2012.04.03.17.03
ルネ・マグリット (Rene Magritte) の油彩画『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』は、1959年の作品、エルサレム ( Jerusalem) はイスラエル博物館 (Israel Museum) に収蔵されている。
その作品論はここでは書かない。
ただ、この作品に触発されたある作品について語ろうと思うのだ。
とは言っても、ネットで検索してみると、その関連性を指摘しながらずらずらと出て来る『天空の城ラピュタ
(Laputa : Castle In The Sky)』 [宮崎駿 (Hayao Miyazaki) 監督作品 1986年制作] は、あえて無視する。
あの作品は、『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』をもって語るべきモノではない。
ラピュタ (Laputa) の語源である『ガリヴァー旅行記
(Travels Into Several Remote Nations Of The World, In Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, And Then A Captain Of Several Ships
)』 [ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift) 著 1726年発表] や、ロジャー・ディーン (Roger Dean) の諸作品に登場する聳え起つ大地 [代表的なものとしては、1972年発表のイエス (Yes) のアルバム『危機 (Close To The Edge)
』でのインナー・スリーヴ (Art Work For Inner Sleeve) だろうか] や、『宇宙戦艦ヤマト
(Space Battleship Yamato)』 [松本零士 (Leiji Matsumoto) 原作 讀賣テレビ放送系列 1974年放映] に登場する、大地からさかしまにぶらさがるガミラス帝国 (Gamilas) と比較すべきモノなのである。
勿論、ぼくは『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』は上に挙げた諸作品とは全くの無関係だと指摘したいのではない。少なくとも、それぞれにとってのイメージの源泉のひとつである事は、否定出来ないだろう。
それに、画家のルネ・マグリット (Rene Magritte) 自身の脳裏に『ガリヴァー旅行記
(Travels Into Several Remote Nations Of The World, In Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, And Then A Captain Of Several Ships
)』 [ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift) 著 1726年発表] に登場する中空都市が霞めない訳はないのだ。画家も、あのラピュタ (Laputa) を敷衍してその油彩画を描いたのに違いないのだ。
何故ならば、小説に登場する都市のイメージがあって初めて、観るモノに、この油彩画の存在がリアリティを産み出しえる、とぼくは思っているからなのである。
藤子不二雄A (Fujiko Fujio A) の短編にマンガ『マグリットの石
』がある。1970年年に『ビッグコミック』に発表された読切りの掌編である。ぼくは、彼の短編漫画を纏めた『愛蔵版 ブラックユーモア短篇集第2巻:ぶきみな5週間』で初めて読んだ。
この作品の中に主題として登場するのが、ルネ・マグリット (Rene Magritte) の油彩画『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』なのである。

物語は単純だ。
ある画集で『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』を見出したある青年が、その作品に顕われるイメージに魅了されて、そしてそれが度を超したモノとなって、次第に苛まされる様になり、その結果、"文字通りに"そのイメージに押し潰されてしまうのだ。
一見、ベタな展開でベタなオチだと思うかもしれない。実際に、ぼくもそう思う。だが、冷静になってこの作品に向き合えば、ある意味、異様な物語なのである。
現実には、それには浮遊するちからはない。その一方で、その画集のなかでは、それは悠然と空にある。現実と空想をきっちりと棲み分けているヒトビトならば、そこでお仕舞いだ。
だが、ヒトはそのどちらか一方だけにのみ活きる術はない。誰だって夢は観るし、誰だって腹はへる。だから、どこかでいつか、現実と空想は互いに浸食しあうのだ。
そして、その逢魔が時に遭遇出来さえすれば、現実にはあり得ない夢に空想の翼が飛び立つ場合もあれば、空想の住民どもが世知辛い世の中に辟易せざるを得なくなる。そこから物語は語り始められるのだし、そこから経済が始るに違いないのだ。
だから、その一瞬の不意をつかれ、どちらかがどちらかを侵犯するその場その時に居れば、空にあり得ないモノが空にあるその時を体験する場合もあれば、堕ちぬ筈のモノが己の頭上に堕ちて来る場合もあるのである。
韜晦な表現をしてしまったけれども、ぼくに言わせれば、『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』に描かれている巨岩が現実にはあり得ないのと同様に、あの巨岩が実際に浮いているその場所では、絶対にそれが堕ちる筈はないのである。
つまり、こちらの世界では岩が中空に漂う事があり得ないのと同様に、あちらの世界では中空に漂う岩は、永遠に己の頭上にあってしかるべきなのだ。
杞憂ということばは、どちらの世界にもある。しかし、そのことばが指し示すモノ、それ自体が、あちらの世界とこちらの世界では違う、ただ、それだけの事なのだ。
にも関わらずに、『マグリットの石
』に登場する主人公は、あり得ない事を心配し、あり得ない事を危惧し、あり得ない事を憂慮した結果、決してあり得ない事態に遭遇してあり得ない身の破滅を体現してしまうのである。
何故ならば、その主人公は、両方の世界にある境界のいずこでもない場所に踏み込む事によって、どちらの世界にもあり得ない事柄を体験してしまうからなのである。
つまり、彼はかつて己が棲んでいた"こちらの世界"からはみ出してしまいながらも、その先に広がる"あちらの世界"に棲む事を拒否してしまった、その結果が、彼の悲劇なのである。
次回は「ろ」。
附記:
