2012.04.20.16.43
佐々木俊尚著『当事者の時代』の冒頭部『プロローグ 三つの物語』をPubooで読む
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の最新刊、『当事者の時代』は、3月16日に光文社 (Kobunsha) から新書判『当事者の時代』として刊行され、その1ヶ月後の4月16日にパブー (Puboo) から電子書籍版『当事者の時代』として刊行された。しかも、そこには新書判『当事者の時代』には未収録の章題『なぜゼロリスクは生まれたのか』[こちらで著者が公表。2012/04/16 14:03:05付け] が掲載されているのである。
タイトルに記した『プロローグ 三つの物語』は、Puboo版『当事者の時代』の購入頁で無償公開されている。
だが、ぼくはここで、その頁で無償で読める『プロローグ 三つの物語』の感想や、それに続く筈の『当事者の時代』本編の感想を書こうというのではない。
上に記したスケジュールに従って刊行された2種類の『当事者の時代』と、そのスケジュールから読み取れるものを記しておきたいのだ。
以下、光文社 (Kobunsha) 刊行の新書判『当事者の時代』を「新書」、Puboo刊行の電子書籍版『当事者の時代』を「電書」と略す。
なお、この文中に登場する人物の総ての敬称は略させて頂く事にする。ご了承願います。
あらかじめ、断っておかなければならない事がふたつある。
ひとつは、現時点に於いて、ぼくは『当事者の時代』を未読である事。より正確に言えば、パブー (Puboo) で公開されている『プロローグ 三つの物語』だけ読んだ。逆に言えば、それしか読んでいない。
もうひとつは、これから書き綴るであろう事の殆どは、推察や憶測でしかないと言う事である。
このふたつの前提がどおゆう意味を持つかは、いずれ次第に明らかになる [かもしれない!?]。
ぼくが佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) というジャーナリストを知ったのは『ほぼ日刊イトイ新聞』での糸井重里 (Shigesato Itoi) との対論『佐々木俊尚 × 糸井重里 メディアと私 -おもに、震災のあと』であって、その後、偶然にツイッター (Twitter) 上で演じられたある人物達との応酬を観てしまったからだ [それは『佐々木俊尚氏に絡む広告業界の人たち(第一幕)』として纏められている]。
以来、ツイッター (Twitter) で彼のツイートとそれのフォロワー達のツイートを眺めるのが半ば習慣化していったのである。そして、その習慣化が定着し始めた頃合いに「新書」が刊行されて、その1ヶ月後に「電書」が刊行されたのである。
と、言う様な事をくだくだしく綴ったのには、訳がある。単純に、ぼくの佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) との距離感を理解しておいてもらいたいのだ。
熱烈な支持者でもないし、だからと言って、その正反対の敢然とした敵対者でもない。
敢て言えば、単なる野次馬の一人にすぎないのだ。
その野次馬が、これまで見聞きしてきた事から浮かび上がる、いろいろな推理や模索を書いてみたいと思うだけなのである。
一般的な見地からは、一ヶ月前に紙の本として刊行した書籍をその一ヶ月後に紙の本の半額で電子書籍 (E-Book) として販売するという今回の方法論は、どの様に観えるのであろうか。
しかも購入後の電子書籍 (E-Book) に関しては、「「当事者の時代」のパブー電書版は<中略>ダウンロードできるので、どんな機器でも自由に読めます。友人知人にコピーしてあげるのもご自由にどうぞ。私はその行為をいっさい非難しません。」と、著者自身がツイッター上で公認しているのである [そのツイートはこちらで読める。2004/04/16 21:03:30付け]。
英断とも暴挙とも愚挙とも自殺行為とも、それぞれの立場のヒトビトが様々な反応をしている様な気がする。そしてその殆どは、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が、誰かに対して、あたかも喧嘩を売っている様なモノの様に捉えているのではないだろうか。ただ、その誰かが誰なのかは、この行為を観たそのヒトの置かれた位置によって、異なったモノとなっている。
