2012.07.20.23.56
句そのものに関しての雑感めいたモノもどこかに登場すると想うのだけれども、それ以上にメインになるのは、この句の中に登場したふたつの固有名詞に関しての事になる。
この句の世界観を形作る背景的なモノとして、"クラフトワーク"と"「放射能」"の、説明や解説となる様なモノを心がけるつもりではあるのだけれども、そこまで客観的な紹介文となるかどうか。
とりあえずは始めて観ましょう。
クラフトワーク (Kraftwerk) は1970年、デュッセルドルフ (Dusseldorf) で結成された音楽ユニットで、『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』とは彼らが1975年に発表したアルバムのタイトルでありその収録曲である。
そのアルバム『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)
また、楽曲『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』は彼らの代表曲のひとつであって、1991年に自身の手によってリミックスされたベスト盤『ザ・ミックス (The Mix)
と、ここまで読んできて、この楽曲に興味を持たれ、その上にこの楽曲を未聴の肩であるのならば、是非、一度、その曲自体をお聴き願いたい。
曲とその映像ははここで聴く / 観る事が出来るし、歌詞はここで、その邦訳はここで読む事が出来る。
全編に流れ続ける単調なパルス音は、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) が検知し続けている放射線 (Radiation) 量を模しているモノであるし、時折聴かれるモールス信号音 (Morse Code) は『ホ・ウ・シ・ャ・ノ・ウ (R-A-D-I-O-A-C-T-I-V-T-Y)』というスペルを綴っている。
その上に、唄われている歌詞は、酷く単純で、放射線 (Radiation) 量が次第に増加し、いずれは周辺一帯が致死量となる放射線 (Radiation) で覆い尽くされていく、その様を描写したモノと看做す事が出来るだろう。
しかも、歌詞中に登場するよっつの都市名は、人類史上、その総てがそんな非常事態に直面してしまった地域なのである [時代が経るに従って、つまり非常事態が起きる度に歌詞にはそんな不幸な地域が折込まれていくようである。 ...と、言う事は ...?]。
あまりに単純で、あまりに直裁なメッセージなのである。しかも、本作品が発表された1975年を遡る事の2年前、曲中に登場するセラフィールド (Sellafield) で天然ウラン燃料 (Natural Uranium) 漏洩事故が起きているのである。
と、ここまで書かれたモノを読み返すと、クラフトワーク (Kraftwerk) のファンや支持者は、不可解な面持ちとなってしまうかもしれない。と、いうのはクラフトワーク (Kraftwerk) という音楽ユニットの示すヴィジョンや方向性とは元来、異なるモノをあまりに多くこの楽曲が内包しているからだ。
YMOことイエロー・マジック・オーケストラ (Yellow Magic Orchestra) の初期のコンセプトが、西洋人の眼から観た勘違いした東洋観である様に、クラフトワーク (Kraftwerk) のコンセプトは勘違いしたサイエンス・フィクションである。
と、ここでいきなりYMOことイエロー・マジック・オーケストラ (Yellow Magic Orchestra) に登場願ったのは、"マーティン・デニー (Martin Denny) のエキゾチック・サウンド (Exotic Sounds) をクラフトワーク (Kraftwerk) が再現したら?"という言葉に象徴される様な、YMOことイエロー・マジック・オーケストラ (Yellow Magic Orchestra) の音楽性やヴィジュアル戦略等の一切が、クラフトワーク (Kraftwerk) のエピゴーネンで始ったからであり、しかも、にも関わらずに、少なくともここ日本ではYMOことイエロー・マジック・オーケストラ (Yellow Magic Orchestra) の登場とその人気によって、そのオリジンたるクラフトワーク (Kraftwerk) に注目が集まったからである。
テクノ・ミュージック (Techno) という言葉が編み出される遥か以前から、テクノ・ミュージック (Techno) を奏でているのがクラフトワーク (Kraftwerk) と言う音楽ユニットなのである。
ぢゃあ欧米ではどういう評価だったのだろうかと言えば、彼らの最初の全米ヒット作が1974年発表のアルバム『アウトバーン (Autobahn)
だから、電子楽器で奏でる一風変わった標題音楽 (Programmmusik) という認識ではないだろうか。勿論、現在ではその種の音楽を顕わす言葉として、ニュー・エイジ・ミュージック (New Age Music) とかミニマル・ミュージック (Minimal Music) というモノがあるのだけれども、これも彼らが登場した頃には存在していなかった言葉だ。
つまり、音楽史的な表現をすれば、テクノ・ミュージック (Techno) の祖であり、ニュー・エイジ・ミュージック (New Age Music) の祖であり、ミニマル・ミュージック (Minimal Music) の祖である、クラフトワーク (Kraftwerk) のコンセプトが、勘違いしたサイエンス・フィクション(Science Fiction) なのである。
