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2011.12.06.17.57

まなつのし

かつてほどではないものの、それでも文字通りに、忘れた頃に有感地震がある。殆どの場合が、揺れたなと感じたその時には治っているし、揺れた事に気づかないままで済んでしまった周囲のものも多い。
念の為に、ネットで検索すれば律儀にその情報は報じられてはいるものの、果たして、他のメディアや報道機関ではどうなのだろうか。恐らく、緊急地震速報 (EEW : Earthquake Early Warning) はおろか、テロップでのニュース速報 (Breaking News) すら流れていないだろう。
せいぜい震度1か震度2。震源地でさえも震度3程度のものだから、たかが知れている。しかも、その震源地ですら、3.11.の激震地とは無縁の場所の場合ですらあるのだ。
にも、関わらずに、最初に感じた揺れの時に抱いた、あの感覚はなんなのか。

その感覚は、3.11.の記憶も生々しいあの頃のものとも、少し違っている。

来たと思い、また来たと思い、遂に来たという、その瞬時の思考経路は全く同じものかもしれない。今、己がいる場所をあらためて意識し、己の身に起こるかもしれない事態に考えを巡らし、どこまで逃げれば己の身の安全を確保出来るのか、そこまで考える筋道は、恐らく、変わりはないだろう。
敢て言えば、何度となく頭の中で行っているシュミレーションの結果、その思考経路やその結果に辿り着く最善策は、以前よりも早く顕われているのかもしれない。

では、当時と今と、一体、なにが違うのだろう。

報道で時折見かける光景に次の様なものがある。
ある事件や事故の被害者や、その被害者に成り代わった遺族や関係者、そして彼らがある意思の元に結集した際の、代表者の顔だ。
ぼくには時折、彼らの顔が、己の置かれている状況に酔っている様に観えてしまう、そんな瞬間があるのだ。

誰とはいわないし、どれとはいわない。
そして無論の事で、誰でもないかもしれないし、どれでもないかもしれない。
単なる机上の空論かもしれないし、連想ゲームの行き着く果てなのかもしれないし、ことばの綾を弄んでいるだけなのかもしれない。

だから、あなたがここで読み指してしまってもぼくは一向に構わないのだけれども、もしつきあう気があるのならば、全くあり得ない馬鹿げた想像の産物と想うよりも、最悪のシナリオをぼくが書いていると思いながら読み進めてみるくらいの、寛容さをあなたにも抱いていて欲しい。
と、いうのは、ぼくの印象を批判し非難する事はとっても簡単な事なのだし、それに乗じてぼくを中傷し誹謗する事は、とても容易な事なのだから。

ただ、敢てここに書こうとするぼくから観れば、その可能性は万分の一くらいはあり得るだろうと思っている。ぼくの根拠はそこにあるしそこにしかない。

さて、話を巻き戻してみよう。
報道に時折見かける光景の事だ。
好む好まざるとに関わらずに、大なり小なり、事件や事故に関わってしまったヒトビトの中に、そこに己が置かれている事に酔っている様に観えてしまう事が、ぼくにはある、という事だ。

それはこういう事なのかもしれない。

報道という枠組みの中で、切り抜かれたその瞬間が、そんな様に観せているのかもしれないし、[何度も繰り返すけれども] 単なるぼくの思い違いなのかもしれない。いずれにしろ、ぼくは彼らとの面識もなければ、その場で彼らを観た訳ではない。ある報道を観たぼくの、ほんの瞬間の印象でしかない。
しかし、とは言うものの、その印象はある特定の人物やある特定の事件や事故だけでのものではなくて、何度も何度も、観てしまうものなのだ。

己の置かれている状況を明確化させると同時に、己に敵対する [であろう] 他者へ向けるべき発言と己を擁護する [であろう] 他者へ向けるべき発言を、その場では求められているのだ。出来る事は限られているし、求められているモノはあまりに多い [そこでの発言を許に報道として形成しようとするモノが求めているモノはたったひとつかもしれないのだが] 。

政治家や官僚や財界人や法曹人やマスコミ関係者といった、発言のプロならば、如何にもやり遂せる様な場面かもしれない。しかし、そんな衆人環視の場で発言する事を生業にしているモノどもでさえ、失策や不手際を演じてしまう場面でさえあるのだ。
そんな恐ろしい場所である。