そんな推察が可能だ。
ちなみに、著者本人は次の様にツイートしている。
「「当事者の時代」はマスメディアからはいっさい黙殺され、部数もあまり出てないので、著者が暴走し490円というあり得ない価格破壊で売ってると思っていただければ正解です」 [引用はこちらから。2012/04/16 20:54:31付け]
だが、冷静に考えると、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が本気で喧嘩を売っているのは、不法もしくは違法に『当事者の時代』を運用しようとしているモノどもだけではないだろうか。
[もちろん、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) にとっての同業他社である他の著述家やジャーナリストに対しても、なんらかの意思表示や行動を促しているのだろうけれども、それは彼らが実際に顕わした意思や顕われた行動のその結果次第での話だから、現時点では佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) 自身にも即断は出来ないに違いない。]
先ず、誰しも思いつくのは、「新書」を刊行した光文社 (Kobunsha) に関してだろう。
編集し、製造し、流通させた自己の商品が、販売から1ヶ月後に、追加掲載された上に、しかも自社製品の半額で販売されているのである。
だが、光文社 (Kobunsha) にとっては総て折込み済のモノなのではないだろうか。
著者自身がツイッター上で「全文で23万文字。普通の新書2〜3冊分」と書いている様に [そのツイートはこちら。2012/04/16 20:50:05付の発言] 、本来ならば『当事者の時代』は「新書」ではなくて単行本として刊行されるべきヴォリュームがあるモノである。だから、1ヶ月後の「電書」化がなければ、そのヴォリューム感のままに単行本として出版されていたのではないだろうか。
だが実際は今ここにある様に、1ヶ月後に「電書」化されているのである。
だから利益率は遥かに劣るけれども、単価あたりの製造コストが低く、製造時間も速く、さらには、返品の在庫管理のコストも低い、「新書」として刊行したのでは、と考える事が出来ないだろうか。
つまり、期間限定商品を大量に売りさばく、場合によっては拠点店のみでの大量販売を目指すという観点でのみ、光文社 (Kobunsha) は対応したのではないだろうか。
次に思いつくのは、「友人知人にコピーしてあげるのもご自由にどうぞ」という発言によって、今度は「電書」を刊行したパブー (Puboo) に対して不利益とならないだろうか、という推察である。
この発言を多くのヒトビトは著者の著作権 (Copyright) 放棄と解釈した様だが、実は、その逆で、パブー (Puboo) の権益と己の権利を護る為の発言ではないだろうか。
つまり、所謂自炊業者潰しではないのだろうか、というのが、ぼくの観方なのだ。
技術的な問題さえクリアすれば、恐らく、誰でもがコピーをとれるだろうし、そのとったコピーを許に、「電書」の半額やそれ以下の価格で販売する事は出来るのだ。だが、ここで「ご自由にどうぞ」という発言を知ってしまったモノには、誰でも無償で入手出来る可能性が発生してしまう。だから、少なくとも「電書」版のモノに対しては、正価でパブー (Puboo) から購入するか、友人知人から入手するかのいずれかの選択肢しか存在し難い。著者自らが"著作権 (Copyright)"を放棄した為に、その中間で蠢くモノにとってはビジネスとして成立させる事が却って難しくなると思うのだ。
[余談だけれども、善意でコピー給付を申し出た人物の顛末がここで発表されている。例え善意であるとはいえ、あまり報われる事のない手間暇の様である。]
だから少なくとも上に記した様な意識の許で、今回のプロジェクトが企画されていて、それが想い描いた通りの手筈で進行し、想定したモノ以上の収益があがったとしたら、次の様な結論とならないだろうか。
紙の本と電子書籍 (E-Book) の共存共栄を目論んだプロジェクトである、と。
今現在、ぼくが見知っている限りでは、紙の本と電子書籍 (E-Book) との共存共栄は、今回のモノとは逆のベクトルを描いている。
つまり、最初にネット上で発表 / 掲載し、後日になって、紙の本として出版 / 流通させるやり方である。
