2012.06.12.17.25
っという具合に平仮名表記 (Written In Hiragana) にしてしまうと、どこぞのアイドルかグラビア・クィーンかナニカの様に思われてしまうかもしれないが、残念ながらそのテの女性について記述はしないのだ。
蚕 (Silkworm) が紡ぐ繭 (Cocoon) について書いてみるのである。
小学校の授業時間で、教育テレビ (NHK Educational TV) のある番組を観ていた。
理科の授業だろうか、社会科の授業だろうか。
いつも記憶は曖昧だ。
と、いうのも、今、観ている映像をそのまんま、まるっきり使い回せば、どちらのテーマでも番組を構成する事は可能だからだ。
『蚕 (Silkworm) の一生』とでもすれば前者になるだろうし、『養蚕家 (Sericulture) の一年』とでもすれば後者になるだろう。
ただ、よく考えてみれば、理科と社会科、このそれぞれの番組は、冒頭こそ同じかもしれないけれども、いつかどこかで、そこで語られている物語は分岐点を迎える。『一生』と『一年』では、異なったエンディングを迎えなければならない。
残念ながら、それは避けられないのだ。
勿論、エンディングを迎える前から、主人公は違う。前者は養われる側の物語だし、後者は養う側の物語だ [勿論、養われる / 養うは等価の関係にあってなお且つ双次方向性をもつ、観方を変えれば、養われる事は養う事になり、養う事によって養われる事になるのである]。
だから、その構図をそのまま引き写せば、同じ物語をふたつの異なる視座で追うモノと解釈出来るのかもしれない。強引な表現をすれば、前者をミクロの物語、後者をマクロの物語と断定する事も出来なくはないのだ。
しかも、どちらの物語も大きな円環構造を成している。
主人公が違えども、その結果で視座が違えども、一旦語り始られたその物語はいつしか、物語冒頭をそくりそのまま再現して終局を迎える事となる。
それ自体は、なにもこのふたつの物語に限定されたモノではない。『一生』であろうと『一年』であろうと、そこに循環や再生や永劫回帰 (Ewige Wiederkunft des Gleichen) への類推 (Analogy) を観て採る事は、決して難解なモノでもない。
陽はまた昇り陽はまた沈む (The Sun Also Rises, The Sun Also Downs)、それに如くはない。
と、いつまでも高邁に抽象を描いていても仕様がない。いい加減にネタ切れだ。
きちんと書く事にする。
前者である、理科の場合の『蚕 (Silkworm) の一生』では、主人公である蚕 (Silkworm) は羽化をする。
後者である、社会科の場合の『養蚕家 (Sericulture) の一年』では、主人公に養われている蚕 (Silkworm) は決して羽化をする事はない。
繭 (Cocoon) を紡ぎ蛹 (Pupa) と化した際にそのまま、熱処理されてしまうのである。
ぼくの記憶が確かならば、観た時季こそ違えども、『一生』も『一年』も、小学校の教室にあるTVで観た筈なのである。
前者は、確かに羽化し成虫と化した蚕 (Silkworm) が舞い、次の世代を孕み産む時がまた来る事を暗示して、番組は終えた筈だ。
そして後者は、大きなボイラーかなにかで煮えたぎっている液体の中で、くるくるくると蠢いている数多くの繭 (Cocoon) を観た筈なのである。その次のシーンでは、生糸(Silk) の製造工程へと画面は切り替わり、蚕 (Silkworm) とその養蚕家 (Sericulture) の物語から、生糸(Silk) とそれを素材とする商品群の物語へと転化する。
では、蚕 (Silkworm) は?
