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2012.08.06.17.09

Ascii.jpの『四本淑三の「ミュージック・ギークス!」』で、『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英 × 佐藤秀峰【職業編】』と『同【業界編】』を読む

プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英 × 佐藤秀峰【職業編】』の冒頭で、この対談が成立した経緯を説明してあるけれども、念の為に、ここでもそれを確認するところから始める。

最初に、音楽プロデューサー佐久間正英が、自身のブログで『音楽家が音楽を諦める時』という記事を掲載する。
そこで投げかけられた論点に呼応する様に、漫画家の佐藤秀峰が自身のブログで『漫画家が漫画を諦める時』という記事を掲載する。
そのふたつの『諦める時』の延長線上、交差するところで、この『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英 × 佐藤秀峰』が前後2回、アスキー・ジェーピー (Ascii. jp) の『四本淑三の「ミュージック・ギークス!」』で掲載された。前篇が『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英 × 佐藤秀峰【職業編】』 [以下職業編と略] で、後篇が『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英 × 佐藤秀峰【業界編】』 [以下業界編と略] という訳だ。

確認序でに書いておくと、佐久間正英はかねてから佐藤秀峰の作品のファンであるが、一方の佐藤秀峰は、佐久間正英の作品に意識的に向かった事はない。文中から引用すれば「[佐久間さんのプロデュース作を] 知らずにいっぱい聴いている」 [『職業編2頁目] となるのだろうか。

なお、引用部分を除いて、文中総て敬称略とさせてもらった。
了承を願う次第である。

ちなみに、この記事を書いているぼく自身の立ち位置を説明すると、以下の様になる。

あるアーティストの作品を手に入れたり、聴いたりして、その結果、その作品のプロデューサーが佐久間正英だったというケースは多々あるけれども、佐久間正英のプロデュス作品だから、という事実が、その作品を入手したり聴いたりする動機付けにはなった事はない。彼がメンバーとして参加していた四人囃子プラスチックスも、だ。
そういう意味では佐藤秀峰の「知らずにいっぱい聴いている」のに近いのかもしれない。

その一方、佐藤秀峰の作品に対しても、偶々入手した漫画雑誌に彼の作品が掲載されていたり、別の作品目当てで入手した雑誌に彼の作品が掲載されていたりした場合に読むばかりで、こちらも意識的にその作品に向かう事はない。
業界編2頁目で、佐藤秀峰の代表作『海猿』 [19992001週刊ヤングサンデー連載] に対して「『海猿』なんかは『漫画もあるらしいよ』くらいの感じ」という誤解にも似た認識が成立してしまっている様なのだけれども、ぼく自身がこの記事を読んで初めて、『海猿』 [19992001週刊ヤングサンデー連載] が佐藤秀峰の作品と知った次第なのである。
ただ、『職業編』冒頭で紹介されている「前時代的な出版業界に対して正論を言い続け、様々な形で戦」い「来たるべき電子出版時代に備え、自身で『漫画 On Web』という参加型の漫画配信サイトを運営し、そこから自身の作品も配信している」という点に関しては、その経緯をネット上で時配信されているニュース等で、その都度、フォローしていた記憶はあるのだ。

だから、そんな、近くて遠い、もしくは、遠くて近い、音楽プロデューサーと漫画家よりも、この対談をセッテイングして記事に仕立て上げた四本淑三の方が、遥かに近く慣れ親しんでいたのかもしれない [と言って彼の事を書き出すと本筋から逸れてしまうからここではしない]。

ちなみに、音楽業界の中での、制作行程やその結果派生する様々な権利関係に関しては、多少の知識はあるつもりだけれども、漫画業界ひいては出版業界におけるそれらに関しては、殆ど知識はない。だから、どうしても音楽の世界で起きている事や行われている事を敷衍して、漫画の世界や出版の世界を観るかたちになってしまう。
だから、これからぼくが書こうとしている事も、その辺りを割り引いたかたちで読んでもらうと、有り難いと想う。

さて、一読した感想を述べてみると、期待したモノ以上のモノは読み取る事は出来ないのであった。ある意味で、隔靴掻痒の感がなきにしもあらずで、それぞれのブログを読んだ際に感じたモノ以上に、強く印象に遺るモノはない。
尤も、それぞれがそれぞれのインタヴュアーの様な役割を果たして導き出される、それぞれの仕事に対するスタンスは面白いし、彼ら自身やその作品群への興味も沸く。
佐久間正英に関しては『職業編5頁目で、佐藤秀峰に関しては同じく『職業編4頁目で読む事が出来る。

