2012.04.16.23.36
御中虫に第2句集『関揺れる
』125句を詠ませるその動機となった、長谷川櫂の『震災句集
』のあとがき『一年後』には、つぎの一文がある。
「俳句で震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。それはときに非情なものとなるだろう。」 [長谷川櫂オフィシャル・ブログ『KAI』のこの頁から引用。]
この言葉は、ぼくには違和感ばかりがつきまとう。
この一文で、俳人の主張したい一点は本来ならば「非情なものとなる」の一語に尽きるのかもしれない。
つまり、詠まれた125句のそれぞれに、被災者や被災地域への有情が、あたかも存在しない様に詠めてしまう事への。
でも、そんな言い訳じみたエクスキューズではなくて、その前段におおいな疑問符が沸いて仕様がないのである [尤も疑問符が沸いているのはここだけではない。この遥か前の部分にもあるのだけれども、それをここで指摘すると論点が不鮮明になるから、ここではしない]。
解りやすい様に抜き書きすれば、こおゆう事である。
「俳句で」「よむということは」「悠然たる時間の流れのなかで眺めること」。
俳句って、そおゆうものなのかなぁ?というのが、ぼくの実感である。
むしろ、即位即答で臨機応変に作品を産み出していく事ぢゃあないんだろうか。そんな気がして仕方がないのである。
あえて言えば、創作とか文学とか芸術とかというモノよりも、報道とか情報とか通信とかいうモノに近いのではないのだろうか。それ程に、即興性を重視した表現活動 / 創作行為の様に、ぼくは俳句という表現 / 創作を捉えている様なのだ。
となると、ここで問題となるのが、俳句になくてはならない季語と言うモノの存在である。ヒトによっては季語そのものが「悠然たる時間の流れ」の表出でありその存在証明 (raison d'etre) であるかの様に観えてしまうであろうと、思えるからだ。
でも。
季語を「悠然たる時間の流れ」を補完するツールとしての効能を認めた上で、それとは全く異なるモノも季語にはあるのではないだろうか。つまり、季語そのものが、作品が即興の産物であるという証明になり得るのだ、という意味で。
いやむしろ、地球自らが自転しながら太陽系のひとつとして公転している結果、時が巡り季節が移り変わり、かつて観た光景が顕われかつての体験が甦るのである。
さっき、昨日、一週間前、一月前、一年前 ...、そんな記憶が甦らせる情景は、確かに往時の己と己を取り巻くモノに無縁ではないけれども、それらは決して、今この時とイコールではないのだ。
「悠然たる時間の流れ」は、結局のところ、一瞬一瞬の膨大な積み重ねの結果に過ぎないのではないか。
つまり、いつどこでその作品が産まれたのかと言う、そんな一瞬一瞬の刻印として、季語は機能しているのでは、とぼくは考えているのである。
例えば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の『ファウスト (Faust)』という物語。
物語の最期の最期になって初めて、ゲオルク・ファウスト (Johann Georg Faust) はメフィストフェレス (Mephistopheles) が待ち望んだ台詞『時よ止まれ お前は美しい (Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! )』を吐く。そこで叫ばれている「時よ止まれ (Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch)」こそが、俳句における季語の役割ではないだろうか。そんな気がするのである。この「お前は美しい (du bist so schoen !)」がいつどこで発話されたのかを同定出来なければ、契約の証としてメフィストフェレス (Mephistopheles) はゲオルク・ファウスト (Johann Georg Faust) の魂を奪う事が出来ないのだ。
逆に観れば「お前は美しい (du bist so schoen !)」というだけでは、虚ろで空しいモノに過ぎず、それだけでは決してヒトは愚か己をもすら、感動させる事は出来ないのである。
ことばが詩になるのには、「時よ止まれ (Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch)」と「お前は美しい (du bist so schoen !)」が携えて共存する事が必要なのかもしれない。
