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2012.06.04.20.29

虫語の研究:御中虫の句『たんぽぽみたひに愛されたくてしゃがんでみた』を題材に

サイト『スピカ』で掲載されている『「つくる」をよみあう 第2回(御中虫「家の中」、久留島元「平成狂句百鬼夜行」)』を偶々読んで、ぼくは戸惑ってしまったのであった。

以下、拙文に登場する人名は総て敬称略とさせて頂きます。ご了承願います。

それは、同サイトの『2011年7月13日』で発表されている御中虫の俳句『赤道直下に墓を建てたひできればピンクの』に関する論評である。
神野紗希江渡華子野口る理、このさんにんによる鼎談なのである。

そこでは次の様な会話がなされているのだ。

『華子 この「建てたひ」の「ひ」ってなんだろうね。私は虫さんが墓に入るって思ってることが新鮮だったかも。あ、建てたいだけで入りたいわけじゃないのか・・・。
る理 「建てたひ」は、「虫語」ってやつじゃないですか。新仮名も旧仮名もごちゃ混ぜ、さらに独自の仮名遣いも混ぜちゃうというスタイル。』

実は、ぼくは「建てたひ」の「ひ」は、「日 (The Day)」もしくは「陽 (The Sunshine)」という漢字が宛てられるべきものだと、解釈していたのである。しかも、もしかしたら赤道 (Equator) 直下からの連想で、原始的な宗教とその儀式を想わせる「火 (The Fire)」という漢字もあり得るのかもしれない、そんな逸脱した解釈をもしていたのだ。

ぼくはここで、野口る理の解釈に異論を唱えたいのではない。恐らく、野口る理の解釈が正当で妥当なものであって、ぼくの解釈はあくまでも異論であったり極論であったりするものなのだ。

ただ、この頁で行われている三者鼎談の中で、虫語というモノが深く掘り探られなかったのが残念であるのだ。
と、言うのも、虫語を「新仮名も旧仮名もごちゃ混ぜ、さらに独自の仮名遣いも混ぜちゃうというスタイル」という、形式論や様式論の中だけで捉えていいのだろうか、と思ったからなのである。
逆に言えば、形式論や様式論に収まらない、その向こうを観たいが故の、「日 (The Day)」や「陽 (The Sunshine)」や「火 (The Fire)」という意味を、この「ひ」に宛てたかったのだ。

では、と言って本題に入るべきかもしれないけれども、その前に、さて、と言って、虫語とはなんなのか、その定義を、確認の意味を含めて、紹介しておこう。

虫語とは、次の様なモノである。
「至福を噛みしめるやうにガムを噛みしめる。それも家にゐて。家もいい。どんな服装をしていようがすっぴんだろーが何時に寝て起きようがいいのだ」[筑紫磐井5月の35日間』より『2012年5月18日』]
一応、補足しておくと、下線部が当該の虫語であって、当然の様に原文ママ (Sic) だ。

つまり、「新仮名も旧仮名もごちゃ混ぜ、さらに独自の仮名遣いも混ぜちゃうというスタイル」なのである。

しかも、この虫語は、「一部では非常に評判が悪い」 [四ッ谷龍人間を知りたければ御中虫を読め』] らしいのだが、その件に関しては、御中虫自身はかつて、己のツイッター上で次の様な弁明をしている。

「仮名遣いについてのご指摘ですが、私はわざとこうした仮名遣いをしばしば使います。虫語、とかニュー旧仮名遣いとか言われたりします。賛否ありますが私の流儀です」
「しばしば突っ込まれる「虫語」ですが、日本語の歴史を繙けば仮名遣いなどは最初から「無茶苦茶」だったのであり。私が更にそれを改竄しているからといって誰が「間違い」だと裁けるのだらふかねへ。」

[ちなみに、上のふたつの発言は共にネット上では削除されている模様。もしも原文に当たりたいのならば、「御中虫 虫語」等で検索して、キャッシュを捜すしか方法はないと想う。]

と、いう訳で、あらためて、では、の登場になるのである。
では、ここから、本題です。

人間を知りたければ御中虫を読め』の中で、四ッ谷龍は『赤い新撰 バケツ 「御中虫の百句」 (四ッ谷龍 / 選)』で掲載された御中虫の100句の中から、虫語が起用されている句をいくつか抜き出して、その用法の解説を試みている。
特に、『考え方の方向変えてみやふ凪』に関しては、その句で起用されている仮名遣いを実際に入れ替えて比較している。つまり、ひとつの作品からそれぞれ新仮名遣い [正しくは、現代仮名遣い (Modern Kana Usage)] 版、旧仮名遣い [正しくは歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography)、以下この表記に原則的に従う] 版、虫語遣い版 [勿論、これが原典だ] というみっつのヴァージョンを導き出して、その3ヴァージョンを読み比べているのである。

