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2012.06.11.17.20

佐々木俊尚の「マイノリティ憑依」と三島由紀夫の『真夏の死』:BLOGOS「今後のメディアは『モジュール化』していく」を題材にして

ニュース・サイト『ブロゴス (Blogos)』で、表題に掲げた『「今後のメディアは『モジュール化』していく」 -ITジャーナリスト・佐々木俊尚氏インタビュー』 [取材・執筆:永田正行 [ブロゴス (Blogos) 編集部] 以下『モジュール化していく』と略] が掲載されている。
その記事の本題としては、そのタイトルにもある様に、モジュール化 (Modularization) すべきメディア (Media) なのであり、それに関して述べるべきなのだろうけれども、ここでは残念ながらそこまで辿り着けそうもない。
その手前にある、インタヴュイーである佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が語る『マイノリティ憑依』について考えてみたいのだ。
それは、彼の最新の著作『「当事者」の時代』[新書版 / 電書版] での主要テーマのひとつであると同時に、このインタヴューで、著者自らがその概観を簡略化して呈示しているからである。


ところで、三島由紀夫 (Mishima Yukio) の中編小説に『真夏の死 (Death In Midsummer)』 [1953年発表 短編集『真夏の死 -自選短編集』所収] があるのをご存知だろうか。その小説そのものに関しての雑感めいたモノは、既にこちらで発表している。その雑感自体は、今回特に関係はないと想うのだけれども [苦笑]、三島由紀夫 (Mishima Yukio) 自身は作品について次の様に述べている。

方法論としては、この一点を頂点とした円錐体をわざと逆様に立てたような、普通の小説の逆構成を考えた」 [1970年発表 『自作自註』より『真夏の死 -自選短編集』所収]。

つまり、通常の小説ならば、そこで語られる物語の時代設定や舞台背景、個々の登場人物の有り様が描き出された後にクライマックスが訪れるところを、最初に突発的なクライマックスが顕われて、その後に、その余波に洗われる登場人物達とそれぞれの行方が、正に波間に漂う様にゆっくりと語られてゆくのである。

確かに、小説のナラティヴィテイとしては、総てをさかしま (A rebours) にした様な構造かもしれない。
だが、さかしま (A rebours) で一種異様な語り口を魅せる筈の、その物語の構造は、実はぼく達には非常に馴染みのある呈示の方法論なのである。

と、言うのは、ぼく達が毎日の様に観たり聴いたり読んだりする報道の、殆ど総ての手法が、この「円錐体をわざと逆様に立てたような」モノだからである。

第一報は、実際に起きたモノである。そこでは確かに、いつどこで誰が誰に対してどうしたのか、その最低限の情報は確保されている。
だが、その時点では、誰もナニがあったのか把握しきれてはいない。その報道を享受するぼく達は勿論、報道を発する側も、未だ全貌が掴めていない。時と場合によっては、現場に居合わせた目撃者や体験者であるヒトビトも、己自身が観たり聴いたり体験したりした事以上のモノは、解らない。その上にしかも、『当事者』自身すらも理解が及んでいない場合すらあるのだ。

しかし、そこから先は、日々、毎日の報道が繰り返している事である。
現場に居合わせた目撃者の証言、『当事者』自身やその『当事者』の関係者 [勿論、それは遺族である場合もあるのだけれども] の証言を得て、そこからさらに、その事件に類縁する様々な事象に詳しい専門家や評論家が登場する訳なのである。
その結果、ぼく達には、そこで最初に起きたモノを契機に、これまで知る事も考える事も出来なかった、ありとあらゆるモノが情報となって押寄せてくるのだ。

佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) は、この取材過程において、『マイノリティ憑依』が起こると主張しているのである。

モジュール化していく』では、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) は『マイノリティ憑依』を次の様に説明している [以下の文の引用符 (Quotation Marks : “ ”) 内が『モジュール化していく』で語られている佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) 自身のことばである]。

"自分の立ち位置で語るのではなくて、外部からの「神の視点」で物事を論じること"であり、しかも"「神の視点」というのは、往々にしていわゆる「弱者視点」"である。さらに"その弱者視点というものが" "幻想の弱者"であり"それを自分のバックグラウンドとして物を語る"。"それをマイノリティに勝手に憑依していることから「マイノリティ憑依」という表現を使っています"。

ここで佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) 自身が語っているその語り口で、理解出来るだろうか。
恐らく、日常的に接している報道と、そこで紹介されたり語られたりしているナラティヴィティを、個別具体的に観ていけば、『マイノリティ憑依』的なるものを発見出来るかもしれない。
それは、いつでもどこでもなんにでも、およそ報道という名が憑くモノのどこかに内在している様に観える。
しかし、それが佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が言うところの『マイノリティ憑依』かどうか、というと非常に曖昧であやふやで不確かなモノでしかない。
それが、ぼくの印象だ。

何故だろうか。
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の主張と少し距離を置いて、ぼくなりに考えてみる。

ひとつには、『マイノリティ憑依』と似て非なるモノ [!?] として、サイレント・マジョリティ (Silent Majority) という概念がある事だ。
『物言わぬ多数派』とも『静かな多数派』とも訳され、時と場合によっては、『声なき声』とも呼ばれるモノだ。現在の日本の報道でこの言葉が発せられると、なんとなく無党派層 (Independent Voter) と似た様な外観を呈している様にも想われてしまうモノでもある。
為政者や権力者や政治家等にとっては、サイレント・マジョリティ (Silent Majority) の考えや動向は決して無視出来ないモノであり、自身の行動や主張の中に、如何に彼らの存在を汲んだモノであるかを主張する向きもある。
と、そこまでは、誰しもに異論がある訳ではない。むしろ、為政者や権力者や政治家にとっては必要な配慮であり、と同時に、その様な層を意識している事が、ぼく達が彼らを支持する理由にもなり得る。
しかし、その一方で、為政者や権力者や政治家がサイレント・マジョリティ (Silent Majority) を語る場合は、"幻想の"多数の支持者を語る事であったり、少数の己の支持基盤をあたかも多数であるかの様に騙る事でもあったりする。

