2012.08.10.17.01
『ほぼ日刊イトイ新聞』で堤大介と糸井重里の対談『THE SKETCHTRAVEL』を再び読む
『ほぼ日刊イトイ新聞』[以下『ほぼ日』と略] の『ほぼ日ニュース 2012年8月10日のニュース』で、『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』の日本語版発売の告知がされた。
そこには、その『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』という「あそび」を考えついた堤大介 (Daisuke Tsutsumi) 自身のコメントが掲載されていて、それによれば『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』のアーティスト印税はチャリティ団体ルーム・トゥ・リード (Room To Read) に寄付されるという。
また「本物のスケッチブック」は昨秋オークションにかけられて、ラオス人民民主共和国 (Lao People's Democratic Republic)、カンボジア王国 (Kingdom Of Cambodia)、ネパール連邦民主共和国 (Federal Democratic Republic Of Nepal)、ベトナム社会主義共和国 (Socialist Republic Of Vietnam)、スリランカ民主社会主義共和国 (Democratic Socialist Republic Of Sri Lanka) の5カ国に子どもたちのための図書館が建設されたと言う。
そして『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』日本語版出版にあわせて『ほぼ日』では、堤大介 (Daisuke Tsutsumi) と糸井重里 (Shigesato Itoi) との対談『The Sketchtravel スケッチトラベル』が再掲された。
時期的には1年弱、前に掲載されたものである。
その掲載時の読後感としてありながら、このブログに発表するのに躊躇われたモノが、ぼくのなかにあった。
それはあまりに個人的にすぎるモノでもあるし、特殊なモノでもある。
それ以上に、この「あそび」が行われている時系列によっては、ぼくのなかにあるソレは既に解消されてしまっている可能性もあるのだ。
そんな口実で放置していたモノだけれども、日本語版発売という報を聴いて、なんとなく燻っていたモノが遺っていた様なのである。
その事について、書いてみたい。
猶、文中は敬称略とさせて頂いた。ご了承願う。
堤大介 (Daisuke Tsutsumi) と糸井重里 (Shigesato Itoi) との対談『The Sketchtravel スケッチトラベル』で語られている、『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』という「あそび」は、わくわくする出来事ばかりだ。
夢の様だとも言えるし、まるで映画の様だとも言えるし、ある少年の夏休みの冒険譚の様とも言える。
尤も、『2 メイとの結婚。』の回では、「それ、出来すぎてて映画にできない」という発言も飛び出してしまっているのだけれども。
しかも、この「あそび」の、ほんのおまけの様にして、その『2 メイとの結婚。』で語られている事は、もしかすると、ある読者にとっては、この「あそび」以上にファンタジックな出来事なのかもしれない。
そこで語られているのは、堤大介 (Daisuke Tsutsumi) と糸井重里 (Shigesato Itoi) との不思議な縁であって、対談者であるふたりは敢て言及を避けている様だけれども、映画『となりのトトロ
(My Neighbor Totoro)』 [宮崎駿 (Hayao Miyazaki) 監督作品 1988年制作] を知るモノが読めば、すぐに気づいてしまう事なのだ。
フィクショナルとは言え、観方によれば、ふたりは義理の親子になってしまうのである。
ところで、この連載を読みながら、ぼくの中に、そこで語られている事とは、少し離れた部分で、気になって気になって仕様がない事が、頭をもたげ出したのである。
それは、現実的な問題でもあり、世知辛い問題でもある。
と、同時に、今、書き進めているこの拙文の主題でもあり、ここから先はその事のみに終始する筈なのである。
しかも、『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』という書物の感想やそこに掲載されている作品そのものに関しては言及しないと想う。
だから、夢だけを観ていたいヒトや夢だけを語りあいたいヒトは、ここから先を読まない方がいいかもしれない。
という訳で、ここからが本題。
ぼくが気になっているのは、実は、この「あそび」に作品を提供した作家への著作権 (Copyright) の処理の事なのだ。