勘違いしたサイエンス・フィクション(Science Fiction) と言うと語弊があるかもしれない。しかし、彼らの音楽性を彩るSF観は、ユニットが結成された1970年のSF観に基づくモノでもないし、アルバム『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)
例えば、1978年に発表された作品として、アルバム『人間解体 (Die Mensch-Maschine / The Man Machine)
つまり、彼らのSF観とはリアル・タイムな視点から観た未来へのパースペクティヴではなくて、一旦過去へと遡って、かつて己のいた現在を未来のモノとして観ようとする試みなのである。
例えて言えば、現在の視点から観れば、寓意としか解釈しようのない、様々な時代に描かれた様々な未来予想図、例えば『ユートピア
つまり、SFの大祖ハーバート・ジョージ・ウェルズ (Herbert George Wells) が、『タイム・マシン
と、同時にアルバム『人間解体 (Die Mensch-Maschine / The Man Machine)
解りやすい様に具体例で示せば、前者を映画『ブレードランナー
核戦争後のいつまでも降り止む事のない酸性雨に打たれ続ける都市を描く前者と比して、後者では、圧倒的に進化した管理社会でありながら、今では観る事の出来なくなったタイプライターの誤刻から事件が興り、物語が始るのだ。
そんなコンセプトに基づいているクラフトワーク (Kraftwerk) の事だから、『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』を主題にするとしたら、もう少し、螺子曲がった発想や捻くれた曲想に基づいていても良さそうなのに。
と、想ったのは、ぼくだけなのだろうか。
歌詞を読むまでは、逆説としての原子力礼賛の曲なのだろうと勘ぐっていた程なのだ。
1979年のスリーマイル島原子力発電所事故 (Three Mile Island Accident)、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故 (Chernobyl Disaster) 以降の時代に棲むぼく達は忘れ去ってしまっているかもしれないけれども、1950年代の米国を中心とした、モードの最先端にはアトム (Atom) ないしはアトミック (Atomic) というモノがあった [確かドキュメンタリー映画『アトミック・カフェ (The Atomic Cafe)』 [ケヴィン・ラファティ (Kevin Rafferty)、ジェーン・ローダー (Jayne Loader)、ピアース・ラファティ (Pierce Rafferty) 監督作品 1982年制作] でその一端を伺う事が出来る筈だ]。今や呪われた少年と化してしまった感も拭えない鉄腕アトム (Astro Boy) も、その範に入るのかもしれない。当時のありとあらゆる商品にアトム (Atom) ないしはアトミック (Atomic) という形容なりキャッチフレーズが付随していた時代があったのだ。
ぼくはてっきり、そんな時代を揶揄した楽曲だとばかりに想っていたのである。
それを受けて、本来ならば、ところが楽曲『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』はもっとシンプルに反核、反放射能を主題した楽曲で、その理由は〜と、書き進めるべきかもしれないのだけれども、それは誰しもが想い考えて、辿り着ける結論なのだ。
チェルノブイリ原子力発電所事故 (Chernobyl Disaster) 当時、この曲を聴きながらぼく達は、冗談半分に、もうこれでブルガリア・ヨーグルトは食べれなくなってしまうなぁ程度で済ましていたモノを、同じ大陸に棲むモノは、より具体的な今そこにある危機としてしか感ずる事が出来ないのだろう、と。
だから、ここではちょっと別の視点から観てみる。
クラフトワーク (Kraftwerk) の『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』、それはアルバム名でも楽曲名でも、独語名でも英語名でも、本来ではワンワードで『Radioaktivitat / Radioactivity』と済ませるモノをハイフンで二分割して『Radio-Aktivitat / Radio-activity』としてある。そして、二分割する事によって、独語圏であっても英語圏であっても、別の語句として誤読される可能性が発生する。
直訳すれば、『ラジオの活動』とか『ラジオの働き』というモノになる [これから以降、かの三谷幸喜 (Koki Mitani) の処女監督作品『ラヂオの時間
『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)
それは、『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』という呼称では、放送禁止ないしは放送自粛の可能性があるから、というのである。確かにあまりにティピカルだしスキャンダラスだし、その被災者や被災地域から観れば、そこで唄われている内容がどうあろうとも、忌まわしい忌避すべき曲名かもしれない。
多分に真相はそんなところだろう。
でも、クラフトワーク (Kraftwerk) というユニットのコンセプトをもう一度、頭の中でリロードしてみると、全然異なる解釈も可能なのだ。
1938年にあるラジオ番組の放送が全米を震撼させる。
ハーバート・ジョージ・ウェルズ (Herbert George Wells) の『宇宙戦争