そこでの四ッ谷龍の指摘を踏まえた上で、あえて、そうではない、もうひとつの虫語の解読方法を試みたいと想う。
猶、ここで取り上げる作品は、四ッ谷龍が、虫語の使用例のひとつとして挙げたもうひとつの句『たんぽぽみたひに愛されたくてしゃがんでみた』にしてみる事とする。

たんぽぽみたひに愛されたくてしゃがんでみた

これを虫語が使われている、意地悪い表現をすると、歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) の誤用とみて、次の様に解読する事、もしくは発声する事は、誰にでも出来る筈だ。

たんぽぽみたいに愛されたくてしゃがんでみた

ここではこの句の解釈は、素直に書かれたモノをそのまま受け止めればいい。
上五の「たんぽぽみたひに」の、意味を明瞭化させる意味で、敢てこの部分の英訳を試みれば、"Like An Dandelion"とでもなるのだろう。

ところが、これを虫語の起用、すなわち、歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) の誤用、それ以外の解読方法はないかと、考える。例えば、冒頭の『「つくる」をよみあう 第2回(御中虫「家の中」、久留島元「平成狂句百鬼夜行」)』で話題となった『赤道直下に墓を建てたひできればピンクの』と同じ様な解釈をしてみる。つまり、「ひ」を「日 (The Day)」と読んでみるのだ。

たんぽぽみた日に愛されたくてしゃがんでみた

ここでも、この句の解釈は素直に書かれたモノをそのまま受け止めればいい。
先と同様に、上五の「たんぽぽみたひに」の英訳を試みれば"The Day We (or I ) Saw A Dandelion"とでもなるだろう。

このふたつの解釈をそれぞれに慮ると、描かれている情景や詠われている心情は、あまり大差はない様に思える。少なくとも日本語では、大同小異の様だ。
どちらの解釈に趣きや深みがあるかは、個々それぞれで考えてもらえばいい事なので、ここではその点に関しては、これ以上立ち入らない。
ただ、解ってもらいたいのは、「ひ」の一文字の理解の巾を広げれば、異なる表現が顕われ得るという事なのだ。
少なくとも、「たんぽぽみたい (Like An Dandelion)」と「たんぽぽみた日 (The Day We (or I ) Saw A Dandelion)」では、同じ情景や同じ心情を描いていたとしても、そこに至る道筋が異なるのではないだろうか。

そしてもし、俳人がひとつの句に「たんぽぽみたい (Like An Dandelion)」と「たんぽぽみた日 (The Day We (or I ) Saw A Dandelion)」の両方の意義を同時に持たせたいと思ったのならば、その表記は「たんぽぽみたひ」とならざるを得ないのではないだろうか。
つまり、歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) の誤用であり、虫語の起用を選ばざるを得ないのである。

一見、誤った用法、「新仮名も旧仮名もごちゃ混ぜ、さらに独自の仮名遣いも混ぜちゃうというスタイル」を選ぶ事によって、もしかしたら、ひとつの句に多様な意味や多用な解釈の可能性を広げさせる事が出来るのかもしれないのである。

勿論、後者の様な解釈の仕方は、完全に誤読かもしれない。
それは否定しない。

ただ、ぼくが言いたいのは、この句を虫語の起用であるとか、仮名遣いの誤用であるとか、片面的な部分だけを取り上げて断罪してしまっては、あらたな解釈の仕方、思いもしない句の魅力を発見するその可能性をも捨て去ってしまうかもしれない、という事なのだ。

つまり、句の詠み手があえて誤用しているのならば、句の読み手であるぼく達もあえて誤読をしてもいいのではないか、そんな気がするのである。
ぼく達はもっと自由に作品にあたるべきなのだ。

否、それだけではない。
上に示した思考過程、最初に虫語の起用ないしは歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) の誤用を経てから後に、あえて「日 (The Day)」と読む手順は、日頃、俳句に慣れ親しんだモノが行い得る手法だ。
もしも、俳句や歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) に疎遠なモノが上の句を読んだとしたら、どうなるか。
恐らく、一切の考慮も逡巡すらもなく、「ひ」を「日 (The Day)」と受け止める可能性は、充分にあるのに違いない。

ぼく自身、上の句で用いられている「ひ」を歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) であるという認識は一切もっていなかった。「ひ」という表記を「い」へと変換する事なく、素直に書き表されたままに「日 (The Day)」と読んでしまったのだ。
自説を主張したいが為に、無理矢理な誤読をしたのではない事だけは、書き加えておく。

本来、ひとつの仮名遣いしか知らないモノは、ひとつの読み方しか出来ないのだとしたら、ふたつの仮名遣いを知るモノは、常にふたつの読み方が可能なのだ。
にも関わらずに、それに挑戦し得ないのは何故だろうか。

