2011.12.11.18.18
こんな夢をみた。

"A Fneral Procession Scene" from the movie "The End Of Summer
" directed by Yasujiro Ozu
集合住宅の一角にある、その3DKは、がらんとしている。それまでそこにあった家具の殆どが既に運び出されていて、冬の陽射しだけが長々と射している。
そのなにもない部屋に、十数名の男女が集まって、着替えを始める。南向きの一番広い部屋を女性達が使い、もう一方の寒々とした部屋は男性達が使う。
誰言うとなく、いつのまにかそんな風にそれぞれの更衣室が割り当てられている。
彼らはそれぞれが持ち込んだ大きな鞄から黒い衣服を引っ張り出して着替え始めている。冠婚葬祭なのだろうか。その何れかであろうと推測はつくけれども、その実際は解らない。ただ、皆、押し黙って、それぞれが行うべき事を行っている。
その中のひとりがぼくだ。
数十年振りに帰郷を促されて、そのまま、ここで着替える羽目にある。事態の全容は夢の中のぼくには、一切、解らない。
彼らはぼくとは知古との関係らしく、親し気に、そして、懐かし気にふるまっている。彼らからみれば、旧知の間柄だから、ぼくがここにいる事も、そして彼らとともにここで黒い衣服に着替える事にも、なんの不思議もないようだ。
恐らく、数十年振りに相見える新類縁者達なのだろう。記憶の片隅に彼らの若い頃の顔が朧げに浮かびあがって来る。行動を伴にし、ふたことみこと言葉を交わすうちに、誰が誰だか、なんとなく判別がついてくる。
しかし、ぼんやりとした判別はあるものの、やはり、心許ないのも否定出来ない。あらためて、ここはそれぞれの名を問い質すべきなのだろうか。そんな逡巡をしているうちにも、先方は一切、そんなぼくの不安に横着せずに、昨日別れたばかりの息子が帰って来た様な口調で語りかける。
そして、そんなぼくらの周りを幾人もの子供達がかけずり廻っている。幼い事をいい事に、それぞれの更衣室を自由気侭にいったりきたりしている。
最初はそれぞれの息子達や娘達なんだろうな、と思っていたら、なんとなく様相がおかしい。
彼らの横行を誰も咎め立てしないのは、昨今の親達の風潮かもしれないのだけれども、それ以前に彼らの立ち居振る舞いには、物音ひとつさえ伴わない。
決して広くない3DKの、部屋部屋を縦横無尽に奔り回っている彼らの、嬌声や歓声は聴こえるのだけれども、それと同様に聴こえる筈の騒音や雑音が一切、聴こえない。
幽霊だろうか。それとも幻覚か。
ただ、どうやら、ぼくの眼にしか映っていない筈の彼らの振舞は、懐かしいものこそ感じられ、恐怖や不安といった感情は、一切、沸き起こらない。
それに、ぼくに相対しているおとな達よりも、遥かに、旧知の、知古の関係がある様な気がする。
もしかしたら、幼い彼らの姿なのではないだろうか。
十数年前に、同じ時間を共有し、同じ様にかけずり回っていた当時のぼく達のまぼろしが、今、ここに再現されているのではないだろうか。
ある意味では、昨日のぼくと今日のぼくとは全くの同一態ではない。生体としての新陳代謝の結果とか、知識や経験の蓄積とか、考え出したらきりがないのだけれども、少なくとも24時間の経過は、ぼく自身になんらかの変化がもたらされている筈だ。
だが、それでも、他者は昨日のぼくと同様のものとして今日のぼくに相対時するのは、その違いを見極められないからではない。今日のぼくと同時に24時間前のぼくの残像を同時に観ているからなのだ。
と、すると。
昨日のぼくではなくて、一ヶ月前のぼくならば一年前のぼくならば。
やはり同じ様に、一ヶ月前のぼくの残像や一年前のぼくの残像を観る事も出来るかもしれない。
そうなのだ。今、ぼくが観ているこの広くない室内をかけずり廻っている子供達は、数十年前の彼らの残像に違いないのだ。
ふと、そんな想いに囚われて、子供達とおとな達の表情を見比べだした矢先に、玄関を叩くおおきな音が聴こえる。
不意の訪問者である上に、今、ここにいるぼく達を訪なうヒトはいる筈はない、訝しがりながら、誰かが、そのおおきな音の主の応対に出向く。
戻って来た人物がぼくの許にやってきてこう言う。
「きみの名前を呼んでいるぜ。しかも、酔っている」
数十年振りの帰郷のぼくに、訪問客はない筈だけれども、と言いながら玄関に出向いたら、その人物は、尻餅をついていた。
