2012.04.04.00.52
『ほぼ日刊イトイ新聞』で『ゼロからはじめるジャーナリズム オランダ人ジャーナリスト、ヨリス・ライエンダイクさんと。』を読む
『ほぼ日刊イトイ新聞』 [以下『ほぼ日』と略] で連載されていた『ゼロからはじめるジャーナリズム オランダ人ジャーナリスト、ヨリス・ライエンダイクさんと。』 [以下『ゼロからはじめる』] を読んでいると、軽い既視感 (Deja-vu) に襲われるのである。
その既視感 (Deja-vu) とはなにか。
と、いう様に謎めいた括りをして、今この駄文を読もうとしているあなたの興味を引っ張ろうとしたけれども、巧く文意が纏まらない。
だから、最初にその正体を明かしてしまおう、と思う。
つまり、同じく『ほぼ日』で連載されていた『佐々木俊尚×糸井重里 メディアと私。 -おもに、震災のあと。』 [以下『メディアと私』と略] で語られているモノなのである。
なお、以下、文中は総て敬称略とさせて頂いた。
ご了承願う。
その既視感 (Deja-vu) とは具体的になんなのか。
例えば、糸井重里 (Shigesato Itoi) と佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の対論での、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の次の証言である。
「ぼくは4月に入ってからはじめて被災地に入ったんですが、そこで気づいたことは、「自分に語れるものがなにもない」ということだったんです。」そしてそれから先に次の様に続ける。
「そこにいる人に取材して書くっていう、いわゆる従来の新聞社の手法はあるかもしれないんですけど、」 [以上『メディアと私』 第1回『当事者としての立ち位置。』]
これと同趣旨 [?] の発言が、糸井重里 (Shigesato Itoi) とヨリス・ライエンダイク
(Joris Luyendijk) の対論である『ゼロからはじめる』でも登場するのだ。
イスラエル (State Of Israel) 占領下のラマッラー (Ramallah) で観た光景が、これまで現地からの報道や情報として入手していたモノとあまりに違うという事なのである[『ゼロからはじめる』 第1回『石を投げている人がいない』]。にも関わらずに、「伝えるべきニュースの内容は、本社の編集部や通信社によってすでに『用意してあるも同然』だった」[『ゼロからはじめる』 第0回『ヨリスさんって、どんな人?』]
上の文章中に"同趣旨 [?]"と、クエスチョン・マークを便宜上つけてみたけれども、読むヒトによっては、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の東北での体験とヨリス・ライエンダイク
(Joris Luyendijk) の中東での体験を並べられても、疑問符しか湧かないかもしれない。
一方は天災の極地とも言える3.11の有様であり、一方は人災の極地とも言える戦争下の行動なのだ、と。一方は報道されている以上に生々しい被災地の惨状であり、一方は報道されている様な騒然さは微塵もない被占領地域なのだ、と。
それはそうかもしれない。しかし、それでもふたりのジャーナリスト (Journalist) の体験とその時に感じた筈の心情は、似ていると思うのだ。
つまり、自身で育んだものであろうと他者から学んだものであろうと、これまで蓄積されてきた報道の方法論では、今、現地で体感しているモノを伝える事が出来ないという実感なのである。
無論、ふたりのジャーナリスト (Journalist) の経験値や当時のポジショニングの違いから、その実感への応急処置はそれぞれ違う。
従来型のメディアである新聞出身でなおかつ経験豊富なフリーランスの佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) には、己自身が学び培ってきた、これまで通りの取材方法があった。
経験の乏しい、ジャーナリスト (Journalist) になりたてのヨリス・ライエンダイク
(Joris Luyendijk) は、本国の本社が要求するモノだけを提供すればよかった。
でも、それを潔しとしなかった、ふたりがいる。
ここなのだ。
そして、さらに。
今、それぞれのふたりのジャーナリスト (Journalist) がいるその場で、ふたりの認識は、何故だか一致しているのである。
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) はそれを「途中経過」 [『メディアと私』 第5回『メディアの文体』] と語り、ヨリス・ライエンダイク
(Joris Luyendijk) は「ゼロからはじめられる」と語る[『ゼロからはじめる』 第3回『ゼロからはじめるジャーナリズム。』]。
言葉尻だけを捉えてみれば、「途中経過」と「ゼロからはじめられる」では、全然異なる印象を抱いてしまうかもしれない。けれども、それはふたりの視点の立脚している位置が違う、それだけが理由なのだ。そして、その違う位置に立ってしまうのは、単純に現在へと至る過程と経験 [と、もしかしたら資質] の差異だけなのである。
彼らが主張しているのは、従来型のジャーナリズムではない在り方、インターネットを介在させるジャーナリズムの在り方なのである。
だが、とぼくは思う。
それぞれがそれぞれの言葉で語る「途中経過」や「ゼロからはじめられる」は、インターネットに遭遇してしまったジャーナリスト (Journalist) だけのモノではないし、彼らだけが知りえるモノでもないと思うのだ。