[上の、ぼくの描写力の乏しい文章だけで読むと、全然信用されない単なる駄法螺にしか読めないかもしれないけれども、このラジオ番組を手掛けていたのが若き日のオーソン・ウェルズ (Orson Welles) であって、この騒動をきっかけにして彼はハリウッドに招かれるのである。]
ぼくが想うのに、『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』という楽曲が『ラヂオの時間 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』と誤読される様に綴られているのは、この事件が念頭にあったからではないのだろうか。
曲から聴こえるのは、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) もどきのパルス音とモールス信号音 (Morse Code)、発せられているメッセージは絶えず危機的状況下にある事のみを伝えているばかり。
[余談だけれども、ピンク・レディー (Pink Lady) のヒット曲『S・O・S (S.O.S)』 [1976年発表] の冒頭に流れているモールス信号音 (Morse Code) は、ホンモノと聞き誤る可能性が高いという理由でその部分のみ放送禁止扱いとなった。ラジオの放送域帯とは言え、電波にのってモールス信号音 (Morse Code) が流れる事の意味と影響はぼく達の理解よりも大きいのかもしれない。]
だから、クラフトワーク (Kraftwerk) としての主観にたってみれば、『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』を『ラヂオの時間 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』と誤読させるのは、ラジオ放送が禁止されたり自粛されるのを回避する為というよりも、もっと積極的な意味、つまり、ラジオで煩雑にエアプレイされる事、そしてそこから起こりうるナニカを期待すると同時に、あたかも実は、それを狙っていたのではないのだろうか、という穿った観方をしてみたいのである。
嗚呼、勿論。
"ある日ある時"にラジオから流れ出るメッセージとその状況をありのままに、標題音楽 (Programmmusik) 的に再現してみた、という解釈もここでは成り立ってしまうのだ。
と、いう訳でようやくにタイトルにさせて頂いた句の登場である。
起立・斉唱クラフトワークの「放射能」
「二〇一二年六月一五日 首相官邸前」という詞書と共に他のいつつの句と並べてある。
2012年6月15日に首相官邸 (The Prime Minister's Official Residence) 前でなにがあったのか。
そして、同年7月7日に催されたイベント『ノー・ニュークス2012 (No Nukes 2012)』で、クラフトワーク (Kraftwerk) がどんなパフォーマンスを魅せたか。
それはここでは書かない。
ただ、同じサイト『詩客 Shikaku』の別のコンテンツである『日めくり詩歌 俳句 関悦史 [2012/07/20]』のページで、関悦史が、こんな文章を書いている。
「東日本大震災発生という外の文脈の変化で見え方が変わってしまった句」
ここで関悦史が指摘している句は別の句だけれども、この指摘は『起立・斉唱クラフトワークの「放射能」』にも該当すると言うべきなのか否か。
結論から言えば、諾とする事も否とする事も出来る。
そして、それぞれの見解がよって立つ事が出来る論拠も、枚挙に暇はない。
殆どの方は詞書にある日付と場所を指し示して、それを語るのに違いない。
だが、例えば、楽曲が本来持つ意味も知らず、歌詞も知らずに、聞き込み、または、躍っていた音楽ファンは、どうなのか。その日その場所で鳴り響いている意味をどう捉えるべきなのか。
そして、彼らはその日その場所で鳴り響いていた『クラフトワークの「放射能」』にどう相対時するのか。もしくは、すべきなのか。
そこにあるのは、音楽でもって政治を語る事、もしくは、音楽によって政治を行なおうとする事、この旧くて新しい問題なのだ。
そうして、この『起立・斉唱クラフトワークの「放射能」』という句が、そんな問題をいつまで内包し続ける事が出来るのだろうか、という問題でもある。
勿論、このふたつの問題は、フクシマの問題がどの様な結末を迎えようと、全く無関係の場にあるモノと想われる。
そしてそれは、この楽曲とこのアルバムを、『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』と読むべきなのかそれとも『ラヂオの時間 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)』と読むべきなのか、決定すべき問題なのではないだろうか。
附記 1. :
クラフトワーク (Kraftwerk) を独語風に読めばクラフトヴェルク (Kraftwerk) となって、その意味は発電所である。だから、個人的に詠んでいる場合は、『起立・斉唱クラフトワークの「放射能」』の中七に"発電所"という振仮名を振って詠んでいる。そうすると、俳人の詠んだ光景とは全く異なる情景が描けてしまう。つまり、映画『続・猿の惑星
ぼくにはそれが、原子力村と呼ばれる住民達の行為の様に思われるのだ。
附記 2. :
クラフトワーク (Kraftwerk) のアルバム『放射能 (Radio-Aktivitat / Radio-activity)
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