Mである。いや、対外的には、M先生と呼ぶべきか。常日頃、ぼくに仕事の世話をしてくれたり、逆にぼくが彼に執筆を依頼したりする評論家の、そのひとりだ。
なぜ、彼がここにいるのか解らないけれども、それを問い質そうにも、彼の意識ははっきりとしていない。玄関の手前にある三畳の小部屋に押し込んで、介抱を始める。
その部屋は衣裳部屋の様な様相を呈していて、この部屋だけ一切、手つかずに、家具がそのままにある。部屋の両脇に箪笥や洋服棚が並び、それらに押しつぶされる様に、学習机があって、そこにある備え付けの椅子にMを座らせて、水を呑ませる。
その時点で着替え終えていた彼らは、本来の目的地へと向かい始める。ぼくがどうすべきかは一切、委ねられている様であり、ぼくが向かわなければならない場所と目的も自明らしく、総てが無言のうちに行われる。
今や、ここにはぼくとMしかいない。
<暗転>
ぼくとMは、旧い遊園地の一角に陽を浴びながら座っている。
ジェットコースターやメリーゴーランド、回転ブランコに観覧車、コーヒーカップやお猿の電車。
辺り一帯にあるのは、上昇や下降や回転へと誘うものであり、それらの動きを観ているだけで、目眩に誘われる。そんな当たり前の光景を眼にしながら、なぜ、彼らは押し黙って行列につくのだろうか。
そんな虚しい会話だけに勤しんでいる。
それぞれが手にしたビールも既に何杯か目で、呑み開けられた紙コップだけがうずたかく、ぼくらのテーブルに山をなしている。
もうしばらくしたら、ぼくはMと別れて、あのがらんとした3DKへ向かうだろう。そこでは、十数名の男女が着替え中で、ノックをした拍子で、酔っぱらっているぼくは尻餅をついているのに違いない。
どこかで誰かとぼくが入れ替わるのか。
それとも、今のぼくの老いた結果がMなのか。
それとも、あそこで着替え中のぼくは、誰かにとっての残像としての若い頃のぼくなのか。

The title back from the movie "La riviere du hibou" directed by Robert Enrico, adaptations of the novel "An Occurrence At Owl Creek Bridge
" written by Ambrose Bierce.

"A Fneral Procession Scene" from the movie "The End Of Summer
集合住宅の一角にある、その3DKは、がらんとしている。それまでそこにあった家具の殆どが既に運び出されていて、冬の陽射しだけが長々と射している。
そのなにもない部屋に、十数名の男女が集まって、着替えを始める。南向きの一番広い部屋を女性達が使い、もう一方の寒々とした部屋は男性達が使う。
誰言うとなく、いつのまにかそんな風にそれぞれの更衣室が割り当てられている。
彼らはそれぞれが持ち込んだ大きな鞄から黒い衣服を引っ張り出して着替え始めている。冠婚葬祭なのだろうか。その何れかであろうと推測はつくけれども、その実際は解らない。ただ、皆、押し黙って、それぞれが行うべき事を行っている。
その中のひとりがぼくだ。
数十年振りに帰郷を促されて、そのまま、ここで着替える羽目にある。事態の全容は夢の中のぼくには、一切、解らない。
彼らはぼくとは知古との関係らしく、親し気に、そして、懐かし気にふるまっている。彼らからみれば、旧知の間柄だから、ぼくがここにいる事も、そして彼らとともにここで黒い衣服に着替える事にも、なんの不思議もないようだ。
恐らく、数十年振りに相見える新類縁者達なのだろう。記憶の片隅に彼らの若い頃の顔が朧げに浮かびあがって来る。行動を伴にし、ふたことみこと言葉を交わすうちに、誰が誰だか、なんとなく判別がついてくる。
しかし、ぼんやりとした判別はあるものの、やはり、心許ないのも否定出来ない。あらためて、ここはそれぞれの名を問い質すべきなのだろうか。そんな逡巡をしているうちにも、先方は一切、そんなぼくの不安に横着せずに、昨日別れたばかりの息子が帰って来た様な口調で語りかける。
そして、そんなぼくらの周りを幾人もの子供達がかけずり廻っている。幼い事をいい事に、それぞれの更衣室を自由気侭にいったりきたりしている。
最初はそれぞれの息子達や娘達なんだろうな、と思っていたら、なんとなく様相がおかしい。
彼らの横行を誰も咎め立てしないのは、昨今の親達の風潮かもしれないのだけれども、それ以前に彼らの立ち居振る舞いには、物音ひとつさえ伴わない。
