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2011.12.22.23.06

『ほぼ日刊イトイ新聞』で『クリストさんとの短い対話』を読む

糸井重里 (Shigesato Itoi) によるクリスト (Christo) との対談が『ほぼ日刊イトイ新聞』[以下『ほぼ日』と略す] に全三回に渡って『クリストさんとの短い対話』と題されて連載された。
アーティストとしてのクリスト (Christo) と彼の作品への興味と関心は勿論あるのだけれども、それとは全然異なる理由で、この対談の連載を心待ちにしていたのだ。

その異なる理由とは、やはり同じ『ほぼ日』に掲載された糸井重里 (Shigesato Itoi) と是枝裕和 (Hirokazu Koreeda) との『映画エンディングノートがあまりによかったので。』内のカゲグチ対談篇にある。
この『その4 「似ている」がひとつのキーワード。』で次の様な発言がなされたのだ。

「僕にしてみると、普段やってる対談と全然違って、
まったく相手が
僕っていう車に乗ろうとしないんですよ。
なのに、会話は盛り上がって‥‥。
自分の話しかできない人なんですよね(笑)。」

ぢゃあ、実際クリスト (Christo) との対談はどうだったのかというと、その結果は『クリストさんとの短い対話』として掲載されている。
興味のある方は実際に読んでみて、糸井重里 (Shigesato Itoi) の発言にある「相手の話に乗れない」という言葉の指し示すものを捜してみるといい。

ただ、ここで留保しなければならないのは、交わされた言葉は文字に変換されている上に、編集者によって編集されていると言う事。
さらに言えば、掲載される前に、糸井重里 (Shigesato Itoi) 自身もチェックしている筈だろうし、場合によってはもう一方の対話者であるクリスト (Christo) 本人ないしは彼の関係者もチェックしている可能性もあるという事である。
またその一方で、糸井重里 (Shigesato Itoi) 自身の弁によれば「向こうの人たちはいい対談だったって言ってくれ」 [『その4 「似ている」がひとつのキーワード。』での発言] たらしいから、「相手の話に乗れない」という認識はあくまでも糸井重里 (Shigesato Itoi) の内心での事で、彼の言う「相手の話に乗れない」という状況は彼だけにとってのモノでしかなく、実際の対談中にそんなモノは顕われていないのかもしれない。

結論から言えば「相手の話に乗れない」という状況を、『クリストさんとの短い対話』から解読する事はかなり難しいと言わざるを得ないだろう。

ただ、糸井重里 (Shigesato Itoi) 曰くの、クリスト (Christo) が「相手の話に乗れない」理由は糸井重里 (Shigesato Itoi) の方にあるのではなくて、クリスト (Christo) 自身の方にあると、垣間観えている様な気もする。

例えば『クリストさんとの短い対話』で彼自身から語られるプロジェクト『アンブレラ (The Umbrellas)』 [1984 - 1991年] での交渉の場面を象徴する言葉「地権者の同意を得るために一軒一軒の家を訪ね<中略>6000杯の緑茶を飲みました」だ [第1回 人々を巻き込んでいく力。]。
そして、その際に彼を補佐していた柳正彦 (Masahiko Yanagi) が語る「政府のえらい役人に説明するときにも、日本の小学生に説明するときにも、彼ら、まったく同じ調子で説明するんです」という言葉を並べてみれば、あまりにも自明なのだ [01 「理解してもらう」という芸術]。

クリスト (Christo) は語りたい事だけを語る。そして、語りたい事は揺るぎない。だから、それを彼の聴き手として立ち向かうのならば「相手の話に乗れない」という認識になってしまうのも当然なのかもしれない。

クリスト (Christo) 自身のその手法は彼自身にとっては有効であると同時に唯一のものかもしれない。しかし問題は、彼の手法をそのまま、ぼく達は真似る事は出来るのだろうか、真似てもいいのだろうか、という事なのである。

ここで、ピーター・ドラッカー (Peter Drucker) の『マーケティングとイノベーション (Marketing And Innovation)』を引き合いに出す必要もないのだけれども、ぼく達は顧客達それぞれのニーズにあわせる必要があると学んだ筈だ。
営業職でも教育関係でもカウンセラーでも宗教家でも、相対する対話者の、そのそれぞれに適応させた営業やカウンセリングや勧誘や教授や交渉や説得が求められているという認識はある筈だ。様々な経験や事情や需要や思想や立場や地位の異なる対話者に対して、たったひとつの手法でもって相対するのは愚の骨頂 (The Height Of Stupidity) な筈なのだ。

