2012.01.17.16.43
脅し文句である。
忘れた頃に聴いては、はたと想い出す。その様なタイミングで遭遇する。
とは言っても、現実の生活でこんな凄みを聴く事は、先ずはない。
多分に時代劇あたりで耳にする台詞で、同じフィクションとはいえ、近代劇や現代劇で聴いた記憶はないのだ。
その実際はどうだか知らないが、あくまでもイメージとしては、かつての東映任侠映画 (Ninkyo Eiga or Chivalry Films) に登場する事はあるのかもしれない。しかし、仮に登場したとしても、その後を継ぐ東映実録映画 (Jitsuroku Eiga) 路線には、どう転んでも登場しなさそうだ。
『極道の妻たち』シリーズならば、岩下志麻 (Shima Iwashita) は言うかもしれないが、かたせ梨乃 (Rino Katase) や高島礼子 (Reiko Takashima) は発しそうもない。これは役柄上の品格から受ける印象で、ご本人が現実の場で、そんな啖呵を切る事がない事くらいは解っている。
さらに図に乗って書けば、北野武 (Takeshi Kitano) のヤクザ映画だと、そんな台詞を発しようものならば、その場でズドンと殺られてしまいそうなのである。
何故、そんな偏見にも似た印象を抱いてしまうのかというと、やはりそれは多分に「月夜ばかりと思うなよ」の、その"月夜"に文学的な響きや情緒を感じてしまっているからなのだ。
恐らく、有名な文学作品や古典の一節からの引用なのだろう。
近松門左衛門 (Chikamatsu Monzaemon) や井原西鶴 (Ihara Saikaku) あたりの、町人文化 (Chonin) の全盛期、元禄期 (Genroku Era) あたりに原典を辿れたら、さぞかし愉快だ。
そう思いたって、検索してみたら、全然違うところに逢着してしまって、そこから先へはとんと進んでくれなくなってしまった。

実際に検索してみた方ならば実感されるだろうが、殆どが『テイルズ オブ ジ アビス (Tales Of The Abyss)』のアニス・タトリン (Anise Tatlin) の台詞という紹介なのである。
なかにはこの台詞を"名言"という文脈で紹介してある。
だけれども、果たして、"名言"というコンセンサスが得られる様な発言だろうか。ちょっと待って欲しい、と声を大にしていいたいところだけれども、そんな異議申し立ては後だ。
それはもう少し先へと、後回しとする事にしよう。
紹介のされ方やそのアプローチは異なるけれども、言辞的な解釈には然程、差異はない。
尤も、おいおいそれは明らかに違うだろう、というものもあるのだけれども、『犬も歩けば棒にあたる (Every dog has his day.)』の謂いで、いつのまにかその解釈がひっくり返ってしまったその上に、だからと言ってそれに不都合はないものだからと、截然のものとは正反対の解釈も正しいとされ、どちらも何れもきちんと受容されて使用されている例もある。
あえて、目くじらを立てて、原義に忠実であれと騒ぐ必要もないだろう。
この台詞の原義は、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『むかしの暦で、いまを楽しむ。』のこの頁で、次の様に説明されている。
「「闇夜に出歩くときには、襲ってやるぞ」という脅し文句ですよね。つまりは月夜がいかに明るく、安全だと思われていたか、の裏返しです。」
ただ残念ながら、その『むかしの暦で、いまを楽しむ。』でも原典は明記されていないのであった。
だがその問題はさておき、そこで語られる"「月と旧暦」のおはなし"を読めば、当時の生活の中に月の満ち欠けが大きな比重を持っていた事は、嫌でも解る。
だから、もしかすると文頭に書いた様な"文学的な響きや情緒"というものは、現代の眼差しが観させる、勘違いも甚だしいものなのかもしれない。
むしろ、それとは対極にある、実際的で実務的で合理的な台詞なのではないだろうか。
往時の事で、きちんとしたデータ収集やデータ解析なぞは行われてはいないだろうけれども、夜討ち強盗傷害殺人といった犯罪は闇夜の方が多かっただろうし、その夜が実際に危険極まりないのは、当時のヒトビトは純粋に実感として抱いていたのかもしれない。
だからもし万一、古典芸能等で、この台詞が登場したとしても単に、リアリズムに沿った台詞であるだけで、いまのぼく達が"名言"とネット上で言及する様な価値は、全くのところ、なにもないモノなのかもしれない。
と、いう訳で、先送りにしていた"名言"という評価に関して、予告どおりに、疑義をここで述べておこうと思う。
「月夜ばかりと思うなよ」という台詞の、そのウラを返せば、今現在は、ナニモしない、ナニも出来ない、そんな意思表示の顕われである。
あらためて、数的にも質的にも有利な条件を整えた上で、さらにその環境が己にとって圧倒的な有利の状況を創った上で、お逢いしようと言うのである。
もって廻った言い方をしてしまった。平易に語ろう。
複数の襲撃要員を手配し、武装した上で、闇夜に不意打ちを喰らわすというのである。