一点一点の、作品そのものの著作権 (Copyright) は作者本人に帰属するという認識はぼくの中にあるから、例えば、この「あそび」に作品を提供した作家が、その作品を自身の画集に掲載したいと言えば、掲載出来るだろうし、自身の個展で展示したいと言えば、「本物のスケッチブック」を借り受けて展示出来るのだろう。
ただ、この場合、そこで発生した収益はどこに行くのかと考え出すと、ちょっと、怪しくなってきてしまう。
例えば、『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』を基に、各国で出版をしてその収益をチャリティーに充てるというのは、どうすればいいのかは大方の予想はつく [だからと言ってぼく自身が運用出来るかと問われると疑問符ばかり浮かんでしまうのだけれども]。
その様なチャリティーを目的とした作品やプロジェクトも、過去にいくつもの事例を観てきているからだ。
それと同時に、「本物のスケッチブック」をオークションにかけてそこで得た収益をそのままチャリティーに充てるという事は、すぐに理解出来る。それは、上に書いた出版上で得た利益をチャリティーに充てるよりは、遥かに単純で簡単だ。
非常に大雑把な言い方をすれば、オークションで競り落とした人物が支払った対価をそのままチャリティー団体にもっていけば良い話だから。
だけれども、チャリティー目的の出版とチャリティー目的のオークションを、ふたつ行おうとするのならば、どうしたらいいのだろう、と、ここでぼくは立ち往生してしまうのだ。
仮に、出版のメドが既に着いたモノをオークションにかけるのならば、まだ、解りやすい。出版で得た収益の道筋が既に着いていて、そこで発生した収益は総てチャリティー目的に使われるのだから。
でも、逆に、オークションで手放してしまったモノを、出版するにはどうしたらよいのだろうか。
オークションで入手した人物からその都度、許諾を得て、出版するのだろうか。しかも、出版で得た利益はチャリティー目的の為に使用され、その人物へは、必ずしも100%の利益還元がないのだ。
それとも、作品そのものの著作権は作者にあるという観点に立てば、その都度もしくは包括的に、作者側からの許諾を得ていればいいのか。
それとも、オークションにかける時点で、「本物のスケッチブック」の出版に関する権利を放棄したモノというかたちでオークションにかけるのか。
それとも、そもそもが、「本物のスケッチブック」の所有権と出版に関する権利は、全く別のモノとして存在しているのか。
オークションで入手した人物自らが、出版したいと申し出たとしたらどうなるのか。既にチャリティー等の目的以外には出版出来ない様になっているのか。それとも、純粋に利潤追求の目的でその人物は出版出来るのだろうか。
と、いろいろな考えが渦巻いてしまうのである。
ところで、こんな風に書いてしまうと、あたかも、ぼくが『スケッチトラベル
(Sketchtravel
)』という「あそび」に関して懐疑的であったり、堤大介 (Daisuke Tsutsumi) の行動に疑念をもっている様に読めてしまうかもしれない。
もしその様な印象を与えてしまったとすれば、それはぼくの文章の拙さによるモノであって、その様な意図は、決してない。
ただ、ぼくが思っているのは、例えばこの「あそび」に触発されて、同じ様な「あそび」を考え、それを実施し、その結果得た利益を、社会に還元しようと試みた場合に、そこに障壁はないのだろうか、という問題なのである。
善意が善意を呼んで善意の絆が、ナニかを産む。
だが、その一方で、悪意が悪意を呼んで悪意の絆が産まれてしまう可能性はないだろうか。
そんな事を、つい考えてしまっているのである。
そこには、その『スケッチトラベル
また「本物のスケッチブック」は昨秋オークションにかけられて、ラオス人民民主共和国 (Lao People's Democratic Republic)、カンボジア王国 (Kingdom Of Cambodia)、ネパール連邦民主共和国 (Federal Democratic Republic Of Nepal)、ベトナム社会主義共和国 (Socialist Republic Of Vietnam)、スリランカ民主社会主義共和国 (Democratic Socialist Republic Of Sri Lanka) の5カ国に子どもたちのための図書館が建設されたと言う。
そして『スケッチトラベル
時期的には1年弱、前に掲載されたものである。
その掲載時の読後感としてありながら、このブログに発表するのに躊躇われたモノが、ぼくのなかにあった。
それはあまりに個人的にすぎるモノでもあるし、特殊なモノでもある。
それ以上に、この「あそび」が行われている時系列によっては、ぼくのなかにあるソレは既に解消されてしまっている可能性もあるのだ。
そんな口実で放置していたモノだけれども、日本語版発売という報を聴いて、なんとなく燻っていたモノが遺っていた様なのである。
その事について、書いてみたい。
猶、文中は敬称略とさせて頂いた。ご了承願う。