決して広くない3DKの、部屋部屋を縦横無尽に奔り回っている彼らの、嬌声や歓声は聴こえるのだけれども、それと同様に聴こえる筈の騒音や雑音が一切、聴こえない。
幽霊だろうか。それとも幻覚か。
ただ、どうやら、ぼくの眼にしか映っていない筈の彼らの振舞は、懐かしいものこそ感じられ、恐怖や不安といった感情は、一切、沸き起こらない。
それに、ぼくに相対しているおとな達よりも、遥かに、旧知の、知古の関係がある様な気がする。
もしかしたら、幼い彼らの姿なのではないだろうか。
十数年前に、同じ時間を共有し、同じ様にかけずり回っていた当時のぼく達のまぼろしが、今、ここに再現されているのではないだろうか。
ある意味では、昨日のぼくと今日のぼくとは全くの同一態ではない。生体としての新陳代謝の結果とか、知識や経験の蓄積とか、考え出したらきりがないのだけれども、少なくとも24時間の経過は、ぼく自身になんらかの変化がもたらされている筈だ。
だが、それでも、他者は昨日のぼくと同様のものとして今日のぼくに相対時するのは、その違いを見極められないからではない。今日のぼくと同時に24時間前のぼくの残像を同時に観ているからなのだ。
と、すると。
昨日のぼくではなくて、一ヶ月前のぼくならば一年前のぼくならば。
やはり同じ様に、一ヶ月前のぼくの残像や一年前のぼくの残像を観る事も出来るかもしれない。
そうなのだ。今、ぼくが観ているこの広くない室内をかけずり廻っている子供達は、数十年前の彼らの残像に違いないのだ。
ふと、そんな想いに囚われて、子供達とおとな達の表情を見比べだした矢先に、玄関を叩くおおきな音が聴こえる。
不意の訪問者である上に、今、ここにいるぼく達を訪なうヒトはいる筈はない、訝しがりながら、誰かが、そのおおきな音の主の応対に出向く。
戻って来た人物がぼくの許にやってきてこう言う。
「きみの名前を呼んでいるぜ。しかも、酔っている」
数十年振りの帰郷のぼくに、訪問客はない筈だけれども、と言いながら玄関に出向いたら、その人物は、尻餅をついていた。
Mである。いや、対外的には、M先生と呼ぶべきか。常日頃、ぼくに仕事の世話をしてくれたり、逆にぼくが彼に執筆を依頼したりする評論家の、そのひとりだ。
なぜ、彼がここにいるのか解らないけれども、それを問い質そうにも、彼の意識ははっきりとしていない。玄関の手前にある三畳の小部屋に押し込んで、介抱を始める。
その部屋は衣裳部屋の様な様相を呈していて、この部屋だけ一切、手つかずに、家具がそのままにある。部屋の両脇に箪笥や洋服棚が並び、それらに押しつぶされる様に、学習机があって、そこにある備え付けの椅子にMを座らせて、水を呑ませる。
その時点で着替え終えていた彼らは、本来の目的地へと向かい始める。ぼくがどうすべきかは一切、委ねられている様であり、ぼくが向かわなければならない場所と目的も自明らしく、総てが無言のうちに行われる。
今や、ここにはぼくとMしかいない。
<暗転>
ぼくとMは、旧い遊園地の一角に陽を浴びながら座っている。
ジェットコースターやメリーゴーランド、回転ブランコに観覧車、コーヒーカップやお猿の電車。
辺り一帯にあるのは、上昇や下降や回転へと誘うものであり、それらの動きを観ているだけで、目眩に誘われる。そんな当たり前の光景を眼にしながら、なぜ、彼らは押し黙って行列につくのだろうか。
そんな虚しい会話だけに勤しんでいる。
それぞれが手にしたビールも既に何杯か目で、呑み開けられた紙コップだけがうずたかく、ぼくらのテーブルに山をなしている。
もうしばらくしたら、ぼくはMと別れて、あのがらんとした3DKへ向かうだろう。そこでは、十数名の男女が着替え中で、ノックをした拍子で、酔っぱらっているぼくは尻餅をついているのに違いない。
どこかで誰かとぼくが入れ替わるのか。
それとも、今のぼくの老いた結果がMなのか。
それとも、あそこで着替え中のぼくは、誰かにとっての残像としての若い頃のぼくなのか。

The title back from the movie "La riviere du hibou" directed by Robert Enrico, adaptations of the novel "An Occurrence At Owl Creek Bridge
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