にも関わらずに、クリスト (Christo) は「6000杯の緑茶を飲み」、誰に対しても相手が誰であっても「まったく同じ調子で説明する」。

それは彼がアーティストだから、というのは答えにならない。
誰に対しても一様で一律な応対しかしない愚かなモノは、政治家にも官僚にも経営者にもいるからだ。
糸井重里 (Shigesato Itoi) 自身も『映画エンディングノートがあまりによかったので。』内のカゲグチ対談篇の『その4 「似ている」がひとつのキーワード。』で、次の様な発言をしている。
「で、おそらく映画監督の方なんかは、相手の話に乗れない人、山ほどいますよね」と。

しかし、クリスト (Christo) が「6000杯の緑茶を飲み」、誰に対しても相手が誰であっても「まったく同じ調子で説明する」のは、それとは似て非なるものかもしれず、しかも、彼がそんな方法論を採るのは、恐らくこんな理由からではないだろうか。
真実しか話さない事、その真実を実現させる事、そして、それが己自身にとって最大の関心事である事。

と、文字にしてしまうと大仰で大それた事にしか思えないかもしれないけれども、でも、それは誰にもある欲求の筈なのだ。

その4 「似ている」がひとつのキーワード。』の中で糸井重里 (Shigesato Itoi) が「相手の話に乗れない」と洩らしたのは、その傾向が対話者である是枝裕和 (Hirokazu Koreeda) にも、その対談の主題である映画『エンディングノート (Ending Note: Death Of A Japanese Salesman)』の砂田麻美 (Asami Sunada) 監督にも、共通しているからこその筈なのである。
映画『エンディングノート (Ending Note: Death Of A Japanese Salesman)』ではプロデューサーである是枝裕和 (Hirokazu Koreeda) は砂田麻美 (Asami Sunada) 監督を評して「でも、一緒に仕事してみて、みんなある部分、もう勘弁してくれ、と思ってる<中略>それは結果的に監督向きだと思う。その自分のこだわりにハマりこんだら、まったく周りの言うこと聞かないんですよ。」
そして、その発言を聴いた同席している是枝裕和 (Hirokazu Koreeda) のスタッフは「そっくりですもん。すごく似てます」と、是枝裕和 (Hirokazu Koreeda) を評して断言するのである [その3 スタッフには世話をかけてる。]。

ただ、クリスト (Christo) はそれをさらに徹底させている上に、それ以外のモノを己に許していないからなのだ。
何故ならば、それは嘘をつかない事であり、その結果、己自身と己の作品を護る事になるからに他ならない。
イソップ寓話 (Aesop's Fables)』の『卑怯なコウモリ (The Birds, The Beasts And The Bat)』の様に、あい対立する双方の陣営に、言葉巧みに取り入るものの、結果的にその言葉が災いして己の身を滅ぼす事なんかはよくある出来事なのだから。
先程ぼくは愚の骨頂 (The Height Of Stupidity) という形容をしたけれども、ある意味で、クリスト (Christo) はその愚の骨頂 (The Height Of Stupidity) をあえて自らに課しているとも言えるのだ。

だから、糸井重里 (Shigesato Itoi) の『その4 「似ている」がひとつのキーワード。』での発言を引用すると、次の様になる。
「で、そのくらいじゃないと、あんなことはできないんだなっていうことが本当によくわかる。そこまで含めて天才なんだろうなぁって」。

ところで、このクリスト (Christo) の手法に驚いたぼくがふと憶い出したのは、やはり『ほぼ日』の糸井重里 (Shigesato Itoi) との対談『THE SKETCHTRAVEL』に登場した堤大介 (Daisuke Tsutsumi) なのである。
1 最初の1ページ、最後の1ページ。』に次の様な発言がある。
「ぜんぶ「手っ取り早く」なるなと思って。チャリティにしてしまったら。 <中略>純粋にこのプロジェクトに参加したいって人しか近寄ってこなくなりました」
この発言の裏にあるのは、極端な表現をすれば「最初に障害を排除する」という手法と「目的の為には手段を選ばない」という意思である。
ある意味で、愚直とも言えるクリスト (Christo) とは正反対のベクトルをもったモノではないだろうか。
[と言う書き方をすると、堤大介 (Daisuke Tsutsumi) の考え方や手法をネガティヴに捉えている様に思われるかもしれないがそうではない。チャリティーの主目的は集金であるし、作品制作とそのオークションはその為の手段にしかすぎない。創作上での目的はチャリティーでは手段にしかならないし、チャリティーでの目的は創作上では手段にしかなり得ないのだ。そこを履違えるとチャリティーの為に制作されたモノだからこそ、素晴らしい作品というとんでもなく愚かな評価を下してしまう。創作物の素晴らしさは、制作意図や価格や希少価値に左右されるものではない]
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