運が良ければ、その次の年の、蚕 (Silkworm) を育む事になる桑 (Morus) と、それを養い育む養蚕家 (Sericulture) の姿を観る事は、出来るかもしれない。
しかし、蚕 (Silkworm) のその後の事を誰も語りはしない。しかし、語らずとも、大きなボイラーの中でくるくるくると蠢く繭 (Cocoon) の中で、蛹 (Pupa) が迎えた死は、誰もが知り得ているのだ。
至極当たり前の当然の事柄を只管迂回してようやくこの結論に辿り着いた。そんな徒労感を、読者であるあなたは抱いたのかもしれない。
でも、考えて欲しい。
生物としての一生と、畜産ないしは養殖の一工程と、その両方を一座に解する事が出来るのは、蚕 (Silkworm) / 養蚕 (Sericulture) だけなのだ。
しかも、後者における工程の最終局面で迎えねばならない、生物としての死 [これは前者における最終局面でもあるけれども] をも、就学中の幼いぼく達は、立ち会って観る事が出来るのである。
逆に言えば、他の生物の、その畜産ないしは養殖のある工程に差し掛かるとぼく達は、いつしか、眼を覆い隠されて、受け止めなければならない事実を忘却させられてしまうのだ。
[それとも、なにもかも無害化 / 無菌化しなければ気のすまない現在では、繭 (Cocoon) を熱処理加工するシーンすらも、放送もされずに、削除されてしまうのであろうか。]
童謡『ドナドナ (Donna Donna)』で描かれている様な、情緒的な別れを演出する事はあるけれども、牧畜の点景として、飼育されている牛 (Cattle) や豚 (Pig) や鶏 (Broiler) の屠殺、死そのものを、ぼく達が眼にする事は、先ずない。
例外として挙げられるとすれば鶏卵 (Egg) だけれども、その殆どは無精卵であって"産まれる以前"の存在である。それに第一、鶏卵 (Egg) の死 [あえて言えば] は、飼育の場ではなくて、それぞれの自宅で自ら対峙すべき事柄なのだ。
一方の魚介類 (Seafood) に関しては、平然とその死の描写はいくらでも観る事は出来る。
だが、一本釣りにしろ、まき網漁業にしろ、定置網漁法にしろ、活け造りにしろ、踊り食いにしろ、ぼく達は、彼らが死を迎えるその結果をうけて、彼らを喰らうのだ。
だからと言って、ぼく達が蚕 (Silkworm) を喰らう訳ではない。
彼らが生きて活き、成長する過程において必要且つ不可欠のモノを、無傷で得る為に、彼らを亡きモノにするのである。
もしも、ぼく達が、あの白くてちいさい繭 (Cocoon) にいくばくかのエロス (Eros) を観い出すと同時に、タナトス (Thanatos) の風雅を感じているのだとしたら、恐らくそれらは、そこから起ち昇ってきているのではないだろうか。

喜多川歌麿 (Kitagawa Utamaro)画『女織蚕手業草 (Female Workers The Cocoon Stage)』より『九 繭を糸にくり取図 (Winding The Thread, No. 9)』
次回は『ゆ』。
蚕 (Silkworm) が紡ぐ繭 (Cocoon) について書いてみるのである。
小学校の授業時間で、教育テレビ (NHK Educational TV) のある番組を観ていた。
理科の授業だろうか、社会科の授業だろうか。
いつも記憶は曖昧だ。
と、いうのも、今、観ている映像をそのまんま、まるっきり使い回せば、どちらのテーマでも番組を構成する事は可能だからだ。
『蚕 (Silkworm) の一生』とでもすれば前者になるだろうし、『養蚕家 (Sericulture) の一年』とでもすれば後者になるだろう。
ただ、よく考えてみれば、理科と社会科、このそれぞれの番組は、冒頭こそ同じかもしれないけれども、いつかどこかで、そこで語られている物語は分岐点を迎える。『一生』と『一年』では、異なったエンディングを迎えなければならない。
残念ながら、それは避けられないのだ。
勿論、エンディングを迎える前から、主人公は違う。前者は養われる側の物語だし、後者は養う側の物語だ [勿論、養われる / 養うは等価の関係にあってなお且つ双次方向性をもつ、観方を変えれば、養われる事は養う事になり、養う事によって養われる事になるのである]。
だから、その構図をそのまま引き写せば、同じ物語をふたつの異なる視座で追うモノと解釈出来るのかもしれない。強引な表現をすれば、前者をミクロの物語、後者をマクロの物語と断定する事も出来なくはないのだ。
しかも、どちらの物語も大きな円環構造を成している。
主人公が違えども、その結果で視座が違えども、一旦語り始られたその物語はいつしか、物語冒頭をそくりそのまま再現して終局を迎える事となる。
それ自体は、なにもこのふたつの物語に限定されたモノではない。『一生』であろうと『一年』であろうと、そこに循環や再生や永劫回帰 (Ewige Wiederkunft des Gleichen) への類推 (Analogy) を観て採る事は、決して難解なモノでもない。
陽はまた昇り陽はまた沈む (The Sun Also Rises, The Sun Also Downs)、それに如くはない。
と、いつまでも高邁に抽象を描いていても仕様がない。いい加減にネタ切れだ。
きちんと書く事にする。
前者である、理科の場合の『蚕 (Silkworm) の一生』では、主人公である蚕 (Silkworm) は羽化をする。
後者である、社会科の場合の『養蚕家 (Sericulture) の一年』では、主人公に養われている蚕 (Silkworm) は決して羽化をする事はない。
繭 (Cocoon) を紡ぎ蛹 (Pupa) と化した際にそのまま、熱処理されてしまうのである。
ぼくの記憶が確かならば、観た時季こそ違えども、『一生』も『一年』も、小学校の教室にあるTVで観た筈なのである。
前者は、確かに羽化し成虫と化した蚕 (Silkworm) が舞い、次の世代を孕み産む時がまた来る事を暗示して、番組は終えた筈だ。
そして後者は、大きなボイラーかなにかで煮えたぎっている液体の中で、くるくるくると蠢いている数多くの繭 (Cocoon) を観た筈なのである。その次のシーンでは、生糸(Silk) の製造工程へと画面は切り替わり、蚕 (Silkworm) とその養蚕家 (Sericulture) の物語から、生糸(Silk) とそれを素材とする商品群の物語へと転化する。
では、蚕 (Silkworm) は?
