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2012.05.09.23.35

ちょうど一年前の記事、松岡正剛の千夜千冊:番外録1414夜 [2011年5月09日号] 『東日本大震災 仙台学vol.11』 伊坂幸太郎・斎藤純・佐藤賢一・高橋克彦ほか著を今、読みなおす

一年前の今日、タイトルに掲げた記事を読んだ際は、非常に複雑な心境になったものだった。
無様とも言えるし惨めとも言えるし、情けないとも不甲斐ないとも言えるかもしれない。
一言で言えば、それは文化人と呼ばれる人種の、今そこにいる位置とそこから及ぶ事の出来る限界が、一目瞭然となったモノの様に想えた。

ただ、そこで産まれた悪感情をそのまま表白するのを、躊躇ってしまった事もまた事実である。
何故ならば、立場こそ違え、その時、己が発する言葉は筆者に届くよりも先に、己の喉元に突き刺さるに違いないからだ。
無様で惨めで、情けなくて不甲斐ないのは、己自身に違いないのだ。

そう想えてしまう理由は、ここでは書かない。
残念ながら、そこまで露悪趣味はないんだ。

そんなぼく個人の感情はともかく、ちょうど一年前にあなたはナニをしていたのか、ナニをしようとしていたのか、それを自身で問い質してみれば、いいと想う。

そうすれば、ぼくの言いたい事を理解出来るヒトは、多少なりとも増えているかもしれないし、実はそれとは逆に、ぼくの心象を理解出来ないヒトばかりならば、それに越した事はないのだから。

今、松岡正剛の『千夜千冊』:番外録『1414夜 伊坂幸太郎・斎藤純・佐藤賢一・高橋克彦ほか 『東日本大震災 仙台学vol.11』』 [以下『1414夜』と略] を読みなおすと、一年前に感じた悪感情が殆ど沸かない事に驚いてしまう。
これは物理的な時間が経過した事でも、3.11. のリアリティが希薄化した事でも、そのどちらの理由によるモノではない、と想う。

恐らく、1年前に歯噛みしたのは、徒手空拳で東北行を結構した、松岡正剛だけに反応していたからなのだ。今、読みなおす事は、彼の行動よりも、その途上にあって、紹介されてゆく『東日本大震災 仙台学vol.11』で語られているモノに眼を奪われている様な気がする。
つまり、1年経過して、ようやく記事の主題が読める様になったという訳なのだ。

勿論、 『東日本大震災 仙台学vol.11』に寄稿した著作者達、赤坂憲雄山川徹伊坂幸太郎大島幹雄木瀬公二熊谷達也斎藤純高成田享高橋克彦三浦明博星亮一吉田司からみれば、今すぐにここで読まれるべきモノとして書いたモノが一年遅延して届いたと聴けば、納得はしないかもしれない。

でも、例えばその書物を紹介している松岡正剛自身が、東京のオフィスで読んでいたとしたら、そこで掲げられていたいくつものメッセージを受信する事は出来たのだろうか。
東北行があり、そこで観、聴き、嗅いだ、いくつものモノの体験があって初めて、その書物にひしめくモノを読み取る事が出来たのではないだろうか。

つまり、一年後に再び出逢ったぼくが、これからどうしていこうとするかが、今ここで、正に問われている、と考えたいのである。

と、これで結論として纏めてしまってもいいのかもしれないし、そうすれば、恰好の良いマニフェストとして、もうしばらくの時間稼ぎをぼくは出来るのかもしれない。
だけれども、残念ながら、そこまでぼくは己自身に対してオポテュ二ティーを発揮する事は出来ないのだ。

種明かしをする。

番外録『1414夜』が掲載されてから、その記事を引き継いでその先のヴィジョンを呈示する時は来るのだろうか、というのが、ぼくの関心事のひとつだったのだ。
掲載作品リストである全読譜を眺めると解るだろうけれども、後にも先にも、番外録『1414夜』と同じ系にあるべきモノがない様な気がするのだ。

松岡正剛自身はと言えば、東北行を通じて、観、聴き、嗅いだ、いくつものモノの体験を踏まえて、3.11.とフクシマを語る番外録 [現時点での最新作は番外録『第1465夜 池澤夏樹 春を恨んだりはしない』] を綴っているのは、確かな様だ。
でも、それは3.11.とフクシマをぼく達が知る為の第一次資料の提供に全精力が削がれてしまっている様な気がして仕様がない。

確かにそれらは、今、知るべき事、知らなければならない事ばかりであって、その結果、ぼく達は、盲信や過信や蒙昧や風評から逃れる事が出来るのに違いない。
つまり、どちらの立場に立つにしろ、己自身でその立脚点を見据える事が可能になるのだ。

[余談だけれども、それは賛成派 / 反対派の二色に塗り分ける事ではない、様々な見方 / 様々な聴き方がある群雄割拠状態になるのが、本来の在り方だし、それを踏まえて誰もが皆、考え、行動すべき筈なのだ。]

それよりもぼくが求めているモノは、番外録番外録『第1408夜 鈴木比佐雄・菊田守・長津功三良・山本十四尾編 鎮魂詩四〇四人集』で詠われていた感情や詠嘆の行方の引き受け先なのかもしれない。恐らく、そこから孕まされるモノや産まれるモノや育まれるモノ、それを待っている様なのだ。

そして、もしかしたら松岡正剛自身、彼なりに、身を以てそれを引き受けようとしたのが番外録『1414夜』での東北行だったのかもしれない。彼が当初持参したのが、『三陸海岸大津波』[吉村昭著]、『大伴家持』[北山茂夫著]、『東北 -つくられた異境』[河西英通著]『続・東北 -異境と原境のあいだ』[川西英通著] の4冊だった事からも薄々、解る。
でも個人的にはもしも、東北行の番外録『1414夜』がこの4冊のどれかの紹介によって彩られていたとしたら、御中虫ならずとも"あまりにキモイ"となったのかもしれない。

でも実際の東北行は、ご覧の通りの『東日本大震災 仙台学vol.11』の紹介へと結実するのだけれども、その結果、この記事だけがひとつ孤立している。ここで問われている様々なモノが宙に浮いている様になってしまって、放置されてしまっているのだ。
それがぼくの印象なのである。

ただ、先程登場した御中虫の句集『関揺れる』を紹介する番外録『1462夜 御中虫 関揺れる』以降、番外録『1414夜』が抛じたままとなっている幾つかのモノを受け止める用意が出来つつある様な気がしてならないのだ。

関悦史が揺れる事によって御中虫が揺れている様に、ダニー・ラファリエール森健池沢夏樹もナニかが揺れたから揺れているのだ。
それは、番外録番外録『第1408夜 鈴木比佐雄・菊田守・長津功三良・山本十四尾編 鎮魂詩四〇四人集』や番外録『1414夜』に登場する、数多くのヒトビトの揺れ始めに呼応している筈なのだ。

ぼくがこれから先の『千夜千冊』を読んで行く、理由のひとつがそれだと、今は理解している。
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