それは、例えば『ほぼ日刊イトイ新聞』のいくつものコンテンツ [例えば光文社 (Kobunsha) つながりで言えば大沢在昌著『新宿鮫』] だったり、松岡正剛 の大著『千夜千冊』だったり、アマゾン (Amazon) のこの頁からアクセスするしかないマトグロッソ (Matogrosso) での連載だったりする訳だけれども。
ただ、この方法論は、共存でも共栄でもなくて、単純にこれまで雑誌というメディアが担っていた役割をそのまま引き受けただけに過ぎない。
それを是とするか否とするかは、今のぼくには判断出来ない事だらけだけれども、ここに挙げたみっつのメディアのコンテンツは総て無償提供されている、という事実だけは憶えておいた方がいいだろう。
つまり、無償で提供出来る体力があるコンテンツであり、その後に有償化して流通可能な体力がさらに求められるのである。ここで言う体力とは、とりあえずは知名度とか企画力とか言うモノだ。
そう言う意味では、今回の佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) による『当事者の時代』のプロジェクトは、ビジネス・モデルとして検討するに相応しいモノだと思う。例え、今回、充分な収益を見込めなくとも、それは著者、 [紙の] 出版社、電子書籍 (E-Book) 出版社、このそれぞれの当事者が、それぞれの受べかるべき利益の分配率とそれを現実的にする販売スケジュールを見直せば、打開出来そうなモノばかりな気がする。ただ、従来の販売方法や流通経路に則ってビジネスを成立してきた [紙の] 出版社にとって越えなければならないハードルの数も多ければ、高さも大きいというのは、否定出来ないかもしれないが。
附記;
今回の件で、ふと思ったのだけれども、[紙の] 出版社は電子書籍 (E-Book) での販売や流通に関してばかり囚われている様な気がする。
勿論、新しいメディア上での販売や流通を確保すると同時に、それを補完するモノを求めるべきではある。
でも、己の寄って立つその足許も、今一度、見直してはどうか。
というのは、なぜ、誰も書籍の再販売価格維持制度 (Resale Price Maintenance) を見直そうと思わないんだろうか、と。
この制度が必要にして不可欠なのは、素人眼で観れば、極限られた大手出版社と大手流通と大ベストセラー作家だけな気が、ぼくにはある。
価格設定や流通経路を現在よりも柔軟なモノにすれば、もう少し、ビジネスとして活性化する様な気がしてならないんだけど。
如何でしょうか?
タイトルに記した『プロローグ 三つの物語』は、Puboo版『当事者の時代』の購入頁で無償公開されている。
だが、ぼくはここで、その頁で無償で読める『プロローグ 三つの物語』の感想や、それに続く筈の『当事者の時代』本編の感想を書こうというのではない。
上に記したスケジュールに従って刊行された2種類の『当事者の時代』と、そのスケジュールから読み取れるものを記しておきたいのだ。
以下、光文社 (Kobunsha) 刊行の新書判『当事者の時代』を「新書」、Puboo刊行の電子書籍版『当事者の時代』を「電書」と略す。
なお、この文中に登場する人物の総ての敬称は略させて頂く事にする。ご了承願います。
あらかじめ、断っておかなければならない事がふたつある。
ひとつは、現時点に於いて、ぼくは『当事者の時代』を未読である事。より正確に言えば、パブー (Puboo) で公開されている『プロローグ 三つの物語』だけ読んだ。逆に言えば、それしか読んでいない。
もうひとつは、これから書き綴るであろう事の殆どは、推察や憶測でしかないと言う事である。
このふたつの前提がどおゆう意味を持つかは、いずれ次第に明らかになる [かもしれない!?]。
ぼくが佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) というジャーナリストを知ったのは『ほぼ日刊イトイ新聞』での糸井重里 (Shigesato Itoi) との対論『佐々木俊尚 × 糸井重里 メディアと私 -おもに、震災のあと』であって、その後、偶然にツイッター (Twitter) 上で演じられたある人物達との応酬を観てしまったからだ [それは『佐々木俊尚氏に絡む広告業界の人たち(第一幕)』として纏められている]。