堤大介 (Daisuke Tsutsumi) と糸井重里 (Shigesato Itoi) との対談『The Sketchtravel スケッチトラベル』で語られている、『スケッチトラベル
夢の様だとも言えるし、まるで映画の様だとも言えるし、ある少年の夏休みの冒険譚の様とも言える。
尤も、『2 メイとの結婚。』の回では、「それ、出来すぎてて映画にできない」という発言も飛び出してしまっているのだけれども。
しかも、この「あそび」の、ほんのおまけの様にして、その『2 メイとの結婚。』で語られている事は、もしかすると、ある読者にとっては、この「あそび」以上にファンタジックな出来事なのかもしれない。
そこで語られているのは、堤大介 (Daisuke Tsutsumi) と糸井重里 (Shigesato Itoi) との不思議な縁であって、対談者であるふたりは敢て言及を避けている様だけれども、映画『となりのトトロ
フィクショナルとは言え、観方によれば、ふたりは義理の親子になってしまうのである。
ところで、この連載を読みながら、ぼくの中に、そこで語られている事とは、少し離れた部分で、気になって気になって仕様がない事が、頭をもたげ出したのである。
それは、現実的な問題でもあり、世知辛い問題でもある。
と、同時に、今、書き進めているこの拙文の主題でもあり、ここから先はその事のみに終始する筈なのである。
しかも、『スケッチトラベル
だから、夢だけを観ていたいヒトや夢だけを語りあいたいヒトは、ここから先を読まない方がいいかもしれない。
という訳で、ここからが本題。
ぼくが気になっているのは、実は、この「あそび」に作品を提供した作家への著作権 (Copyright) の処理の事なのだ。
一点一点の、作品そのものの著作権 (Copyright) は作者本人に帰属するという認識はぼくの中にあるから、例えば、この「あそび」に作品を提供した作家が、その作品を自身の画集に掲載したいと言えば、掲載出来るだろうし、自身の個展で展示したいと言えば、「本物のスケッチブック」を借り受けて展示出来るのだろう。
ただ、この場合、そこで発生した収益はどこに行くのかと考え出すと、ちょっと、怪しくなってきてしまう。
例えば、『スケッチトラベル
その様なチャリティーを目的とした作品やプロジェクトも、過去にいくつもの事例を観てきているからだ。
それと同時に、「本物のスケッチブック」をオークションにかけてそこで得た収益をそのままチャリティーに充てるという事は、すぐに理解出来る。それは、上に書いた出版上で得た利益をチャリティーに充てるよりは、遥かに単純で簡単だ。
非常に大雑把な言い方をすれば、オークションで競り落とした人物が支払った対価をそのままチャリティー団体にもっていけば良い話だから。
だけれども、チャリティー目的の出版とチャリティー目的のオークションを、ふたつ行おうとするのならば、どうしたらいいのだろう、と、ここでぼくは立ち往生してしまうのだ。
仮に、出版のメドが既に着いたモノをオークションにかけるのならば、まだ、解りやすい。出版で得た収益の道筋が既に着いていて、そこで発生した収益は総てチャリティー目的に使われるのだから。
でも、逆に、オークションで手放してしまったモノを、出版するにはどうしたらよいのだろうか。
オークションで入手した人物からその都度、許諾を得て、出版するのだろうか。しかも、出版で得た利益はチャリティー目的の為に使用され、その人物へは、必ずしも100%の利益還元がないのだ。
それとも、作品そのものの著作権は作者にあるという観点に立てば、その都度もしくは包括的に、作者側からの許諾を得ていればいいのか。
それとも、オークションにかける時点で、「本物のスケッチブック」の出版に関する権利を放棄したモノというかたちでオークションにかけるのか。
それとも、そもそもが、「本物のスケッチブック」の所有権と出版に関する権利は、全く別のモノとして存在しているのか。
オークションで入手した人物自らが、出版したいと申し出たとしたらどうなるのか。既にチャリティー等の目的以外には出版出来ない様になっているのか。それとも、純粋に利潤追求の目的でその人物は出版出来るのだろうか。
と、いろいろな考えが渦巻いてしまうのである。
ところで、こんな風に書いてしまうと、あたかも、ぼくが『スケッチトラベル
もしその様な印象を与えてしまったとすれば、それはぼくの文章の拙さによるモノであって、その様な意図は、決してない。
ただ、ぼくが思っているのは、例えばこの「あそび」に触発されて、同じ様な「あそび」を考え、それを実施し、その結果得た利益を、社会に還元しようと試みた場合に、そこに障壁はないのだろうか、という問題なのである。
善意が善意を呼んで善意の絆が、ナニかを産む。
だが、その一方で、悪意が悪意を呼んで悪意の絆が産まれてしまう可能性はないだろうか。
そんな事を、つい考えてしまっているのである。
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