と、言う様な印象をぼくは俳句という短い表現 / 創作物に対して抱いているのだけれども、実際に創作を営んでいる俳人や、日常的に俳句に慣れ親しんでいる方は、どの様にお考えなのだろうか。
間違いがあれば指摘して頂きたいし、誤解であるのならば繙いて頂きたい。
少なくとも、上に書いた様な視点でもって、御中虫の第2句集『関揺れる
』に向かうと、非常に得心がいくのである。
俳人自らが己のブログ『虫日記R6』のこの頁で作品の成立過程を語っている様に、「揺れツイート」を発信しているもうひとりの俳人関悦史 [最新作は被災下での作品も掲載されている『六十億本の回転する曲がつた棒
』] に俳人自身が揺さぶられて125句は誕生した。
ならば、「悠然たる時間の流れ」ではない季語、「悠然たる時間の流れ」を連想させてしまわない季語が求められるのも当然の事であって、捏造季語「関揺れる」の存在も必然なのである。
と、同様に、実際に生き暮し営んでいる俳人関悦史の日々が詠み込まれる事によって、「非情なものとなる」筈の句が、有情なものとして響いてくる。しかも豊穣に、だ。
それが非常に心地よいのは言うまでもない。
何故ならば「俳句で震災をよ」んでいるのにも関わらず、「非情なものとな」っていないからである。
附記 1.:
ところで、125句の動機になった揺れツイートの発信者が関悦史だったから捏造季語「関揺れる」が生成した訳だけれども、これが佐藤某や鈴木某が発信者だったらどうなっただろう。それは、仮名2文字で発話可能な、みの某や久米某でも同じ事である。つまり、ここでぼくが想い描いた関というモノは大仰で大袈裟なモノなのかもしれないけれども、関という文字は、人物名以外のナニモノかを想像させて、非常にイマジナラヴルなのだ。作品を詠むヒトに様々なモノを喚起させる可能性を孕んだ「季語」なのである。
附記 2.:
ここでは、松岡正剛の『千夜千冊』の番外録『1462夜 御中虫 関揺れる』で紹介されるままに、そこから連想された様々な事を書き散らかしてしまったので、今回あらためて、俳句という表現の内での視点に拘泥わって書き綴ってみた。日常、俳句に接する機会のないぼくなので、斯界の論客の皆様、お手柔らかにお願い致します(にっこり)。
なお、ぼく自身が御中虫『関揺れる
』に揺さぶられているのは、多分、あなた方とはべつなところで激震が起きているからだと思います。それを書き綴る機会はいつ来るのか、それともそれ以前にあり得るのかどうかすらも、現在のところは不明ではあるのですが。
「俳句で震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。それはときに非情なものとなるだろう。」 [長谷川櫂オフィシャル・ブログ『KAI』のこの頁から引用。]
この言葉は、ぼくには違和感ばかりがつきまとう。
この一文で、俳人の主張したい一点は本来ならば「非情なものとなる」の一語に尽きるのかもしれない。
つまり、詠まれた125句のそれぞれに、被災者や被災地域への有情が、あたかも存在しない様に詠めてしまう事への。
でも、そんな言い訳じみたエクスキューズではなくて、その前段におおいな疑問符が沸いて仕様がないのである [尤も疑問符が沸いているのはここだけではない。この遥か前の部分にもあるのだけれども、それをここで指摘すると論点が不鮮明になるから、ここではしない]。
解りやすい様に抜き書きすれば、こおゆう事である。
「俳句で」「よむということは」「悠然たる時間の流れのなかで眺めること」。
俳句って、そおゆうものなのかなぁ?というのが、ぼくの実感である。
むしろ、即位即答で臨機応変に作品を産み出していく事ぢゃあないんだろうか。そんな気がして仕方がないのである。
あえて言えば、創作とか文学とか芸術とかというモノよりも、報道とか情報とか通信とかいうモノに近いのではないのだろうか。それ程に、即興性を重視した表現活動 / 創作行為の様に、ぼくは俳句という表現 / 創作を捉えている様なのだ。
となると、ここで問題となるのが、俳句になくてはならない季語と言うモノの存在である。ヒトによっては季語そのものが「悠然たる時間の流れ」の表出でありその存在証明 (raison d'etre) であるかの様に観えてしまうであろうと、思えるからだ。
でも。
季語を「悠然たる時間の流れ」を補完するツールとしての効能を認めた上で、それとは全く異なるモノも季語にはあるのではないだろうか。つまり、季語そのものが、作品が即興の産物であるという証明になり得るのだ、という意味で。
