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2012.08.05.00.01

Blogosで、佐々木俊尚の『なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?』を読む

タイトルにある様に、ニュース・サイト『ブロゴス (Blogos)』で、『なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?』と題された佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の記事が掲載された。
その文末の脚注にある様に、その記事はメールマガジン『佐々木俊尚のネット未来地図レポート』204号 [2012.07.30.配信] で発表された特集記事の要約である。そして、その要約の掲載に至った理由は、記事冒頭にある様に「元記事のTweet数が900近くなっている」だからだと言う。

確かに、「元記事のTweet数が900近く」させる程に、刺激的な内容であると同時に示唆的な内容を含んでいる。だが、それと同様に、多分に強引な論旨展開も多々、散見している様である。
ぼくから観ると、そんなところが「元記事のTweet数が900近く」させた最大の要因の様にも観えてしまう。

しかし、この記事の最後尾で、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が「だからこの問題はまだ、答が無い。これから私もさらに模索していく」と、書いている様に、ここで書かれている事の殆どは、問題提起の為の事例でしかないのかもしれない。

だから、ぼくは「さらに模索していく」為の材料や素材、もしくは新たな問題を提起する為に、この記事を読んで疑問に思った事を、箇条書き程度に書き連ねていきたいと思う。
つまりは、単純でささやかな公開質問状の様なものなのだ。

なお、ぼく自身は『佐々木俊尚のネット未来地図レポート』掲載時の記事を読む機会は得ていないので、言及するモノも引用するモノも、ニュース・サイト『ブロゴス (Blogos)』上で掲載された「要約」によっている。
また、文中総て、敬称略とさせて頂く。
あわせてご了承を願う次第である。

●タイトルに掲げられた『震災後』というメルクマールについて
この記事が発表された際に、ツイッター等で公に公開された疑義のひとつが、これである。
この記事で指摘されている"フリー・ジャーナリストの劣化"を、3.11.の震災前後で区切るには、その例証が少なく、根拠が薄いのではないか、という疑義である。
確かに、これに関しては、ぼくもそう思う。
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が次から次へと指摘する、"フリー・ジャーナリストの劣化"の要因は、劇的に3.11.以降に立ち顕われたのではない。むしろ、その何年も何年も前から登場しているモノが殆どである様に思える。また一方で、それらの問題が、3.11.を契機に加速度的に進化したわけでも深化した様にも思えないのだ。

むしろ、3.11.を契機に、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) というジャーナリストのポジショニングやヴィジョンが変わった為に、そこにある諸問題が、より具体的で明確で危機的な様相をもって、観えてきたのではないか、と、ぼくは考える。

というのは、『ほぼ日刊イトイ新聞』で『佐々木俊尚 × 糸井重里 メディアと私 -おもに、震災のあと』と題された、糸井重里 (Shigesato Itoi) との対談での第1回『当事者としての立ち位置。』で、こんな発言をしているのだ。

「ぼくは4月に入ってからはじめて被災地に入ったんですが、そこで気づいたことは、『自分に語れるものがなにもない』ということだったんです。」
「いわゆる従来の新聞社の手法はあるかもしれないんですけど、それをやっても、たぶんなにか違うだろうな」

この発言を、『なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?』の中で図示しているふたつの構造と見比べてみよう。
そこにあるのは、「書き手」から「読者」への情報や報道の流れに限ってのモノなのである。
だが、先に挙げた佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の発言を考慮に入れるとすれば、「書き手」から「読者」へのさらに上流にある情報源や取材源にまで遡った部分にまで、考察を及ぼさせる必要があるのではないかと思われる。

如何だろうか。

●「読者の中には優秀で理解力のある人もたくさんいるが、一方で頭が悪く俗悪で単純な構図しか理解できない人はそれ以上にたくさんいる」という問題
これも、ツイッター上で、多くの方々が引用してRTしていた部分である。ただ、それぞれの方々が、どういう意図をもって、もしくは、どういう解釈をして、この部分をRTしたかは、解らない。
ただ、個人的には、自身の読者層をこおゆうかたちで分断して解釈するのは、多くの危険を孕んでしまう様な気がするのだ。例え、実際の読者層がその様な二極分化していても。

以前、ぼくは『はだかのおうさま:佐々木俊尚著『「当事者」の時代』と「マイノリティ憑依」に想う事 』というタイトルで佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の『「当事者」の時代』[新書版 / 電書版] の記事を書いた。そこではぼくは、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) をハンス・クリスチャン・アンデルセン (Hans Christian Andersen) の童話『裸の王様 (Kejserens nye klæder)』 [1837年発表] に登場する少年になぞらえて記事を書いた。つまり、「王様は裸だ (Look at the Emperor's new clothes.)」と真実を指摘した少年だ。
しかし、この「読者の中には〜」という発言には、むしろ、その物語の狂言廻しとなる、裁縫師に扮した詐欺師の言動に通じるモノが観えてしまって仕様がない。「その布はとても不思議な布で、それで作った着物は、おろか者、つまり馬鹿には見えないのです」と語って騙る彼らの発言に、どこか似ていないだろうか。

