2012.04.27.20.48
『ほぼ日刊イトイ新聞』で『糸井さん、僕を『面接』してください。ある就活生の「1年4ヶ月」。』を読む
「コーヒー屋に、なったらいいんじゃないの?」
この一聴、無謀とも乱暴とも、最後通告とも聴こえる発言が発せられて、このコンテンツが目指しているモノが立ち所に姿を顕わした様にぼくには想える。
以下、このコンテンツの読書感想文を書いて行くつもりであって、しかも何度となくそこで発せられている発言を引用する事になる。だから、記事の紹介かたがた、その目次を最初に掲載しておこうと想う。
勿論、全文をお読みしてから以降の駄文につきあって頂ければ、と想っているのだが。
『 第1回 京都の大学に通う就活生です。糸井さん、僕を面接してくれませんか?』 [以下第1回と略]
『 第2回 優等生が「挫折」していく。』 [以下第2回と略]
『 第3回 ただの、いちばんの友だち。』 [以下第3回と略]
『 第4回 面接。』 [以下第4回と略]
『 第5回 コーヒー。』 [以下第5回と略]
『 第6回 僕の「現在地」は。』 [以下第6回と略]
なお、本文中は総て敬称略とさせて頂いた。ご了承願う。
さて、話を元に戻して。
冒頭に紹介した"面接官"糸井重里の発言「コーヒー屋に、なったらいいんじゃないの?」だけれども、通常の面接ではこおゆう発言は出ない。と、いうか出たらお仕舞いの発言で、だから最後通告という比喩にも登場してもらったのだけれども、単純に言えば「キミはいらない」であり「ここから出て行きたまえ」であるのだ。誰もコーヒー屋としての可能性があるなんて、信じちゃあいないし、考えてみてもいやぁしないものなのだ。
もしも例外があるとしたら、面接した企業がコーヒー屋の場合であって、この場合だけは"合格通知"の意味を持つ事になる。
つまり、若き日の糸井重里自身の就活時のエピソードとして語られる「ぜんぶ得意だって言ってるのと同じことだぞ!」という面接官の発言と同じ意味しか持っていないのである[第5回]。
ところが、このコンテンツ『僕を『面接』してください』では、この言葉が発せられたと同時に、ここにおいてようやく、このコンテンツが持つべき趣旨がかたち造られた様な気がするのだ。
それまでは、"面接官"糸井重里も、編集担当の奥野武範もデザイン担当の岡村も、そして、この企画を持ち込んだ就活生志谷啓太自身すらも、このコンテンツの意図を把握しきれていない。
第1回に掲載された、糸井重里の、企画へのゴー・サインの意思表示を顕わすメールにある様に、「僕らのほうが試されているような企画」なのだ。
むしろ、部外者である筈の柿添康大 [志谷啓太の友人、第3回では彼のインタヴューにも同席している] が、最もこのコンテンツの企画趣旨を把握している様な気がする。彼が提出した志谷啓太を紹介する文 [第1回] を読んで、このコンテンツに興味を憶えたヒトビトは多いのではないだろうか、そんな気がするのだ。
確かに「試されているような企画」なのである。
"面接官"と"面接者"の役割が入れ替わる可能性は充分にある。最も、それはこのコンテンツ企画だけの話ではなくて、世間で一般的に行われている面接そのものがそうなのだ。試す側と試される側はあくまでも建前上のモノで、常に流動的にその地位を交換しているのである。
立場や役割が違うヒトとヒトが出逢うという事の本来は、そおゆうモノなのである。
しかし、だからと言って、志谷啓太が試す側のモノでもないのは、彼への事前インタヴュー [第2回 第3回] を読めば、立ち所に解る。
志谷啓太という青年は、極端な表現をすれば、これまで『ほぼ日』には登場した事のない種類のヒトなのである。
『ほぼ日』というメディアは、不思議なメディアであって、ここには様々なヒトビトが様々なかたちで登場してきているのだけれども、その誰しもは"己がある"ヒトなのである。