いやむしろ、地球自らが自転しながら太陽系のひとつとして公転している結果、時が巡り季節が移り変わり、かつて観た光景が顕われかつての体験が甦るのである。
さっき、昨日、一週間前、一月前、一年前 ...、そんな記憶が甦らせる情景は、確かに往時の己と己を取り巻くモノに無縁ではないけれども、それらは決して、今この時とイコールではないのだ。
「悠然たる時間の流れ」は、結局のところ、一瞬一瞬の膨大な積み重ねの結果に過ぎないのではないか。
つまり、いつどこでその作品が産まれたのかと言う、そんな一瞬一瞬の刻印として、季語は機能しているのでは、とぼくは考えているのである。
例えば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の『ファウスト (Faust)』という物語。
物語の最期の最期になって初めて、ゲオルク・ファウスト (Johann Georg Faust) はメフィストフェレス (Mephistopheles) が待ち望んだ台詞『時よ止まれ お前は美しい (Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! )』を吐く。そこで叫ばれている「時よ止まれ (Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch)」こそが、俳句における季語の役割ではないだろうか。そんな気がするのである。この「お前は美しい (du bist so schoen !)」がいつどこで発話されたのかを同定出来なければ、契約の証としてメフィストフェレス (Mephistopheles) はゲオルク・ファウスト (Johann Georg Faust) の魂を奪う事が出来ないのだ。
逆に観れば「お前は美しい (du bist so schoen !)」というだけでは、虚ろで空しいモノに過ぎず、それだけでは決してヒトは愚か己をもすら、感動させる事は出来ないのである。
ことばが詩になるのには、「時よ止まれ (Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch)」と「お前は美しい (du bist so schoen !)」が携えて共存する事が必要なのかもしれない。
と、言う様な印象をぼくは俳句という短い表現 / 創作物に対して抱いているのだけれども、実際に創作を営んでいる俳人や、日常的に俳句に慣れ親しんでいる方は、どの様にお考えなのだろうか。
間違いがあれば指摘して頂きたいし、誤解であるのならば繙いて頂きたい。
少なくとも、上に書いた様な視点でもって、御中虫の第2句集『関揺れる
俳人自らが己のブログ『虫日記R6』のこの頁で作品の成立過程を語っている様に、「揺れツイート」を発信しているもうひとりの俳人関悦史 [最新作は被災下での作品も掲載されている『六十億本の回転する曲がつた棒
ならば、「悠然たる時間の流れ」ではない季語、「悠然たる時間の流れ」を連想させてしまわない季語が求められるのも当然の事であって、捏造季語「関揺れる」の存在も必然なのである。
と、同様に、実際に生き暮し営んでいる俳人関悦史の日々が詠み込まれる事によって、「非情なものとなる」筈の句が、有情なものとして響いてくる。しかも豊穣に、だ。
それが非常に心地よいのは言うまでもない。
何故ならば「俳句で震災をよ」んでいるのにも関わらず、「非情なものとな」っていないからである。
附記 1.:
ところで、125句の動機になった揺れツイートの発信者が関悦史だったから捏造季語「関揺れる」が生成した訳だけれども、これが佐藤某や鈴木某が発信者だったらどうなっただろう。それは、仮名2文字で発話可能な、みの某や久米某でも同じ事である。つまり、ここでぼくが想い描いた関というモノは大仰で大袈裟なモノなのかもしれないけれども、関という文字は、人物名以外のナニモノかを想像させて、非常にイマジナラヴルなのだ。作品を詠むヒトに様々なモノを喚起させる可能性を孕んだ「季語」なのである。
附記 2.:
ここでは、松岡正剛の『千夜千冊』の番外録『1462夜 御中虫 関揺れる』で紹介されるままに、そこから連想された様々な事を書き散らかしてしまったので、今回あらためて、俳句という表現の内での視点に拘泥わって書き綴ってみた。日常、俳句に接する機会のないぼくなので、斯界の論客の皆様、お手柔らかにお願い致します(にっこり)。
なお、ぼく自身が御中虫『関揺れる
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