マイノリティ憑依』を、"幻想の弱者"を"自分のバックグラウンドとして物を語る"事として定義するのならば、サイレント・マジョリティ (Silent Majority) は、"幻想の"多数派を"自分のバックグラウンドとして物を語る"事と、定義出来るのではないだろうか。

以上の事を前提に踏まえると、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の主張の一部に、多少なりとも疑義が生じてしまう。
彼の発言には、時として、サイレント・マジョリティ (Silent Majority) を肯定的に捉えると同時に、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) 自身、そのサイレント・マジョリティ (Silent Majority) の支持をバックボーンとしている、と解釈出来る発言が往々にしてみられるからなのだ。
例えば、『ほぼ日刊イトイ新聞』での糸井重里 (Shigesato Itoi) の対談『佐々木俊尚 × 糸井重里 メディアと私 -おもに、震災のあと』、その第3回『ブログとツイッター』での発言とその趣旨である。この対談は、『当事者の時代』発表以前のモノだけれども、そこで展開されている論調の大筋は、『当事者の時代』に添ったモノではないだろうか。
同じ"幻想の"ナニモノか"を自分のバックグラウンドとして物を語る"手法であるのにも関わらずに、何故、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) は、一方を非とし、他方を是と出来るのか。

と、言う様なあら探しはいくらでも出来てしまうのである。『マイノリティ憑依』という概念は [つまり、サイレント・マジョリティ (Silent Majority) を起爆剤として、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) と彼の主張を難詰するのは、この駄文の主旨ではない]。

佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) 自身が『モジュール化していく』で述べている様に、"「簡単」にというのは難しく、誤解を招く危険"は常にあるのだ。
現に、そこでは"弱者視点というものが、実際に存在する弱者に寄り添っているのであれば問題ない"と語られながら、その"弱者視点"に基づく言動が、"寄り添っている"か否かを見極められる境界線も示されていなければ、それを見極める方法も呈示されてもいないのである。

マイノリティ憑依』に対して否定的見解を述べるそのひとつの論調が"「弱者無視の多数派視点だ」という批判"である様に、一方が他方の論敵を論破する為の、方法論のひとつとしてでしか、機能していないのだ。この概念の提唱者である佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が『マイノリティ憑依』として分析してみせたその意図とはかけ離れた所で今、このことばが機能してしまっているのではないだろうか。

逆に言えば、その様な現状を鑑みて、『マイノリティ憑依』とそれにまつわる議論を、あえて、単純なレトリックの問題として斬り捨ててしまってもいいのではないだろうか、そんな気もするのである。

と、言うのは、『マイノリティ憑依』が起きるいくつもの原因のひとつに、日本語ならでは問題がある様に思えるからなのだ。
つまり、日本語は主語が明確でない上に、明確でないままに使用しても、文意の伝達が可能だから、という事なのである。

『わたしが行為aを行った』と人物Aが語ったとする。
それを人物Bが公表する場合、『人物Aが行為aを行ったとわたしは聴いた』もしくは『「わたしが行為aを行った」と人物Aからわたしは聴いた』と発言するべきである。だが、往々にして『わたしが「行為aを行った」と聴いた』となり、伝言ゲームよろしく、人物Aの行為と人物Bの行為の混交が始る。
それと似た様な現象が起きているのではないだろうか。そして、その混交はいつしか、本来ならば誤認識する筈もない人物Aや人物Bにも及んでしまうのではないだろうか。

つまり、その様な混交を半ば意識的に自覚的に行っているのが、『マイノリティ憑依』の正体なのではないだろうか。

為政者や権力者や政治家等の発言に、往々にして観られる様々なことばを憶い出して欲しい。
『有権者のみなさん』『支持者のみなさん』『消費者』『市民』『県民』『国民』 ...。
彼らの発言の中に観られるこれらのことばのどれが、きちんとその実体や実態を指し示しているだろうか。
総ての為政者や権力者や政治家の発言がそうだとは言わない。また、彼らの発言の中にある総てのことばがそうだとは言わない。
しかし、彼らの [一部の] 発言の中 [の一部] に、それは潜んでいるのに違いないのだ。
幻想の『有権者のみなさん』幻想の『支持者のみなさん』幻想の『消費者』幻想の『市民』幻想の『県民』幻想の『国民』 ...。

だから『マイノリティ憑依』は、それと同等のモノでしかないと看做してしまえば、もう少し、ぼく達は、利巧に立ち回れる筈なのだ。

それは『マイノリティ憑依』を排除する方法でも『マイノリティ憑依』を糾弾する方法でもないかもしれない。
むしろ、『マイノリティ憑依』が既に存在しているという前提で、議論を深めたり、問題追求をしたり、事態解決に向かう事ではないだろうか [それについては宿題にします]。

ちなみに冒頭で紹介した三島由紀夫 (Mishima Yukio) の『真夏の死 (Death In Midsummer)』を、『マイノリティ憑依』という概念を含み入れて読んで行くと、新しい問題定義がなされているのを発見できるかもしれない。
物語の終局で、主人公達は、冒頭で迎えた突発的なクライマックスの現場を再訪するのだ。そこで描写されている、それぞれの登場人物達の心理描写を、『マイノリティ憑依』というイディアの許での、解読を試みて欲しい。
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