"己がある"というのは、目的意識があるとか自我が確立しているとかヴィジョンをもっているとかいう表現に言い換えられるだろうけれども、しかもその上に、それをきちんと己自身の"ことば"で語って聴かせる事の出来るヒト達ばかりなのである。
具体的になにがどうこうと例示しないけれども、『気仙沼のほぼ日』に関わっているヒトビトと彼らの発言や行動を観るだけでも、ぼくの言いたい事は解ってくれると思う。
ところが、今回の企画の提案者である志谷啓太には、なぜだか、その様なモノを見出す事がなかなか出来ないのだ。
柿添康大が書いた彼の紹介文 [第1回] を読んだところにしても、正直言って、紹介されている志谷啓太本人よりもその文章を書いた柿添康大の方に関心と興味が向かってしまう。
何故ならば、その紹介文が、ヒトをヒトに紹介するという機能を充分に果たしたその上に、己自身がナニモノであるかをきちんと言い表し尽くしているのだから。
第4回での"面接官"糸井重里の発言「企業にしてみたら、彼は『ほしい人」』」が、この紹介文が与える印象を一言で言い表しているではないか。
そう言えば、彼の部屋に飾られている、彼女が描いた志谷啓太の素描画を観て [第2回]、意外な印象を持ったのはぼくだけだろうか。
「あれは彼女の様な、ごく親しいヒトにしか魅せない彼の内面なのかな、それとも、本来ならば彼に備わっているべき理想を彼女が描いたのかな」
そんな、本筋とはあまり関係ない様な事を考えてしまうのだ [本筋とは関係ないけれども、コンテンツに掲載されている彼の表情を追って行くと、その答えは自ずと明らかになる]。
だから、このコンテンツを読むヒトは、彼自身に潜む不安定さに引き摺られながら、読み進める事になる。恐らく、読むヒトは、己自身の現在やかつての己自身を引き合いに出しながら、彼の発言に注視し続ける事になるのだ。
つまり、あたかも、就活生であるかの様にも、採用する側の面接官であるかの様にも、将来の上司であるかの様にも、もしくは、彼の両親であるかの様にも、そんな意識にたって読むのに違いないのだ。
そおゆう意味では、通常の『ほぼ日』のコンテンツとは異なり、話者が"語るナニか"に注目するのではなくて、"ナニを語ろうとしているのか"、その所作やその心境の方に聞き耳を立てながら読む様な気がするのだ。
そんな、ある意味でもどかしい、ある意味ではスリリングなこの連載の方向を、ひとつに収斂したのが、冒頭に掲げた「コーヒー屋に、なったらいいんじゃないの?」という発言なのである。
この発言を受けて、"面接者"志谷啓太の意識や態度がどの様なものになったのかは、実際に本文に当たられる方がいいだろう [第5回]。
しかし、このコンテンツで大事なのは、インタヴュー直後にある志谷啓太の発言である[第6回]。
「僕、うぬぼれていました。やっぱり、甘かったです」
もしも、この発言がなかったのならば、少なくとも、ぼく達はコンテンツとしてその総ての経過を知る事はなかったのかもしれない。"面接"はしたけれどもコンテンツにはならなかったのかもしれないのだ。
だけれどもそれは、彼の現在やそれを支える彼の意識や行動とは関係はない。
震災があろうとなかろうと、彼の就活がどの様な結果であろうとも、関係はないのだ。
極論を言えば「甘かったです」という発言が出たから、こうして世に顕われたのであり、さらに言えばその発言を就活生志谷啓太から引き出す為にのみ、『僕を『面接』してください』というコンテンツは機能したと言えるのかもしれないのだ。
附記
この連載と前後して『ほぼ日』に掲載されていたコンテンツに、田口壮と糸井重里との対談『野球の人。〜田口壮、21年目の選択〜』がある。
その対談で語られている事を照射しながら『僕を『面接』してください』を読んで行くと、味わい深いモノがある。
単純に言えば、それぞれの当事者である田口壮と志谷啓太とが、互いの記事を読み比べたら、如何様な感慨を持つのだろうか、という様な事なのだけれどもね。
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