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2012.01.10.13.18

たごのうらにうちいでてみればしろたえのふじのたかねにゆきはふりつつ

藤原定家 (Fujiwara no Teika) 撰の『小倉百人一首 (Ogura Hyakunin Isshu)』 [13世紀前半成立] の一で、作者は山部赤人 (Yamabe no Akahito)。
その初出は『万葉集 (Manyoshu)』 [759年以降成立] であって、そこでは現在『小倉百人一首 (Ogura Hyakunin Isshu)』 [13世紀前半成立] として流通している「田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪は降りつつ (When I take the path / To Tago's coast, I see /
Perfect whiteness laid / On Mount Fuji's lofty peak / By the drift of falling snow
)」ではなくて、「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (Passing through Tago Bay and coming to a clearing, I see snow falling, pure white, on Fuji’s lofty peak)」であった。

いつ頃に改作が行われたのかは定かではないが、改作したのは選者である藤原定家 (Fujiwara no Teika) 自身であるらしい。『新古今和歌集 (Shin Kokin Wakashu)』 [1205年成立] を代表する歌人である藤原定家 (Fujiwara no Teika) の"好み"と、その彼が牽引して来た当時の主流であった歌風と、『万葉集 (Manyoshu)』 [759年以降成立] が選定された時代の歌風の違いを比較研究するのには、よい資料となるのかもしれない。
つまり、ますらをぶりと評されるものが、余情妖艶の体と呼ばれる『新古今和歌集 (Shin Kokin Wakashu)』 [1205年成立] の時代にどうゆう風に受け入れられていって定着していったか、だ。
それよりも、そんな時代と歌の変遷よりも、受験生的には、初句「田子の浦ゆ」にある「ゆ」の文法的解釈の方が悩ましいものかもしれない。上代独特の文法用法の典型的なものだからだ。

ところで、「田子の浦に〜 (To Tago's coast, I see ... )」ではない方の「田子の浦ゆ〜 (Passing through Tago Bay ... )」は、『万葉集 (Manyoshu)』 [759年以降成立] においては作者自身の作である長歌 [ここで読む事が出来る] の、その反歌として掲載されている。
だから、本来ならばその歌の解釈は、「田子の浦〜」の三十一文字単体で行うよりも、その前段である長歌をも踏まえて解釈するのが、正当な方法論に違いない。

とはいうものの、下世話な表現をすれば"歌は世につれ世は歌につれ"だ。
時代が変われば、文法上の表記が変わるだろうし、それ以上に、歌の解釈や歌の受容は変化していくものである。

images
上に掲載したのは、葛飾北斎 (Katsushika Hokusai) の『富嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略図 ("Shore Of Tago Bay, Ejiri At Tokaido" from "Thirty-six Views Of Mount Fuji")』。葛飾北斎 (Katsushika Hokusai) にしては地味なヴィジョンだなぁと思うのだけれども、これは「田子の浦〜」の歌を踏まえたものだという。葛飾北斎 (Katsushika Hokusai) による歌の解釈とも言えるし、当時の、多分『小倉百人一首 (Ogura Hyakunin Isshu)』 [13世紀前半成立] を歌留多遊びとして馴染んでいたその歌の、ヴィジュアル化とも言える。
作者である山部赤人 (Yamabe no Akahito) やそれを『小倉百人一首 (Ogura Hyakunin Isshu)』 [13世紀前半成立] に選定した藤原定家 (Fujiwara no Teika) が、この浮世絵を観たら、どう思うのだろうか。

どうしてそんな事まで考えが及んでしまうのかと言うとやはり、歌の解釈や歌の受容が時代時代によって変遷していく事は、不可避だと思うからなのだ。
それは必ずしも歌に限っての事ではないし、ヒトが創作するすべてのモノは、産まれたその時点から、変容を受け入れなければならない宿命を背負っている。
だから逆に、それを受け入れられないのならば、創作者は創作物なぞ公表するものでもないのかもしれない。

例えばこの「田子の浦〜」の歌に関して、ぼく自身の体験でいえば、喪われてしまったモノを愛おしむモノとして紹介されたのが、この歌との出逢いだった。
否、もしかすると、喪われてしまう事への抗議であったのかもしれない。

時は1971年。
人類の進歩と調和 (Progress And Harmony For Mankind)」と謳われた日本万国博覧会 (Japan World Exposition) が開催された翌年である。本来ならば、そのキャッチフレーズに相応しい輝く未来と21世紀 [っていまのことだけども?] が待っている筈だった。
しかし、世の中に沸き起こったのは、その夢と希望を押し黙らせる様な公害問題 (Pollution) だった。

そして、その公害問題 (Pollution) の代表的なもののひとつが、田子の浦に浮かぶヘドロ (Bottom Sludge) だったのである。

それがどのくらい問題だったのかと言うと、SF特撮作品においてヘドロ (Bottom Sludge) の海から顕われる怪獣が何匹も登場する程だったのだ。つまり、コトは政治や経済や社会の問題に押し留まってはくれずに、子供達の世界にまで、浸食してきたのである。

テレビ番組では『宇宙猿人ゴリ (Space Apeman Gori)』 [フジテレビ系列 1971年放映] の放送初回にヘドロン (Hedron) が登場する。しかも、後にはネオ・ヘドロン (Neo Hedron) としてヴァージョン・アップした姿で顕われる。
映画ではご存知の方も多いかもしれない、『ゴジラ対ヘドラ (Godzilla vs. The Smog Monster)』 [坂野義光 (Yoshimitsu Banno) 監督作品 1971年制作] にタイトル・ロールのヘドラ (Hedorah) が登場する。
さらに、『公害怪獣ヘドロ』なるプラモデルも発売されてしまい、しかもそのボックス・アートは小松崎茂が手掛けているのである。

