2012.01.24.17.31
悲しくて哀しくてカナシくてかなしくて、どこまでもどこまでも飛び続けていたら、その悲しみと哀しみとカナシミとかなしみとを突き抜けて、いつのまにか天空にある星になっていた。
そんな物語だと、ぼくは宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の短編『よだかの星
』 [1921年頃執筆] を記憶していた様なのである。
誤読や誤解という程ではないのだけれども、その前段がすっぽりと抜け落ちてしまったのは、やはり個人的な理由があるからなのだ。
幼い頃のぼくは身体も弱く体力もないくせに、近所の児や通っていた保育園で始終、喧嘩ばかりしていた。そして、その結果は毎回決め事の様にぼくが負けて、泣かされてばかりだった。
泪が溢れて来ると、そこにいたたまれなくなって、いつのまにか、奔り出している。
泣いているのは、痛いからでも、怖いからでも、辛いからでもない。泪を流しべそをかいている己自身が嫌だからなのだ。
喧嘩の相手から逃げる為に奔っているのではない。今そこにいる己自身を消去し抹消したくて、思わず、奔り出しているのだ。
そんな自身の幼い記憶がそのまんま物語に照射されて、『よだかの星
』 [1921年頃執筆] という物語を、誤った記憶の底に埋もれさせてしまっていたのである。
この『よだかの星
』 [1921年頃執筆] に関しては、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) ならではの宗教観や死生観に基づいた自己犠牲
(Self‐sacrifice) の物語だと言われている。
主人公のよだか (Grey Nightjar) が、己の様なモノに喰われてしまう蟲達の存在と、その蟲を喰らって活きる己の存在に、不条理で非道なモノを感じたからであろうか。
一見して、この論調は説得力がある様で、実はなにも具体的な視点を与えてはくれない。
『デビルマン
(Devilman)』 [永井豪 (Go Nagai) 作 1972〜1973年 週刊少年マガジン連載] に登場するデーモン、魔獣ジンメン (Jinmen) ならばさしずめこう言うのに違いない。
「だから俺は、殺さずに喰ったのさ」と。
話が変な方向へ、しかも、この連載でいつもしている様な方向に向かいつつあるので、ここで、慌てて軌道修正を試みる。
『よだかの星
』 [1921年頃執筆] を理解するには、月に兎 (Rabbit) が棲む理由を説明した説話『月の兎 (The Jade Rabbit)』と並べて読むといいのではないだろうか。
つまり、神を手厚くもてなす他の動物達と異なって、その術を一切持たぬ兎 (Rabbit) が、己自身を火中に登場して、己を神への馳走としたという、あの自己犠牲
(Self‐sacrifice) の物語である。神はそんな兎 (Rabbit) を憐れんで、彼を月まで運んだのだ。
良寛 (Ryokan) が長歌『月の兎 (The Rabbit In The Moon)』でも詠んだこの説話は、『今昔物語集 (Konjaku Monogatarishu)』 [1120年代頃成立] で巻五第13話『三獣行菩薩通兎焼身語 』という題名でも掲載されているが、元を正せば十二部経 (Douze Divisions des Soutras bouddhiques) の1つである『本生 / ジャータカ (Jataka)』 [紀元前3世紀頃成立] の『兎の話 (Sasa Jataka : The Rabbit In The Moon)』に、その出典を求める事が出来ると言う。
『よだかの星
』 [1921年頃執筆] そのものとこの説話との関連性は解らないけれども、自らの身を以て呈したモノが昇天し、その住人になるという構造は、とてもよく似ていると思う。
勿論、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) 自身が『よだかの星
』 [1921年頃執筆] を執筆する際に、参照したとか引用したとか転用したとか盗用したとか、という事を言いたいのではない。
単に、『よだかの星
』 [1921年頃執筆] を自己犠牲
(Self‐sacrifice) の物語として解読しようとするのであるならば、この兎 (Rabbit) の自己犠牲
(Self‐sacrifice) の物語と並べ比べて読んでみて、両者にあるモノとないモノを検証してみればいい。そう主張したいだけなのである。

それよりも、ぼくが気になったのは、よだか (Grey Nightjar) の前に顕われた鷹 (Hawk) が、市蔵へと改名を迫るシーンなのである。
しかも、鷹 (Hawk) は改名を求めるだけではなくて、札に市蔵と書いてそれを首からぶら下げて、改名の披露をしながら挨拶回りをしろと言うのである。
[上記掲載画像は『よだかの星
』 [作:宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) 絵:中村道雄 (Michio Nakamura)] より。こちらで掲載されている]
このシーンからぼくはふと、方言札を想い出したのである。
戦前の教育現場で行われた悪しき慣行である。
方言を矯正し、共通語を習熟させる為に、方言で発話したモノには、その罰として方言札なる木の札を頸からぶらさげさせて、己の失態をアピールさせたそうなのだ。
この悪弊は、特に東北 (Tohoku Region) や沖縄 (Okinawa) で行われていたそうで、ぼくがその存在と仕打ちの非道さを知ったのは、『吉里吉里人
(Kirikirijin)』 [井上ひさし (Hisashi Inoue) 著 1978〜1980年 小説新潮連載] での描写である。
[なんだフィクションでしかもエンターテイメントかよと断じてはいけない。と、いうのはその小説の中で行われる吉里吉里国独立戦争の、その主因のひとつが言語の問題であるからなのだ。独立を目指した吉里吉里人達にとっては、自身が使う言語を否定される事は、人権侵害に等しい行為なのだ。掌中、吉里吉里人の発話が常に共通語の上に吉里吉里語による発話のルビが振られているのはその証左でもある。]