以来、ツイッター (Twitter) で彼のツイートとそれのフォロワー達のツイートを眺めるのが半ば習慣化していったのである。そして、その習慣化が定着し始めた頃合いに「新書」が刊行されて、その1ヶ月後に「電書」が刊行されたのである。
と、言う様な事をくだくだしく綴ったのには、訳がある。単純に、ぼくの佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) との距離感を理解しておいてもらいたいのだ。
熱烈な支持者でもないし、だからと言って、その正反対の敢然とした敵対者でもない。
敢て言えば、単なる野次馬の一人にすぎないのだ。
その野次馬が、これまで見聞きしてきた事から浮かび上がる、いろいろな推理や模索を書いてみたいと思うだけなのである。
一般的な見地からは、一ヶ月前に紙の本として刊行した書籍をその一ヶ月後に紙の本の半額で電子書籍 (E-Book) として販売するという今回の方法論は、どの様に観えるのであろうか。
しかも購入後の電子書籍 (E-Book) に関しては、「「当事者の時代」のパブー電書版は<中略>ダウンロードできるので、どんな機器でも自由に読めます。友人知人にコピーしてあげるのもご自由にどうぞ。私はその行為をいっさい非難しません。」と、著者自身がツイッター上で公認しているのである [そのツイートはこちらで読める。2004/04/16 21:03:30付け]。
英断とも暴挙とも愚挙とも自殺行為とも、それぞれの立場のヒトビトが様々な反応をしている様な気がする。そしてその殆どは、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が、誰かに対して、あたかも喧嘩を売っている様なモノの様に捉えているのではないだろうか。ただ、その誰かが誰なのかは、この行為を観たそのヒトの置かれた位置によって、異なったモノとなっている。
そんな推察が可能だ。
ちなみに、著者本人は次の様にツイートしている。
「「当事者の時代」はマスメディアからはいっさい黙殺され、部数もあまり出てないので、著者が暴走し490円というあり得ない価格破壊で売ってると思っていただければ正解です」 [引用はこちらから。2012/04/16 20:54:31付け]
だが、冷静に考えると、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) が本気で喧嘩を売っているのは、不法もしくは違法に『当事者の時代』を運用しようとしているモノどもだけではないだろうか。
[もちろん、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) にとっての同業他社である他の著述家やジャーナリストに対しても、なんらかの意思表示や行動を促しているのだろうけれども、それは彼らが実際に顕わした意思や顕われた行動のその結果次第での話だから、現時点では佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) 自身にも即断は出来ないに違いない。]
先ず、誰しも思いつくのは、「新書」を刊行した光文社 (Kobunsha) に関してだろう。
編集し、製造し、流通させた自己の商品が、販売から1ヶ月後に、追加掲載された上に、しかも自社製品の半額で販売されているのである。
だが、光文社 (Kobunsha) にとっては総て折込み済のモノなのではないだろうか。
著者自身がツイッター上で「全文で23万文字。普通の新書2〜3冊分」と書いている様に [そのツイートはこちら。2012/04/16 20:50:05付の発言] 、本来ならば『当事者の時代』は「新書」ではなくて単行本として刊行されるべきヴォリュームがあるモノである。だから、1ヶ月後の「電書」化がなければ、そのヴォリューム感のままに単行本として出版されていたのではないだろうか。
だが実際は今ここにある様に、1ヶ月後に「電書」化されているのである。
だから利益率は遥かに劣るけれども、単価あたりの製造コストが低く、製造時間も速く、さらには、返品の在庫管理のコストも低い、「新書」として刊行したのでは、と考える事が出来ないだろうか。
つまり、期間限定商品を大量に売りさばく、場合によっては拠点店のみでの大量販売を目指すという観点でのみ、光文社 (Kobunsha) は対応したのではないだろうか。