むしろ、ジャーナリスト (Journalist) ではない、一般の市井のヒトビトの方が、その実感は強く大きいのでないだろうか。
ただ、それは誰も言語化したり体系化したりしていないだけで、インターネット上でホームページ (Web Page) やブログ (Blog) やツイッター (Twitter) やフェイスブック (Facebook) やミクシィ (Mixi) やあれやこれやで、自身の発言をしているヒトビトならば、多かれ少なかれ、知っていたりするモノではないだろうか。
アクセス数の多い記事と少ない記事の差異や、「いいね!」の多い書込と少ない書込の差異や、RTの多いつぶやきと少ないつぶやきの差異、己の発言に対して自覚的なモノは、少なからず、理由や原因を、うすうす気づいているのに違いないのだ。
だから、もしも、自身の発言に対するネット上の反応が少ないと思い、それを改善したい方々は、「途中経過」や「ゼロからはじめられる」を導入してみればいいと思う。
[と、書いているぼく自身はどうなのか、と問われれば、ご覧の通りです(苦笑)]
ところで、『ゼロからはじめる』の第4回『スーパーマンになろうとしてない。』で、糸井重里 (Shigesato Itoi) は過去に行ったワークショップを次の様に紹介している。
「『ポケットの中から100円を出しなさい』と言って100円を出してもらって、『今から15分あげるから、どこかに捨ててきなさい。で、捨てた感想を述べなさい』って言ったんです。」
「あとで取れるように電話ボックスの中に置いたとか、ジュースを買って飲んだとか、それは捨てたとは言わないんじゃないかなと。でも、たぶん、そっちのほうがジャーナリスティックな態度だったんだろうな(笑)。」
では、従来型ではないジャーナリスト (Journalist) はどの様な行動をするのだろうか。さもなければ、すべきなのだろうか。
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) やヨリス・ライエンダイク
(Joris Luyendijk) は、どの様な行動をするのだろうか。
と、同時に、『ほぼ日』に登場した幾人ものジャーナリスト、例えば、『松原耕二さんは、なぜ小説を書いたのだろう?』に登場したTBSの松原耕二や『ゼロから立ち上がる会社に学ぶ東北の仕事論。朝日新聞気仙沼支局 篇』に登場した朝日新聞気仙沼支局員掛園勝二郎はどうするのだろうか [何故、ここにふたりの新たなジャーナリスト (Journalist) の名前が登場するかはこちらをご覧下さい]。
ちなみに、ぼく個人はどうかと問われれば、胸に手をあてて考えると、多分、次の様な行動をしてしまうのだろう。
そのワークショップに割り当てられた自席の眼と鼻の先に、しかも、いつでも視線を投げれば観える場所に「捨て」るのだろう。さもなければ、自席の下に置いた己の手荷物の下敷きだ。
そうして、いつ誰がその100円に気がつくのか、ひやひやしながら、気もそぞろにワークショップに参加しているのに違いないのだ。その100円をこの後にどうするか。「あとで取」るのか「捨て」るのかは、きっと、ワークショップの過程の中で顕われる評価に従うだろう。
それはジャーナリスティックなものではない。単なる小心者の浅ましい行為なのである。
その既視感 (Deja-vu) とはなにか。
と、いう様に謎めいた括りをして、今この駄文を読もうとしているあなたの興味を引っ張ろうとしたけれども、巧く文意が纏まらない。
だから、最初にその正体を明かしてしまおう、と思う。
つまり、同じく『ほぼ日』で連載されていた『佐々木俊尚×糸井重里 メディアと私。 -おもに、震災のあと。』 [以下『メディアと私』と略] で語られているモノなのである。
なお、以下、文中は総て敬称略とさせて頂いた。
ご了承願う。
その既視感 (Deja-vu) とは具体的になんなのか。
例えば、糸井重里 (Shigesato Itoi) と佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の対論での、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の次の証言である。
「ぼくは4月に入ってからはじめて被災地に入ったんですが、そこで気づいたことは、「自分に語れるものがなにもない」ということだったんです。」そしてそれから先に次の様に続ける。
「そこにいる人に取材して書くっていう、いわゆる従来の新聞社の手法はあるかもしれないんですけど、」 [以上『メディアと私』 第1回『当事者としての立ち位置。』]
これと同趣旨 [?] の発言が、糸井重里 (Shigesato Itoi) とヨリス・ライエンダイク
イスラエル (State Of Israel) 占領下のラマッラー (Ramallah) で観た光景が、これまで現地からの報道や情報として入手していたモノとあまりに違うという事なのである[『ゼロからはじめる』 第1回『石を投げている人がいない』]。にも関わらずに、「伝えるべきニュースの内容は、本社の編集部や通信社によってすでに『用意してあるも同然』だった」[『ゼロからはじめる』 第0回『ヨリスさんって、どんな人?』]
上の文章中に"同趣旨 [?]"と、クエスチョン・マークを便宜上つけてみたけれども、読むヒトによっては、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の東北での体験とヨリス・ライエンダイク