多勢に無勢で、しかもあわよくば貴様が丸腰の時に、闇討ちしてくれよう、と言うのである。
脅しと言えば脅しだし、脅迫と言えば脅迫だ。
一聴、威勢はいい。
しかし、その実行は今、なすべき事でもない、否、なす事も出来ないのだ。
捨て台詞とはよく言ったもので、むしろ、逃げ口上としての機能しか果たしていない。
そして言われた方も、その捨て台詞であり逃げ口上である「月夜ばかりと思うなよ」を言わせるがままにして、その逃亡を諾とするのである。
今すぐにではなくて、いずれ次回に激しい格闘シーンをお魅せしてくれよう。
物語上では、そんなニュアンスも多分に含んだ、この後に来る筈のクライマックス・シーンへと、その興味を繋いでいくのだ。
と、こんな具合に読んでしまえば、やはりこの「月夜ばかりと思うなよ」という台詞は"文学的な響きや情緒"を醸しているものなのかもしれない。
次回は「よ」。
附記:
今や古典的な言説になってしまった台詞に「放課後、体育館裏に来い」というものがある [それとも現在の学生諸君にも未だに流通している言い回しなのだろうか]。
一聴、正々堂々とした果たし合いじみたニュアンスを含んでいるけれども、「月夜ばかりと思うなよ」と同質のモノを読み取ってしまうのは、ぼくだけだろうか。
それは「ちょっと顔だせ」とか「こっちこい、オラァ」でも同じ様なもので、今ここでこの続きは出来ない、と言明しているのである。
だから、そんな台詞を聴かされたぼくは、「いまここでやれば」と嘯いたものである。
さらに「その方が早いぜ」と挑発する事もある。
だからと言って、ぼく自身に喧嘩の覚えがある訳ではない。護身術や格闘技に長けている訳ではない。むしろ、その逆だ。
それでは、どこから先にそんな強気の発言が出て来ると、不審に思われるかもしれない。
それは衆人環視の今この場で、相手は何も出来ないのを見知った上でのぼくの発言である。すなわちそれは、喧嘩どころか体力的に劣るぼくの身を護る術だった。
嘯くのも挑発するのも名ばかりの代物である。
後でのこのこ"体育館裏"なんぞに出かけるべきものではない。何が待っているか知れたものではないからだ。
だからこそ、"いまここで"、どんな理由にしろ、どんな相手にしろ、仲裁したり、制止したり出来たりする人物がいる、その場その時に、コトを起こすべきなのだ。
一見、正々堂々とした太々しさを含んでいる発言の様に響いてはくれるがその実、とても卑怯な物謂いが内にある。
生き延びる為には、そんなものも必要なのだ。
忘れた頃に聴いては、はたと想い出す。その様なタイミングで遭遇する。
とは言っても、現実の生活でこんな凄みを聴く事は、先ずはない。
多分に時代劇あたりで耳にする台詞で、同じフィクションとはいえ、近代劇や現代劇で聴いた記憶はないのだ。
その実際はどうだか知らないが、あくまでもイメージとしては、かつての東映任侠映画 (Ninkyo Eiga or Chivalry Films) に登場する事はあるのかもしれない。しかし、仮に登場したとしても、その後を継ぐ東映実録映画 (Jitsuroku Eiga) 路線には、どう転んでも登場しなさそうだ。
『極道の妻たち』シリーズならば、岩下志麻 (Shima Iwashita) は言うかもしれないが、かたせ梨乃 (Rino Katase) や高島礼子 (Reiko Takashima) は発しそうもない。これは役柄上の品格から受ける印象で、ご本人が現実の場で、そんな啖呵を切る事がない事くらいは解っている。
さらに図に乗って書けば、北野武 (Takeshi Kitano) のヤクザ映画だと、そんな台詞を発しようものならば、その場でズドンと殺られてしまいそうなのである。
何故、そんな偏見にも似た印象を抱いてしまうのかというと、やはりそれは多分に「月夜ばかりと思うなよ」の、その"月夜"に文学的な響きや情緒を感じてしまっているからなのだ。
恐らく、有名な文学作品や古典の一節からの引用なのだろう。
近松門左衛門 (Chikamatsu Monzaemon) や井原西鶴 (Ihara Saikaku) あたりの、町人文化 (Chonin) の全盛期、元禄期 (Genroku Era) あたりに原典を辿れたら、さぞかし愉快だ。
そう思いたって、検索してみたら、全然違うところに逢着してしまって、そこから先へはとんと進んでくれなくなってしまった。

実際に検索してみた方ならば実感されるだろうが、殆どが『テイルズ オブ ジ アビス (Tales Of The Abyss)』のアニス・タトリン (Anise Tatlin) の台詞という紹介なのである。
なかにはこの台詞を"名言"という文脈で紹介してある。
だけれども、果たして、"名言"というコンセンサスが得られる様な発言だろうか。ちょっと待って欲しい、と声を大にしていいたいところだけれども、そんな異議申し立ては後だ。
それはもう少し先へと、後回しとする事にしよう。
紹介のされ方やそのアプローチは異なるけれども、言辞的な解釈には然程、差異はない。