次に思いつくのは、「友人知人にコピーしてあげるのもご自由にどうぞ」という発言によって、今度は「電書」を刊行したパブー (Puboo) に対して不利益とならないだろうか、という推察である。
この発言を多くのヒトビトは著者の著作権 (Copyright) 放棄と解釈した様だが、実は、その逆で、パブー (Puboo) の権益と己の権利を護る為の発言ではないだろうか。
つまり、所謂自炊業者潰しではないのだろうか、というのが、ぼくの観方なのだ。
技術的な問題さえクリアすれば、恐らく、誰でもがコピーをとれるだろうし、そのとったコピーを許に、「電書」の半額やそれ以下の価格で販売する事は出来るのだ。だが、ここで「ご自由にどうぞ」という発言を知ってしまったモノには、誰でも無償で入手出来る可能性が発生してしまう。だから、少なくとも「電書」版のモノに対しては、正価でパブー (Puboo) から購入するか、友人知人から入手するかのいずれかの選択肢しか存在し難い。著者自らが"著作権 (Copyright)"を放棄した為に、その中間で蠢くモノにとってはビジネスとして成立させる事が却って難しくなると思うのだ。
[余談だけれども、善意でコピー給付を申し出た人物の顛末がここで発表されている。例え善意であるとはいえ、あまり報われる事のない手間暇の様である。]
だから少なくとも上に記した様な意識の許で、今回のプロジェクトが企画されていて、それが想い描いた通りの手筈で進行し、想定したモノ以上の収益があがったとしたら、次の様な結論とならないだろうか。
紙の本と電子書籍 (E-Book) の共存共栄を目論んだプロジェクトである、と。
今現在、ぼくが見知っている限りでは、紙の本と電子書籍 (E-Book) との共存共栄は、今回のモノとは逆のベクトルを描いている。
つまり、最初にネット上で発表 / 掲載し、後日になって、紙の本として出版 / 流通させるやり方である。
それは、例えば『ほぼ日刊イトイ新聞』のいくつものコンテンツ [例えば光文社 (Kobunsha) つながりで言えば大沢在昌著『新宿鮫』] だったり、松岡正剛 の大著『千夜千冊』だったり、アマゾン (Amazon) のこの頁からアクセスするしかないマトグロッソ (Matogrosso) での連載だったりする訳だけれども。
ただ、この方法論は、共存でも共栄でもなくて、単純にこれまで雑誌というメディアが担っていた役割をそのまま引き受けただけに過ぎない。
それを是とするか否とするかは、今のぼくには判断出来ない事だらけだけれども、ここに挙げたみっつのメディアのコンテンツは総て無償提供されている、という事実だけは憶えておいた方がいいだろう。
つまり、無償で提供出来る体力があるコンテンツであり、その後に有償化して流通可能な体力がさらに求められるのである。ここで言う体力とは、とりあえずは知名度とか企画力とか言うモノだ。
そう言う意味では、今回の佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) による『当事者の時代』のプロジェクトは、ビジネス・モデルとして検討するに相応しいモノだと思う。例え、今回、充分な収益を見込めなくとも、それは著者、 [紙の] 出版社、電子書籍 (E-Book) 出版社、このそれぞれの当事者が、それぞれの受べかるべき利益の分配率とそれを現実的にする販売スケジュールを見直せば、打開出来そうなモノばかりな気がする。ただ、従来の販売方法や流通経路に則ってビジネスを成立してきた [紙の] 出版社にとって越えなければならないハードルの数も多ければ、高さも大きいというのは、否定出来ないかもしれないが。
附記;
今回の件で、ふと思ったのだけれども、[紙の] 出版社は電子書籍 (E-Book) での販売や流通に関してばかり囚われている様な気がする。
勿論、新しいメディア上での販売や流通を確保すると同時に、それを補完するモノを求めるべきではある。
でも、己の寄って立つその足許も、今一度、見直してはどうか。
というのは、なぜ、誰も書籍の再販売価格維持制度 (Resale Price Maintenance) を見直そうと思わないんだろうか、と。
この制度が必要にして不可欠なのは、素人眼で観れば、極限られた大手出版社と大手流通と大ベストセラー作家だけな気が、ぼくにはある。
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