一方は天災の極地とも言える3.11の有様であり、一方は人災の極地とも言える戦争下の行動なのだ、と。一方は報道されている以上に生々しい被災地の惨状であり、一方は報道されている様な騒然さは微塵もない被占領地域なのだ、と。
それはそうかもしれない。しかし、それでもふたりのジャーナリスト (Journalist) の体験とその時に感じた筈の心情は、似ていると思うのだ。
つまり、自身で育んだものであろうと他者から学んだものであろうと、これまで蓄積されてきた報道の方法論では、今、現地で体感しているモノを伝える事が出来ないという実感なのである。
無論、ふたりのジャーナリスト (Journalist) の経験値や当時のポジショニングの違いから、その実感への応急処置はそれぞれ違う。
従来型のメディアである新聞出身でなおかつ経験豊富なフリーランスの佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) には、己自身が学び培ってきた、これまで通りの取材方法があった。
経験の乏しい、ジャーナリスト (Journalist) になりたてのヨリス・ライエンダイク
でも、それを潔しとしなかった、ふたりがいる。
ここなのだ。
そして、さらに。
今、それぞれのふたりのジャーナリスト (Journalist) がいるその場で、ふたりの認識は、何故だか一致しているのである。
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) はそれを「途中経過」 [『メディアと私』 第5回『メディアの文体』] と語り、ヨリス・ライエンダイク
言葉尻だけを捉えてみれば、「途中経過」と「ゼロからはじめられる」では、全然異なる印象を抱いてしまうかもしれない。けれども、それはふたりの視点の立脚している位置が違う、それだけが理由なのだ。そして、その違う位置に立ってしまうのは、単純に現在へと至る過程と経験 [と、もしかしたら資質] の差異だけなのである。
彼らが主張しているのは、従来型のジャーナリズムではない在り方、インターネットを介在させるジャーナリズムの在り方なのである。
だが、とぼくは思う。
それぞれがそれぞれの言葉で語る「途中経過」や「ゼロからはじめられる」は、インターネットに遭遇してしまったジャーナリスト (Journalist) だけのモノではないし、彼らだけが知りえるモノでもないと思うのだ。
むしろ、ジャーナリスト (Journalist) ではない、一般の市井のヒトビトの方が、その実感は強く大きいのでないだろうか。
ただ、それは誰も言語化したり体系化したりしていないだけで、インターネット上でホームページ (Web Page) やブログ (Blog) やツイッター (Twitter) やフェイスブック (Facebook) やミクシィ (Mixi) やあれやこれやで、自身の発言をしているヒトビトならば、多かれ少なかれ、知っていたりするモノではないだろうか。
アクセス数の多い記事と少ない記事の差異や、「いいね!」の多い書込と少ない書込の差異や、RTの多いつぶやきと少ないつぶやきの差異、己の発言に対して自覚的なモノは、少なからず、理由や原因を、うすうす気づいているのに違いないのだ。
だから、もしも、自身の発言に対するネット上の反応が少ないと思い、それを改善したい方々は、「途中経過」や「ゼロからはじめられる」を導入してみればいいと思う。
[と、書いているぼく自身はどうなのか、と問われれば、ご覧の通りです(苦笑)]
ところで、『ゼロからはじめる』の第4回『スーパーマンになろうとしてない。』で、糸井重里 (Shigesato Itoi) は過去に行ったワークショップを次の様に紹介している。
「『ポケットの中から100円を出しなさい』と言って100円を出してもらって、『今から15分あげるから、どこかに捨ててきなさい。で、捨てた感想を述べなさい』って言ったんです。」
「あとで取れるように電話ボックスの中に置いたとか、ジュースを買って飲んだとか、それは捨てたとは言わないんじゃないかなと。でも、たぶん、そっちのほうがジャーナリスティックな態度だったんだろうな(笑)。」
では、従来型ではないジャーナリスト (Journalist) はどの様な行動をするのだろうか。さもなければ、すべきなのだろうか。
佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) やヨリス・ライエンダイク
と、同時に、『ほぼ日』に登場した幾人ものジャーナリスト、例えば、『松原耕二さんは、なぜ小説を書いたのだろう?』に登場したTBSの松原耕二や『ゼロから立ち上がる会社に学ぶ東北の仕事論。朝日新聞気仙沼支局 篇』に登場した朝日新聞気仙沼支局員掛園勝二郎はどうするのだろうか [何故、ここにふたりの新たなジャーナリスト (Journalist) の名前が登場するかはこちらをご覧下さい]。
ちなみに、ぼく個人はどうかと問われれば、胸に手をあてて考えると、多分、次の様な行動をしてしまうのだろう。
そのワークショップに割り当てられた自席の眼と鼻の先に、しかも、いつでも視線を投げれば観える場所に「捨て」るのだろう。さもなければ、自席の下に置いた己の手荷物の下敷きだ。
そうして、いつ誰がその100円に気がつくのか、ひやひやしながら、気もそぞろにワークショップに参加しているのに違いないのだ。その100円をこの後にどうするか。「あとで取」るのか「捨て」るのかは、きっと、ワークショップの過程の中で顕われる評価に従うだろう。
それはジャーナリスティックなものではない。単なる小心者の浅ましい行為なのである。
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