尤も、おいおいそれは明らかに違うだろう、というものもあるのだけれども、『犬も歩けば棒にあたる (Every dog has his day.)』の謂いで、いつのまにかその解釈がひっくり返ってしまったその上に、だからと言ってそれに不都合はないものだからと、截然のものとは正反対の解釈も正しいとされ、どちらも何れもきちんと受容されて使用されている例もある。
あえて、目くじらを立てて、原義に忠実であれと騒ぐ必要もないだろう。
この台詞の原義は、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『むかしの暦で、いまを楽しむ。』のこの頁で、次の様に説明されている。
「「闇夜に出歩くときには、襲ってやるぞ」という脅し文句ですよね。つまりは月夜がいかに明るく、安全だと思われていたか、の裏返しです。」
ただ残念ながら、その『むかしの暦で、いまを楽しむ。』でも原典は明記されていないのであった。
だがその問題はさておき、そこで語られる"「月と旧暦」のおはなし"を読めば、当時の生活の中に月の満ち欠けが大きな比重を持っていた事は、嫌でも解る。
だから、もしかすると文頭に書いた様な"文学的な響きや情緒"というものは、現代の眼差しが観させる、勘違いも甚だしいものなのかもしれない。
むしろ、それとは対極にある、実際的で実務的で合理的な台詞なのではないだろうか。
往時の事で、きちんとしたデータ収集やデータ解析なぞは行われてはいないだろうけれども、夜討ち強盗傷害殺人といった犯罪は闇夜の方が多かっただろうし、その夜が実際に危険極まりないのは、当時のヒトビトは純粋に実感として抱いていたのかもしれない。
だからもし万一、古典芸能等で、この台詞が登場したとしても単に、リアリズムに沿った台詞であるだけで、いまのぼく達が"名言"とネット上で言及する様な価値は、全くのところ、なにもないモノなのかもしれない。
と、いう訳で、先送りにしていた"名言"という評価に関して、予告どおりに、疑義をここで述べておこうと思う。
「月夜ばかりと思うなよ」という台詞の、そのウラを返せば、今現在は、ナニモしない、ナニも出来ない、そんな意思表示の顕われである。
あらためて、数的にも質的にも有利な条件を整えた上で、さらにその環境が己にとって圧倒的な有利の状況を創った上で、お逢いしようと言うのである。
もって廻った言い方をしてしまった。平易に語ろう。
複数の襲撃要員を手配し、武装した上で、闇夜に不意打ちを喰らわすというのである。
多勢に無勢で、しかもあわよくば貴様が丸腰の時に、闇討ちしてくれよう、と言うのである。
脅しと言えば脅しだし、脅迫と言えば脅迫だ。
一聴、威勢はいい。
しかし、その実行は今、なすべき事でもない、否、なす事も出来ないのだ。
捨て台詞とはよく言ったもので、むしろ、逃げ口上としての機能しか果たしていない。
そして言われた方も、その捨て台詞であり逃げ口上である「月夜ばかりと思うなよ」を言わせるがままにして、その逃亡を諾とするのである。
今すぐにではなくて、いずれ次回に激しい格闘シーンをお魅せしてくれよう。
物語上では、そんなニュアンスも多分に含んだ、この後に来る筈のクライマックス・シーンへと、その興味を繋いでいくのだ。
と、こんな具合に読んでしまえば、やはりこの「月夜ばかりと思うなよ」という台詞は"文学的な響きや情緒"を醸しているものなのかもしれない。
次回は「よ」。
附記:
今や古典的な言説になってしまった台詞に「放課後、体育館裏に来い」というものがある [それとも現在の学生諸君にも未だに流通している言い回しなのだろうか]。
一聴、正々堂々とした果たし合いじみたニュアンスを含んでいるけれども、「月夜ばかりと思うなよ」と同質のモノを読み取ってしまうのは、ぼくだけだろうか。
それは「ちょっと顔だせ」とか「こっちこい、オラァ」でも同じ様なもので、今ここでこの続きは出来ない、と言明しているのである。
だから、そんな台詞を聴かされたぼくは、「いまここでやれば」と嘯いたものである。
さらに「その方が早いぜ」と挑発する事もある。
だからと言って、ぼく自身に喧嘩の覚えがある訳ではない。護身術や格闘技に長けている訳ではない。むしろ、その逆だ。
それでは、どこから先にそんな強気の発言が出て来ると、不審に思われるかもしれない。
それは衆人環視の今この場で、相手は何も出来ないのを見知った上でのぼくの発言である。すなわちそれは、喧嘩どころか体力的に劣るぼくの身を護る術だった。
嘯くのも挑発するのも名ばかりの代物である。
後でのこのこ"体育館裏"なんぞに出かけるべきものではない。何が待っているか知れたものではないからだ。
だからこそ、"いまここで"、どんな理由にしろ、どんな相手にしろ、仲裁したり、制止したり出来たりする人物がいる、その場その時に、コトを起こすべきなのだ。
一見、正々堂々とした太々しさを含んでいる発言の様に響いてはくれるがその実、とても卑怯な物謂いが内にある。
生き延びる為には、そんなものも必要なのだ。
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