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2012.08.14.17.01

どぶねずみ

今ではなかなか観る事は出来なくなってしまった光景なのだけれども、小学生の頃は、登校時には、よく観たモノだ。
それは、溝鼠 (Brown Rat) の礫屍体 (A Roadkilled) である。

血反吐を吐き、内蔵の一部が露出し、クルマの轍によって轢き潰されたそれは、アスファルトの地肌を背景にして描かれた、創作物の様に、ぼくには思えた。
そこにあるのは、生々しくも嫌らしく、そして、惨めったらしい、ひとつの死であったけれども、だからと言って、その死にリアリティなぞ、一切、感じる事はなかった。

溝鼠 (Brown Rat) はちいさい影であり、奔る影であり、ぼく達のすぐ側にありながら、決してその本性を顕わさないモノなのである。

だから、後年、歌舞伎町 (Kabukicho) の路地裏や渋谷駅ハチ公口 (Hachiko Exit At Shibuya Station) を奔る彼らに遭遇したその時こそ、彼らを彼らと認めた瞬間なのである。

路上に、その死を曝す事は、彼らにとってあり得るかもしれない死のひとつでしかないのかもしれないが、当時のぼくから観れば、愚かで嘆かわしい失敗の構図にしか観えなかったのだ。

images
ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ (Jean de la Fontaine) の『寓話 (Fables de Jean de La Fontaine)』 [16681694年発表] の一譚『ネズミの饗宴 (Le rat de ville et le rat des champs)』よりギュスターヴ・ドレ (Gustave Dore) 画『ネズミの饗宴 (Le rat de ville et le rat des champs)』 [18321833年頃の作]。

ある種の戦後文学や、ある種の映画や音楽のなかに、溝鼠 (Brown Rat) は、事あるごとに登場する。
それは、街に蠢くモノ、都市の最下層に暮すモノが、自身を半ば嘲る様に半ば讃える様にして語る際の、比喩として顕われる。
今、暮しているここから逃げ出す為の口実になったり、己の犯してしまった罪の元凶を語る動機になったり、もしくは、眼前にいる恋人と共にささやかな幸せを夢観たり。
様々な装いや意図や象徴を担って、溝鼠 (Brown Rat) は顕われる。
しかも、そこで溝鼠 (Brown Rat) に仮託して語られる、彼らの未来や計画や夢の悉くは、破綻し失敗し悪夢と化して潰えてしまう。

にも関わらずに、彼らは、己が溝鼠 (Brown Rat) でしかない事を、自覚し自嘲し卑下すると同時に、そこに潜む逞しさや太々しさを讃え誇らし気に、語らずを得ないのだ。

だから、ザ・ブルーハーツ (The Blue Hearts) の『リンダリンダ (Linda Linda)』[1987年発表 『オール・タイム・シングルス (All Time Singles〜Super Premium Best)』収録] で唄われているそれは、そんな溝鼠 (Brown Rat) が担っている一切合切を総てひっくるめたその上で、「美しくなりたい」と、羨望のまなざしを向けているのではないだろうか。

つまり、声高にその歌を唄うきみは、そんな「どぶねずみ」ですら、ないのだ。
「やさしい」ということばの真意をきっときみは、曲解している [歌詞はここにある]。

次回は「」。
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