そして、本来ならば、それぞれの業界に潜む問題点や課題へと話題は及ぶべきだし、実際に対談はそこへ向かおうとしているのだけれども、あまり、深まった議論には至らない。
それぞれの業界に相通じる問題点や課題はすぐに解るのだけれども、それ自体は、創作の現場が内包している問題や課題というよりも、他の業界や他の業種、ひいては現在の日本の労働環境にそのまま普遍化出来るモノなのである。
業界編最終頁佐久間正英が、次の様に語っている。

「もし問題が同じなら、変わり方も同じ。一旦潰れて何かが起きるか、あるいは別の動きが起きてくるか。いすれにしても何か大きな変化の前兆には違いないんじゃないかな。」

つまり、この対談の枝葉を刈り取った根元を、さらに抽象化させてみれば、読者によっては、音楽業界や漫画業界や出版業界に限定されたモノではない、自身の足許に臥たわるモノと観えるかもしれないのだ。

ところで、気になることがひとつある。
佐久間正英の「ひとりで描いて、ストーリーも作れる。それってひとりで映画を作れちゃう感じ」 [『職業編3頁目] という発言や、四本淑三の「漫画にはプロデューサーっていないんですか?」 [『職業編5頁目] という質問の中にあるモノを裏切る様な発言がいくつも佐藤秀峰から登場してくるのだ。
例えば、次のみっつの発言。

「漫画を描くのに場所も必要ですし、人件費もかかりますし、いろいろ維持していくのにお金はかかる」 [『職業編2頁目、より詳しくは『業界編』冒頭で語られている]
「音楽の場合でしたら、制作費を出した人が権利を持つのは、まだ納得がいくんですけど、漫画の場合、制作費は漫画家が100%負担してるんです」 [『業界編3頁目]
「掲載されて原稿料が何ヵ月後かに振り込まれるというだけなんですね。あれは誌面への掲載料ですから」 [『業界編3頁目]

これはとりもなおさず、漫画家自身がプロデューサーであると同時に、「音楽の場合」での「制作費を出した人」であると読めるのではないだろうか。
つまり、「音楽の場合」での「制作費を出した人」をレコード会社とかレコード・レーベルと呼ぶのであるのならば、漫画家自身がレコード会社とかレコード・レーベルに該当する存在であるべきなのだ。その場合、所謂、出版社は、製造や流通や販売の窓口機関という位置づけになってしまうのだけれども。

しかも、「音楽の場合」「制作費を出した人が権利を持つ」のであるならば、漫画の場合も「制作費を出した人が権利を持つ」べきなのではないだろうか。
業界編3頁目で、著作隣接権の問題が語られているのだけれども、ここまで引用してきたモノを読んでみれば、その帰属は本来、誰に行くべきかは自ずと知れてしまう様に想える。

そうすると、同じ頁にある四本淑三の発言「漫画と音楽は逆方向に進んでいる」という事象は、果たして正しい在り方なのだろうか、という疑問が浮かんでしまうのだ。

例えば仮に「逆方向に進」む事がありうべき正しいモノであるならば、音楽の世界と漫画の世界は、全く異なる業種になってしまう。他業種からの参入も難しくなるだろうし、音楽の世界と漫画の世界の、コラボレーションと言うのは、もしかすると今よりも難しくなってしまうかもしれない。
でも、もし仮に同じ方向に進む事がありうべき正しいモノであると同時に、実際に同じ方向へ向かう事が可能ならばどうなのだろう。制作の現場を一元管理出来るだけでなく、そこから発生する筈の様々な権利関係の処理も、同じ方法論で出来るかもしれない。そうすれば、異業種からの新規参入や新しい創作の現場も創出出来るのかもしれないのだ。
インターネット上では、そもそもが、音楽であれ漫画であれ、アプリケーションの差異だけで、どちらも情報でしかない筈なんだけれどもね。

そおゆう意味では、今回の音楽家と漫画家の対談にもうひとり同席して欲しかった様な気がするのだ。

そのひとりとは誰か。それは映像作家だ。
では、誰が適任者かと尋ねられると、口ごもるしかないのだけれども。
実写でもアニメでも構わない。映画業界でもTV業界でもCM業界でも構わない。
「漫画と音楽は逆方向に進んでいる」事によって、最も大きな影響を被りかねない、現場のヒトの見解を聴きたいのである。
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