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2012.04.24.17.24

よごれつちまつたかなしみに

ふとくちをついてでる。己のくちからこぼれだす時がある。無意識にくちびるがささやきはじめるのだ。

そんな時は、そんな時は、嗚呼、どうしよう。
だが、どうしようもないような、そんなときそんなところにいるからこそ、不意を憑かれて、詠ってしまうのだ。

この詩を最初に聴いたのは、いつだろう。この詩を最初に教えてくれたのは誰だろう。

ふと思い立って、中原中也 (Chuya Nakahara) の詩集を購ったのは、高校生の時だった。
それを読み進めていくと、いくつもいくつも、聴いた事がある様な、観た事がある様な、そんな詩句を発見する。
初めて読む筈のその詩人の撰集は、実はぼくにとって、詩人の再発見の為にしかならないモノだった。

そして当然の様に、『汚れつちまつた悲しみに (Upon The Sadness All Smeared Up ...)』 [詩集『山羊の歌 (The Poem of The Goat)』より 1934年刊行] も、既に、いつかどこかで、体感したモノだったのである。

誰がいつ、この詩をぼくの耳許で囁いたのか。

酔った父親に呼び出されて、まだ乳離れもしていない弟を加えた母子3人で迎えに行ったその先の居酒屋で、赤ら顔の酔客のひとりが、つぶやいていたのだろうか。
店の女将に振る舞われたバヤリースのオレンジ・ジュースのあてに、おでんを一串二串、頬張っているぼくに、酔った燐客がからかい半分で教授したのだろうか。

オトナの世界を垣間観る機会はいくらだってあったし、それとは逆に、オトナ自身が己達の世界を見せつけようとやっきになっている、そんな環境も、幾らだってあったのだ。
雀荘、パチンコ屋、競輪場、スナック、映画館、...。今となっては、例え保護者同伴でも立ち入れない様な場所さえ、当時は自由に出入り出来た。さもなければ、殆ど滅菌消毒されてしまって去勢されている様な場所さえも、往時は生々しいモノがそのままに無防備に日常へと曝け出され、そこから様々な毒を発散させていたのである。

もしかしたら実生活のモノではなくて、ブラウン管やスクリーンの向こうの登場人物達の、誰かなのだろうか。

確かに、いくつかの作品に顕われる、ある種のヒトビトには、その可能性は大いにあるのだ。
己の意図せぬままに身体改造を施され肉体を喪ってしまった、島村ジョー (Joe Shimamura) や本郷猛 (Takeshi Hongo) ならば、闘いの果てに魅せる内心と共に、詠うのかもしれない。
己に課せられた極限状況を脱する為に、あえてヒトでない道を歩んでいる蒲郡風太郎 (Futaro Gamagori) やアシュラ (Ashura) は、血に染まった己の両腕を眺めて、囁くのかもしれない。
さもなければ、己が心血を注いで編み出した必殺の技を破られたその夜、茫然自失となった星飛雄馬 (Hoshi Hyuuma) や伊達直人 (Naoto Date) こそが、この詩に相応しいモノなのかもしれない。

ある意味では、物語の登場人物に、人間的な深みと弱みと陰を与えたいと思うのならば、ある渦中の不意に、この詩をつぶやかせればいいのかもしれない。
何故ならば、一例を挙げるとすれば、『ワンピース (One Peace)』の主要登場人物の誰にも相応しい詩である様な、そんな気もするからだ。それを声高に発露するのか、それとも一切をこころの底に封じ込めるのかは、それぞれの登場人物に相応しい方法とその描写がある筈だ。だけれども、そんな状況をかいくぐって、彼らそれぞれは、ここに集っているのではないだろうか。

とはいうものの、個人的には、この詩が最も相応しいのは、矢吹丈 (Joe Yabuki) に違いないのだ。
流れ流れて辿り着いたドヤ街での一夜や、脱走を試みるも力石徹 (Tohru Rikiishi) の一撃で失敗して投獄された特等少年院の独房の夜や、その力石徹 (Tohru Rikiishi) の死に打ちのめされて彷徨う東京の夜や ...、彼には幾度となく、この詩を詠うべき夜がある様な気がしてしまうのだ。
勿論、いくら原作をひっくり返したところで、詩をくちずさむ彼のそんなシーンはないのだけれども。
むしろ、その夜が果てる前に、彼には再生への途がいつのまにか指し示されているのであるのだけれども。

きっと、ぼくが少年期を過ごした、昭和の40年代とは、そおゆう時代だったのだろう。
夜は待っていて、と同時に、夜の次に顕われるべきモノもそこで静かに控えていてくれているのに違いない。

と、いう具合に、ずっと詩にまつわる諸々を書き連ねながら、その本来的なモノに触れる事を避け続けていたいのだけれども、流石にそうもいかない。
やはり、詩そのものを語らない訳にはいかないのである。

あらためて詩 [ここに掲載されてます] を読んでみると、妙にひっかかるモノがひとつある。

全体的なトーンは、情緒的とも叙情的とも呼べる心象が漠然とした佇まいで澱んでいるだけだ。だから、読者はその茫洋とした趣を最大公約数と捉えて詠めば、いくらでも、己自身の心象に叶うモノを見出す事は出来る筈である。
いつであろうと、どこであろうと、己の内心に影射す疾しさや弱さや情けなさを観出したその時に、この詩を想い返せばいい。そうすれば、恐らく、この作品を書いた時の詩人自身の危うさや脆さやいじましさと呼応し、作品に共鳴する事が出来るだろう。

だがしかし、それだけではすまないのだ。

詩人自身のこころの中のもろもろは、たったひとつの事物に集約されている。

「たとへば狐の革裘」この一行である。

それは読むモノに向けた、厳しくて険しい問いである。
つまり、単なる気分的なモノ、モードにしかすぎないモノを己は詩に託しているのではないのだ、という強い主張なのである。
「たとへば狐の革裘」と言いながら、これは比喩でも事例でもない。「たとへば」と言いながら、他に類推させる事もせずに、他に実例を挙げる事もせずに、如何様にも解釈可能な「汚れつちまつた悲しみ」を「狐の革裘」と断定してみせているのである。
つまり、詩人こそは正に「汚れつちまつた悲しみ」の渦中にあるのであって、逆にこれを詠むあなた自身が想い描く「汚れつちまつた悲しみ」とは、一切に異なるモノなのである、と断定しているのだ。
詩人の手許にある「狐の革裘」と匹敵し得る様な、あからさまに具体的で現実的なモノは、あなたにはないでしょう、と問い質しているのである。

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ところで、ぼくはこの「狐の革裘」という語句から、どうしても『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』 [新美南吉 (Niimi Nankichi) 赤い鳥 (Akai tori) 復刊3巻1月号 (Reissue Vol.3 January) 1932年掲載] を想い出してしまって仕様がない。
つまり、狐の純情が、これまで己の仕出かしてきた愚行が仇となって、最悪のかたちで否定されてしまった物語を、だ。

蛇足を承知で書き加えれば、狐の純情を描いたその物語を裏返すと同じ作者による『手袋を買いに (Buying Mittens)』[『牛をつないだ椿の木1943年掲載] となる。

このふたつのきつねの純情に右往左往しているのが、『汚れつちまつた悲しみに (Upon The Sadness All Smeared Up ...)』という詩の、ぼく自身の解釈なのである。

次回は「」。
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