だから、『よだかの星
』 [1921年頃執筆] を逆に読めば、己らが発話する言葉を悪しきモノとして処罰するその手法は、鷹 (Hawk) がよだか (Grey Nightjar) に市蔵への改名を迫る行為に等しい。そんな主張を読み取る事が出来るのである。
つまり、言葉を否定する事は、生得の名前を否定する事であり、つまり、そのモノのアイディンティティーを否定する行為なのである。
そんな風に、この短い物語のこのシーンから、そんな事をも読みとれてしまうのである。
勿論、これもまたぼくの邪推にすぎない。宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の創作物の中で、彼の産まれ育った地域や地方の言葉がどの様なかたちで顕われ活かされているのか、それを調べなければ、正しいところは解らないだろう。
しかも、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) 自身は、教育者でもあるのだ。彼自身が、その場でどの様に振舞い、もしくはまた、立ち向かったのか。そこまでをも調査する必要もあるのかもしれない。
次回は「し」。
そんな物語だと、ぼくは宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の短編『よだかの星
誤読や誤解という程ではないのだけれども、その前段がすっぽりと抜け落ちてしまったのは、やはり個人的な理由があるからなのだ。
幼い頃のぼくは身体も弱く体力もないくせに、近所の児や通っていた保育園で始終、喧嘩ばかりしていた。そして、その結果は毎回決め事の様にぼくが負けて、泣かされてばかりだった。
泪が溢れて来ると、そこにいたたまれなくなって、いつのまにか、奔り出している。
泣いているのは、痛いからでも、怖いからでも、辛いからでもない。泪を流しべそをかいている己自身が嫌だからなのだ。
喧嘩の相手から逃げる為に奔っているのではない。今そこにいる己自身を消去し抹消したくて、思わず、奔り出しているのだ。
そんな自身の幼い記憶がそのまんま物語に照射されて、『よだかの星
この『よだかの星
主人公のよだか (Grey Nightjar) が、己の様なモノに喰われてしまう蟲達の存在と、その蟲を喰らって活きる己の存在に、不条理で非道なモノを感じたからであろうか。
一見して、この論調は説得力がある様で、実はなにも具体的な視点を与えてはくれない。
『デビルマン
「だから俺は、殺さずに喰ったのさ」と。
話が変な方向へ、しかも、この連載でいつもしている様な方向に向かいつつあるので、ここで、慌てて軌道修正を試みる。
『よだかの星
つまり、神を手厚くもてなす他の動物達と異なって、その術を一切持たぬ兎 (Rabbit) が、己自身を火中に登場して、己を神への馳走としたという、あの自己犠牲
良寛 (Ryokan) が長歌『月の兎 (The Rabbit In The Moon)』でも詠んだこの説話は、『今昔物語集 (Konjaku Monogatarishu)』 [1120年代頃成立] で巻五第13話『三獣行菩薩通兎焼身語 』という題名でも掲載されているが、元を正せば十二部経 (Douze Divisions des Soutras bouddhiques) の1つである『本生 / ジャータカ (Jataka)』 [紀元前3世紀頃成立] の『兎の話 (Sasa Jataka : The Rabbit In The Moon)』に、その出典を求める事が出来ると言う。
『よだかの星
勿論、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) 自身が『よだかの星
単に、『よだかの星

それよりも、ぼくが気になったのは、よだか (Grey Nightjar) の前に顕われた鷹 (Hawk) が、市蔵へと改名を迫るシーンなのである。
しかも、鷹 (Hawk) は改名を求めるだけではなくて、札に市蔵と書いてそれを首からぶら下げて、改名の披露をしながら挨拶回りをしろと言うのである。
[上記掲載画像は『よだかの星
このシーンからぼくはふと、方言札を想い出したのである。
戦前の教育現場で行われた悪しき慣行である。
方言を矯正し、共通語を習熟させる為に、方言で発話したモノには、その罰として方言札なる木の札を頸からぶらさげさせて、己の失態をアピールさせたそうなのだ。
この悪弊は、特に東北 (Tohoku Region) や沖縄 (Okinawa) で行われていたそうで、ぼくがその存在と仕打ちの非道さを知ったのは、『吉里吉里人
[なんだフィクションでしかもエンターテイメントかよと断じてはいけない。と、いうのはその小説の中で行われる吉里吉里国独立戦争の、その主因のひとつが言語の問題であるからなのだ。独立を目指した吉里吉里人達にとっては、自身が使う言語を否定される事は、人権侵害に等しい行為なのだ。掌中、吉里吉里人の発話が常に共通語の上に吉里吉里語による発話のルビが振られているのはその証左でもある。]
だから、『よだかの星
つまり、言葉を否定する事は、生得の名前を否定する事であり、つまり、そのモノのアイディンティティーを否定する行為なのである。
そんな風に、この短い物語のこのシーンから、そんな事をも読みとれてしまうのである。
勿論、これもまたぼくの邪推にすぎない。宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の創作物の中で、彼の産まれ育った地域や地方の言葉がどの様なかたちで顕われ活かされているのか、それを調べなければ、正しいところは解らないだろう。
しかも、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) 自身は、教育者でもあるのだ。彼自身が、その場でどの様に振舞い、もしくはまた、立ち向かったのか。そこまでをも調査する必要もあるのかもしれない。
次回は「し」。
- 関連記事