運が良ければ、その次の年の、蚕 (Silkworm) を育む事になる桑 (Morus) と、それを養い育む養蚕家 (Sericulture) の姿を観る事は、出来るかもしれない。
しかし、蚕 (Silkworm) のその後の事を誰も語りはしない。しかし、語らずとも、大きなボイラーの中でくるくるくると蠢く繭 (Cocoon) の中で、蛹 (Pupa) が迎えた死は、誰もが知り得ているのだ。
至極当たり前の当然の事柄を只管迂回してようやくこの結論に辿り着いた。そんな徒労感を、読者であるあなたは抱いたのかもしれない。
でも、考えて欲しい。
生物としての一生と、畜産ないしは養殖の一工程と、その両方を一座に解する事が出来るのは、蚕 (Silkworm) / 養蚕 (Sericulture) だけなのだ。
しかも、後者における工程の最終局面で迎えねばならない、生物としての死 [これは前者における最終局面でもあるけれども] をも、就学中の幼いぼく達は、立ち会って観る事が出来るのである。
逆に言えば、他の生物の、その畜産ないしは養殖のある工程に差し掛かるとぼく達は、いつしか、眼を覆い隠されて、受け止めなければならない事実を忘却させられてしまうのだ。
[それとも、なにもかも無害化 / 無菌化しなければ気のすまない現在では、繭 (Cocoon) を熱処理加工するシーンすらも、放送もされずに、削除されてしまうのであろうか。]
童謡『ドナドナ (Donna Donna)』で描かれている様な、情緒的な別れを演出する事はあるけれども、牧畜の点景として、飼育されている牛 (Cattle) や豚 (Pig) や鶏 (Broiler) の屠殺、死そのものを、ぼく達が眼にする事は、先ずない。
例外として挙げられるとすれば鶏卵 (Egg) だけれども、その殆どは無精卵であって"産まれる以前"の存在である。それに第一、鶏卵 (Egg) の死 [あえて言えば] は、飼育の場ではなくて、それぞれの自宅で自ら対峙すべき事柄なのだ。
一方の魚介類 (Seafood) に関しては、平然とその死の描写はいくらでも観る事は出来る。
だが、一本釣りにしろ、まき網漁業にしろ、定置網漁法にしろ、活け造りにしろ、踊り食いにしろ、ぼく達は、彼らが死を迎えるその結果をうけて、彼らを喰らうのだ。
だからと言って、ぼく達が蚕 (Silkworm) を喰らう訳ではない。
彼らが生きて活き、成長する過程において必要且つ不可欠のモノを、無傷で得る為に、彼らを亡きモノにするのである。
もしも、ぼく達が、あの白くてちいさい繭 (Cocoon) にいくばくかのエロス (Eros) を観い出すと同時に、タナトス (Thanatos) の風雅を感じているのだとしたら、恐らくそれらは、そこから起ち昇ってきているのではないだろうか。

喜多川歌麿 (Kitagawa Utamaro)画『女織蚕手業草 (Female Workers The Cocoon Stage)』より『九 繭を糸にくり取図 (Winding The Thread, No. 9)』
次回は『ゆ』。
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