何故ならば、この読者層を二極化して語るその手法は、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) のことばを借りれば、『マイノリティ憑依』にも、その反意語としてのマジョリティ憑依にも、転嫁する可能性を孕むヴィジョンの様に観えるからだ。

と、糾弾してしまえば、それでお仕舞いになるのだけれども、実は、この読書層のセグメント化が、後々の論考に大きく影響してしまうのだ。

●「プロのジャーナリストに対して『信者ビジネス』というような非難がある」という問題
例えば、上で登場したセグメント化された読者層のうち、「頭が悪く俗悪で単純な構図しか理解できない人」を対象にすれば、「ジャーナリズムの衆愚ビジネス化」に陥ると佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) は指摘している。そして、それを記事タイトルにある「劣化」ということばで象徴させている様に読む事は出来る。

では、その一方の読者層である「優秀で理解力のある人」を対象にすればどうなるのか。佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) は、「コミュニティ化を推し進めていけば、タコツボ化は防げない」とし、その結果が第三者の視点から観ての、所謂「信者ビジネス」化なのである。

ただ、その前段で取り上げられている様に、所謂「信者ビジネス」化のその実態は、「マス至上主義を捨てて良質で小規模なコミュニティへとビジネスを帰することの可能性」であり、その手法はビジネス的にもマーケティング的にも、必ずしも、誤った方法論ではないと思える。報道や情報というかたちのないモノを提供するジャーナリストという主語を、他の商品を製造販売流通するビジネスのいずれかと入れ替えて、読みなおして欲しい。そうやってみれば、限定した購買層に特化して彼らの要求に十二分に応えられる商品を提供するという、すこぶる健全な方法論なのである。

にも関わらずに、「信者ビジネス」という揶揄にまみれた表現で批判されてしまうのは何故か。

●「マンガ家や小説家やミュージシャンの方が熱烈なファンを囲い込んでいるケースがずっと多い」という問題
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) のこの認識が正しいか否かは、実際にマンガ家や小説家やミュージシャンの認識を実際に聴いてみた方がいいと想う。

例えばアスキー・ジェーピー (Ascii. jp)での『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英×佐藤秀峰 [職業編]』 [文・四本淑三] というタイトルでマンガ家佐藤秀峰 (Shuho Sato) とミュージシャン佐久間正英 (Masahide Sakuma) の対談が掲載されているし [この記事を公開した数時間後、『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英×佐藤秀峰 [職業編]』の後篇にあたる『プロが仕事を諦める時 対談・佐久間正英×佐藤秀峰 [業界編]』が公開された]、そのふたりの対談の端緒となったそれぞれの論考もある。
佐藤秀峰 (Shuho Sato) の『漫画家が漫画を諦める時』と佐久間正英 (Masahide Sakuma) の『音楽家が音楽を諦める時』だ。
それらをもう一度読んでみれば、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の言う様に、ジャーナリストに特権化した問題なのか、それとも、もっと普遍的な、ビジネスやマーケティングまでに敷衍出来るおおきな問題なのか、判断が出来るのではないだろうか。

●「ジャーナリストに対して『公共圏の担い手』という期待がいまだ寄せられている」という問題
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が、"フリー・ジャーナリストの劣化"という極めて限定的なモノに帰属させている、その理由が「公共圏の担い手」というヴィジョンである。そしてそれは、未だに「もっと開かれた大きな社会に向けて記事を配信し、世論を動かすようなことをしてほしい」という読者からの要求が存在しているという認識の上に成り立っている。
つまり、フリー・ジャーナリスト側も「公共圏の担い手」であろうとし、読者側も「公共圏の担い手」である事を望んでいる、という構図である。
果たして、この認識が未だに有効なのだろうか、それとも、単なる幻想の一端なのだろうか。
ぼく自身は、既にどちら側からも綻びが観え始めているし、どちら側もそれがいずれは過去のモノになりつつあると気づいている様にも思える。

『「当事者」の時代』[新書版 / 電書版] という論考を執筆し、『マイノリティ憑依』ということばで断罪した佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) ならば、もっと明確にその有り様が観えている筈なのだ。

だからこそ、一番最初に書いた様に、3.11.をメルクマールにしてこの問題を考えるのならば、「書き手」から「読者」への構造だけでは、観える筈のモノも観えないのではないかと、ぼくは考える。
情報源や取材源までも含めたおおきな視野で、語る必要があるのではないだろうか。

そしてそれは報道やジャーナリズムに限っての問題ではない、もっとおおきな普遍的な姿となって、顕われる可能性もあるのではないかと、考える。
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