなのだ。

そして、その市場が形成されていく過程は、季節を語ることばである季語 (Kigo) が次から次へと新しく産まれる時季 [こちらこちらを参照] にも合致し、と同時に、季語 (Kigo) を詠み込む事が制度化されている俳句 (Haiku) が、産まれ育まれていく時季とも合致している様にも、ぼくには観えるのである。

なお、文中総て、敬称略とさせて頂いた。
ご了承を願う次第である。
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