ところで、同じ中空に浮かぶ岩をモチーフにしても、これが水木しげる (Shigeru Mizuki) の手にかかると、全く異なるテイストの作品になる。『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』の一篇『電気妖怪
』 [1967年 週刊少年マガジン発表] だ。
ホラー作品や怪奇作品を手掛けるふたりのマンガ家の、モチーフの連用の仕方がこうも違うのかとも思う。
だから、本来ならば、藤子不二雄A (Fujiko Fujio A) の最大の友人にして最良のライヴァルである藤子・F・不二雄 (Fujiko・F・Fujio) の作品群の中に『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』のモチーフが出て来ると、ふたりの藤子不二雄 (Fujiko Fujio) の創作における原点や思考経路の違いを比較出来て、面白いのだけろうけれども、恐らく、そんな作品は存在しないだろう。
きっと、藤子・F・不二雄 (Fujiko・F・Fujio) は『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』なぞ、歯牙にもかけなかったのに違いない。そう思うのだ。
何故って、竹とんぼを模した飛行機械が正々堂々と大宙を駆け回る、軽やかな世界観が彼だもの。
その作品論はここでは書かない。
ただ、この作品に触発されたある作品について語ろうと思うのだ。
とは言っても、ネットで検索してみると、その関連性を指摘しながらずらずらと出て来る『天空の城ラピュタ
あの作品は、『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』をもって語るべきモノではない。
ラピュタ (Laputa) の語源である『ガリヴァー旅行記
勿論、ぼくは『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』は上に挙げた諸作品とは全くの無関係だと指摘したいのではない。少なくとも、それぞれにとってのイメージの源泉のひとつである事は、否定出来ないだろう。
それに、画家のルネ・マグリット (Rene Magritte) 自身の脳裏に『ガリヴァー旅行記
何故ならば、小説に登場する都市のイメージがあって初めて、観るモノに、この油彩画の存在がリアリティを産み出しえる、とぼくは思っているからなのである。
藤子不二雄A (Fujiko Fujio A) の短編にマンガ『マグリットの石
この作品の中に主題として登場するのが、ルネ・マグリット (Rene Magritte) の油彩画『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』なのである。

物語は単純だ。
ある画集で『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』を見出したある青年が、その作品に顕われるイメージに魅了されて、そしてそれが度を超したモノとなって、次第に苛まされる様になり、その結果、"文字通りに"そのイメージに押し潰されてしまうのだ。
一見、ベタな展開でベタなオチだと思うかもしれない。実際に、ぼくもそう思う。だが、冷静になってこの作品に向き合えば、ある意味、異様な物語なのである。
現実には、それには浮遊するちからはない。その一方で、その画集のなかでは、それは悠然と空にある。現実と空想をきっちりと棲み分けているヒトビトならば、そこでお仕舞いだ。
だが、ヒトはそのどちらか一方だけにのみ活きる術はない。誰だって夢は観るし、誰だって腹はへる。だから、どこかでいつか、現実と空想は互いに浸食しあうのだ。
そして、その逢魔が時に遭遇出来さえすれば、現実にはあり得ない夢に空想の翼が飛び立つ場合もあれば、空想の住民どもが世知辛い世の中に辟易せざるを得なくなる。そこから物語は語り始められるのだし、そこから経済が始るに違いないのだ。
だから、その一瞬の不意をつかれ、どちらかがどちらかを侵犯するその場その時に居れば、空にあり得ないモノが空にあるその時を体験する場合もあれば、堕ちぬ筈のモノが己の頭上に堕ちて来る場合もあるのである。
韜晦な表現をしてしまったけれども、ぼくに言わせれば、『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』に描かれている巨岩が現実にはあり得ないのと同様に、あの巨岩が実際に浮いているその場所では、絶対にそれが堕ちる筈はないのである。
つまり、こちらの世界では岩が中空に漂う事があり得ないのと同様に、あちらの世界では中空に漂う岩は、永遠に己の頭上にあってしかるべきなのだ。
杞憂ということばは、どちらの世界にもある。しかし、そのことばが指し示すモノ、それ自体が、あちらの世界とこちらの世界では違う、ただ、それだけの事なのだ。
にも関わらずに、『マグリットの石
何故ならば、その主人公は、両方の世界にある境界のいずこでもない場所に踏み込む事によって、どちらの世界にもあり得ない事柄を体験してしまうからなのである。
つまり、彼はかつて己が棲んでいた"こちらの世界"からはみ出してしまいながらも、その先に広がる"あちらの世界"に棲む事を拒否してしまった、その結果が、彼の悲劇なのである。
次回は「ろ」。
附記:
ところで、同じ中空に浮かぶ岩をモチーフにしても、これが水木しげる (Shigeru Mizuki) の手にかかると、全く異なるテイストの作品になる。『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』の一篇『電気妖怪
ホラー作品や怪奇作品を手掛けるふたりのマンガ家の、モチーフの連用の仕方がこうも違うのかとも思う。
だから、本来ならば、藤子不二雄A (Fujiko Fujio A) の最大の友人にして最良のライヴァルである藤子・F・不二雄 (Fujiko・F・Fujio) の作品群の中に『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』のモチーフが出て来ると、ふたりの藤子不二雄 (Fujiko Fujio) の創作における原点や思考経路の違いを比較出来て、面白いのだけろうけれども、恐らく、そんな作品は存在しないだろう。
きっと、藤子・F・不二雄 (Fujiko・F・Fujio) は『ピレネーの城 (Le Chateau de Pyrenees)』なぞ、歯牙にもかけなかったのに違いない。そう思うのだ。
何故って、竹とんぼを模した飛行機械が正々堂々と大宙を駆け回る、軽やかな世界観が彼だもの。
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