そんな空想の虚構世界で公害の怪獣と出逢ったぼく達はその一方で、光化学スモッグ (Photochemical Smog) の被害にあった同世代の小学生達の事を知るのだ。
しかも他人事ではない。
実際に、ある夏休みのある日、毎日解放されている小学校のプールが光化学スモッグ (Photochemical Smog) 発生の注意報を受けて、その日は遊泳禁止になってしまった事もあるのだ。

そして、そんな状況を背景にして語られるのが、「田子の浦〜」の歌だったのだ。
かつての名歌に謳われて時代を超えた名勝のその光景が、惨憺たる惨景となっている。
そんな文脈で、「田子の浦〜」の歌は、ぼく達に紹介されたのだ。

それはつまり、映画『ゴジラ対ヘドラ (Godzilla vs. The Smog Monster)』 [坂野義光 (Yoshimitsu Banno) 監督作品 1971年制作] の主題歌『かえせ!太陽を (Save The Earth)』 [作詞:坂野義光 (Yoshimitsu Banno) 作曲:真鍋理一郎 (Riichiro Manabe)] と同じ抒情として、ぼく達の耳に飛び込んでくる事なのだ。何故ならば、その主題歌の歌詞には「生きもの皆 いなくなって / 野も 山も 黙っちまった」とあるのだから。
映画『ゴジラ対ヘドラ (Godzilla vs. The Smog Monster)』 [坂野義光 (Yoshimitsu Banno) 監督作品 1971年制作] を観たり、テレビ番組『宇宙猿人ゴリ (Space Apeman Gori)』 [フジテレビ系列 1971年放映] を観たり、『公害怪獣ヘドロ』のプラモデルを作ったりしていたぼく達にとっては、「田子の浦〜」の歌も『かえせ!太陽を (Save The Earth)』 [作詞:坂野義光 (Yoshimitsu Banno) 作曲:真鍋理一郎 (Riichiro Manabe)] も同じベクトル上のものなのである。

先程の論調の繰り返しになるけれども、致し方ない。
作者である山部赤人 (Yamabe no Akahito) やそれを『小倉百人一首 (Ogura Hyakunin Isshu)』 [13世紀前半成立] に選定した藤原定家 (Fujiwara no Teika) や、さらに時代を下って浮世絵としてヴィジュアル化した葛飾北斎 (Katsushika Hokusai) は、どう思うのだろうか。

勿論、その様な反公害的なメッセージなぞ、山部赤人 (Yamabe no Akahito) も藤原定家 (Fujiwara no Teika) も葛飾北斎 (Katsushika Hokusai) も含んではいない。さらに言えば、少なくとも、作者である山部赤人 (Yamabe no Akahito) のものと全くの正反対のものである。
というのは、三十一文字に顕われれているのは、あくまでも歌人がそれを観た情景が描かれているのにすぎないが、それを反歌とした長歌を読んでみれば、歌人の真意が明らかになるのだ。
つまり、その短歌の前段にあたる長歌冒頭で「天地の 分かれし時ゆ」とある様に、天地開闢以来の変わらなさ、永遠普遍の光景を詠んだものだからである。

過去から現在、そしてもしかしたら未来にわたっての変わらなさを顕わしたものが、ある事件や事故を境にして、喪われてしまったモノの象徴となってしまったのである。

ところで、ここからぼくはこの文章の行き先を定め倦ねている。

ここから無理矢理 [でもないかもしれない、ヒトによっては当然の帰着点かもしれない]、3.11. やフクシマの事に論を進める事だって出来そうだからだ。

でも、ここではやめておこう。
その代わりに田子の浦ヘドロ (Bottom Sludge) 問題が騒がれていた当時の、ぼくの日常の一端を記しておく。

ある年のぼくの朝はいつも、TV番組『おはよう700』 [TBS系列 19761980放送] の最初のコーナー『けさの富士山』から始っていた。毎朝、眠い眼をこすりながら朝ご飯をとっている際に、そのコーナーが始った。番組ではお天気カメラが届けるその日の富士山 (Mount Fuji) の眺望を映しながら、男女のキャスターが一喜一憂したコメントを発していたと思う。
富士山 (Mount Fuji) はいつも同じ佇まいを観せながらも、その日の天候や季節の移り変わりで日々異なる表情をしている。
そしてそれが正に『けさの富士山』の要であって、例え、黒雲が富士山 (Mount Fuji) を覆い隠そうと、大粒の雨がカメラのレンズを叩こうと、毎日毎日、同じ時間同じアングルで映し出されるものをそのままに映していた。
観えるか観えないかで一喜一憂し、観えても観えなくても、その日や数日間の天候の予報をしながら、富士山 (Mount Fuji) を廻る話題に終始する。
ちょっとませた小学生の視点から眺めれば、いいオトナがたわいもない事を伝える事に嬉々として勤しんでいる様にしか観えない。
ただ、ぼくがこの番組のそのコーナーにうんざりしていたのは別の理由からだった。
その数十分後に、小学校に向かうぼくは大通りを渡る為に、歩道橋を使わなければならない。そして、階段を渡りきった時に、ぼくの肩越しに左側を振り返れば、先程と寸分違わぬ富士山 (Mount Fuji) が観えるのである。
つまり、ぼくはあの番組で富士山 (Mount Fuji) を毎日撮影していた、お天気カメラのある街に暮していたのである。

次回は「」。
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