逆の視点から観れば、俳句と言う表現を知れば知る程、学べば学ぶ程、仮名遣い云々が罠や足枷となってしまうのではないか、視野の狭い形式論に陥ってしまうのではないか、そんな逆説めいた言説をも浮かんできてしまう。
御中虫自身の主張の主眼は、奈辺にある様な気がするがどうだろうか。

勿論、ここで挙げたのはたったひとつの例に過ぎない。
偶々、「ひ」ということばが持っている、「日 (The Day)」とか「陽 (The Sunshine)」とか「火 (The Fire)」とか言う多義性に支えてられているだけである。だから極論を介すれば、ここに「灯 (The Light)」や「否 (No-)」や「婢 (The Slave Woman)」を登場させる事だって、厭わなければ出来てしまうかもしないのである。
それ故に、他の、虫語が起用されている句では、どうなのか。ひとつひとつ観ていかなければならないだろう。

つまり、四ッ谷龍が『考え方の方向変えてみやふ凪』に対して行ってきた様な検証を、ひとつひとつの句において、さらに徹底した方法で行う必要があるのだろう。

否、もしかしたら、それとは全く逆の方法が必要なのかもしれない。知識や記憶を取っ払って、もっと素直に、句そのものに肉迫すべき。
俳人自身が求めているのは、むしろ、こちらの方法論なのではないだろうか。

附記 1.:
こんな解読方法を試みると、やっぱりぼくは、ルイス・キャロル (Lewis Carroll) がアリス2部作 [『不思議の国のアリス (Alice's Adventures In Wonderland)』と『鏡の国のアリス (Through The Looking-glass [And What Alice Found There] )』] で用いた手法や、レーモン・ルーセル (Raymond Roussel) が二大倚想小説 [『アフリカの印象 (Impressions d'Afrique)』と『ロクス・ソルス (Locus Solus)』] で用いた手法を憶い出してしまう。
例えば、前者ならば、慣用句や比喩表現といった、ことばの中にしか存在しない動物達、チェシャ猫 (Cheshire Cat) やウミガメモドキ (Mock Turtle) を実体をもった生物としてアリス・リデル (Alice Pleasance Liddell) の前に現前せしめ、後者ならば、あるひとつの文章の一字一句を悉く読み違えて換骨奪胎して、全く新しい文章を生じせしめている [その特異な手法は遺稿『レーモン・ルーセルの謎 -彼はいかにして或る種の本を書いたか (Comment j'ai ecrit certains de mes livres)』として発刊されている]。
虫語というのは、それと似た様な挑戦を可能とする手法なのかもしれない。
と、書くと、なにやら非常に難解で高度な手法の様に思えてしまうがそうではない。
日本語でも、それとよく似た手法は古来よりいくらでもある。
丑寅の方角 (Northeast) が鬼門とされて宜しくないと言われているから、丑寅の方角 (Northeast) を象徴する怪物、牛の角 (Two Long Horns Like An Ox) を生やし、虎皮の褌 (Tiger-skin Loincloths) を占めた (Oni) が誕生した。
掛算の九九 (Multiplication Table) や円周率 (Pi) や平方根 (Square Root) や、歴史の年号など、本来ならば数字の羅列にしか過ぎないモノに、意味を与えたり物語を加えたりして、憶えてゆく。
日本語は、同音異義語が多いから、ひとつの文や語句に、多層な意味を持たせたりする事は本来的に、充分に可能なのである。
僅か17文字の語で言い尽くさねばならない俳句には、それ故に、多重な解釈を可能とするモノがいくつもいくつもあってもいい様な気がするが、どうなのだろう。
それとも、ぼくが知らないだけなのか。

附記 2. :
当ブログ上で、御中虫とその関連の事柄を何度も書き綴っている [ここここここ]。
それは一体、何故だろうか。
少なくとも、俳句という表現手法や表現媒体や創作物や創造者に関しては、学校教育で得た知識以上のモノは持ち合わせていない。
少なくとも、御中虫を知る事によって、俳句への関心や興味が高まっている、というモノではないだろう、という実感はある。
思い当たる事として、同じ様な体感を過去何度かもっている。
ひとつは井上ひさしの『吉里吉里人』で、ひとつは荒俣宏の『帝都物語』。
いずれも本編の小説以上に、その前後に発表された膨大なサヴ・テクストがぼくにとって大きな魅力となっていた。前者は主に、著者自身のいくつかの日本語論として発表され、後者は小説の中に登場するオブジェやイデアの解題として発表されていた。しかし、そう観えるのはあくまでも結果論であり両者共に、いくつものいくつものサヴ・テキストを手掛けて行くうちに、本題である小説の全貌が掴めたのに違いないのだ。そんな考えに及んでしまうと、ますます、サヴ・テクストの行方を追及せざるを得ない心境に陥っていった。
そんな状況に、なぜだか似ているのである。
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theme : 俳句 - genre : 小説・文学

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