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2012.02.02.21.19

『ほぼ日刊イトイ新聞』で『佐々木俊尚 × 糸井重里 メディアと私 -おもに、震災のあと。』をななめに読む

ほぼ日刊イトイ新聞』 [以下『ほぼ日』と略] で、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) と糸井重里 (Shigesato Itoi) の対談『佐々木俊尚 × 糸井重里 メディアと私 -おもに、震災のあと』 [以下『メディアと私』と略] が、9回に渡って掲載された。
その対談をななめに読んだ感想を書いてみたいと思う。

ちなみに、この駄文に登場する人物は総て敬称を略させて頂いた。
ご了承願います。

と、書くとなんでななめなんだ、失礼ぢゃあないか、ちゃんと読め、という様な声が聴こえてきそうである。

だが、もしも、そんな声が聴こえてきたとしたら、こう答えるつもりである。

失礼のない様に読んだし、ちゃんと読んだよ。だから、ななめなんだ。と。
でも、失礼のない様に読めば読む程に、ちゃんと読めば読む程に、ななめに読む姿勢は強まりこそすれ、姿勢を糾す方向には向かないのだ。

でも、だからと言って、ここで語られている事の殆どは頷けるものでもあるし、あからさまな批難や反論をぼくに促させるものは、あまりにも少ない。
だからこそ、ななめに読むのである。

と、いうのはこの『メディアと私』で語られている事の殆どが、この連載が掲載されている期間ずっと、『ほぼ日』の他の連載で実行されているからなのだ。

メディアと私』の第2回『インターネットの両極端な世界。』から第4回『リアルな情報。』が連載されていた時には『東北の仕事論。大船渡三陸とれたて市場篇』 [以下、『とれたて市場篇』と略] が同時並行で連載されていて、『メディアと私』の第6回『ほんとうに求められるもの。』から第8回『いくつかのきっかけ。』が連載されていた時には『21世紀の仕事論 09 地図調査スタッフ』 [以下、『地図調査スタッフ』と略] が連載されていたのである。

とれたて市場篇』では、三陸とれたて市場の代表八木健一郎の、"海"との出逢いから始って、"海"で活きる事に目覚め、その成果として三陸とれたて市場を立ち上げるまでが語られている。その過程は、それだけでドラマチックだし、"海"を知らないぼく達からみれば、驚きと羨ましいの連続なのである。
不幸にして3.11. を体験した事によって、現在、さらにドラマチックな展開を迎える事になってしまったけれども、3.11. 以前のエピソードだけで、充分に読み応えもあるし、口内には唾液も溜るし、ハラもへる展開だ。

一方の、『地図調査スタッフ』では、日本の総ての路を歩いて調査してその成果として日本全土の地図を制作する会社、株式会社ゼンリン (Zenrin) を取材している。インタヴューに応えたのは、そのスタッフのふたり坂本卓也と紙永佐知子である。
実際に歩いて地図をつくるというだけで驚くべき事かもしれないけれども、でも、それだけではない。その過程に、地図以外の、もしくは、地図に顕われない、その土地の貌が、大袈裟に言えば、日本の正体が浮き上がって来る様な気がする。
そうして、最終回である第3回はタイトルにもある様に『東北の地図をつくる。』。
復興支援としての地図、というか、復興そのものをドキュメントとして語る地図という姿が浮かび上がってくるのである。

スタッズ・ターケル (Studs Terkel) の『仕事! (Working : People Talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do)』、その『ほぼ日』ヴァージョンを目指して連載が開始された『21世紀の『仕事!』論。 (Twenty First Century "Working!")』は、3.11.以降、期せずしてそこからの復興を目指すモノ達を追う『ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。』を産み、二本立てで並走していた訳だけれども、ここにきて、二本の路は、ひとつの路になったのである。

だから、ぼくは、ふたつの仕事論に登場するヒトビトの行動と、それを語るさんにんの発言と、それをまとめたふたつの連載を読みながら、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) と糸井重里 (Shigesato Itoi) の対談を右往左往しながら、読んでいたのである。
つまり、対談者のふたりの発言に登場する行為や意識が、ふたつの仕事論の中で、語られているのではないかと、ずっと考えながら読んでいたからである。

それをぼくは、ななめに読むと、表現したのである。

附記:
上の文章にぼくは「ここで語られている事の殆どは頷けるものでもあるし、あからさまな批難や反論をぼくに促させるものは、あまりにも少ない」と書いた。
つまり、少ないながらも頷けないものも、ある事にはあるのだ。
それを書く。
それは明らかな反論というモノよりも、喉に刺さった小骨の様な、居心地の悪さを感じるものである。
メディアと私』の第3回『ブログとツイッター』で、佐々木俊尚 (Toshinao Sasaki) の発言に次のものがある。
「でも、サイレントマジョリティーって、その外側にいるわけです。そこでの言論というのは、いわば円環を成しているんですね。」
「中心に批判されている人がいて、それを批判している人たちが取り囲んでいて、彼らは自分たちこそが一般の声だと思っているけど、さらにその外側をたくさんのサイレントマジョリティーが取り囲んでいる。」
サイレント・マジョリティ (Silent Majority) の辞書的 [!?] な意味は、リンク先を観てもらうとして、この言葉が使われる場合は、時の権力者や為政者が、批判の矢面に立っている己の正当性を主張する場合が多いのである。
言葉の使い方の不適切さを指摘したいのではない。
今、現に多数のヒトビトの批判に曝されているとしても、それ以外に、自身を支持しているヒトビトは必ず多数派なのだ。そんな意識が見透かされるこの発言を、ぼくは生理的に受け付けられないのだ。
と、いうのは、いろいろな局面 [ネット上以外も含めて] において、あからさまに反論されるよりも、さらに恐ろしいのは、あからさまな無視だと思っているからなのである。
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