これまで市井の中の名も無き存在に甘んじていたヒトが、ある日いきなり、脚光を浴びてしまうのだ。しかも、己が望むものではなくて、むしろ、あってはならない、あってほしくない形で、衆知の存在と化してしまう。
そして、そこで己が果たす役回りは、あらかじめ用意されていて、その上に、それ以外のものを誰も望んでいないとしたら、どうすべきなのだろうか。

その一切を否定してそこから降りる事も可能かもしれないが、それが許されないモノである事は、誰からの眼からも明らかである。なぜならば、それを観るぼく達こそが、望んでいるからなのだ。ぼく達とはなにか。それは、敵対する可能性も擁護に廻る可能性もある第三者の謂いである。
と、ならば、その場限りの主役として、そのステージに立たざるを得ないのではないだろうか。

それは、誰でもが己自身の物語にあってその主人公になり得るという認識とは、若干違う。むしろ、真の主役というべきはそのステージを用意したモノであって、そこに立つモノは、その婢でしかない。つまりは、用意したモノに成り代わって、与えられた役回りを演じさせられるだけなのだ。傀儡でしかないのだ。

己自身がそれに自覚的であるならば、決してその場にいても"酔う"事はないだろう。むしろ、"醒め"ている筈なのだ。つまり、今ここで己が立たせられているステージは茶番以外のナニモノでもなくて、本来、己が立ち居をしなければならないステージは、別の時間に別の場所にあると知っているのに違いない。

にも関わらずに、彼らはそこにいる己を発見し、そこにいる己という存在に"酔って"いるのである。
果たして、その正体は、一体、なんなのか。

なんだか、本筋とは関わりのない事ばかりを書きすぎてしまったのかもしれない。
ぼくが言いたい事はこういう事だ。

つまり、冒頭で触れた有感地震の際、なぜだか、ぼくは、それを待っている節があるからなのだ。

ありえないモノ、あってはならないモノ、あるはずのないモノが一度起きてしまった。では、それは再び顕われるのか、そして、それにかつて起きてしまった際に出来なかった事が出来るのであろうか。それとも、徒に徒労にかけて、日常の中に埋没してしまうのだろうか。

己の真情を分析し、やや優等生な視点で書き出してみると上の様なものになるだろう。だが、果たしてそれが総てであるのだろうか。
なにかそれとは全く別のモノを待ってはいないだろうか。

だからと言って、ここで馬鹿正直にぼく自身の内心を吐露するつもりはない。そんな事よりも、これを読んでいるあなた自身は果たしてどうなのか。
告白なんぞを強要するつもりもないし、それを悔い改めよ等と戯言をほざくつもりもない。それ以前に、あなたの内心になんか、ぼくは興味なんかないんだ。

ちなみにこの駄文のタイトル『まなつのし』とは、ナニかをずっと待っていて、そして、待って待って待ちきれなくてその結果遂に行動を起こしてしまった三島由紀夫 (Mishima Yukio) の小説『真夏の死 (Death In Midsummer)』にちなんでいる。

ここまで読んできてぼくの駄文が戯言の様にしか思えないのならば、試みにこの小説でも読んでみるといい。

1953年に発表された本作に関して、作者三島由紀夫 (Mishima Yukio) 自身が、1970年 [言うまでもないが作者が死去した年だ] に『自作自註』[短編集『真夏の死』に採録されている] を書いている。

そこでは実際にあった事件を下敷きにしている事と共に、「普通の小説の逆構成を考えた」と書いてある。

つまり、通常ならば、物語の舞台設定や登場人物の采配等が用意されてその後に、あるひとつのクライマックスに収斂されていく構造が、逆転されているのだ。
最初に突発的な事件が起きて、その後の余波が次第に沈静化して、日常へと回帰しようとする、ある物語が語られようとするのである。
だが、その登場人物達は、完全に日常に埋没してしまう前に、そんな物語構成に叛旗を翻してしまうのだ。しかも、その叛旗は眼に見える様なかたちとなって顕われていないだけに、その上に、ほんのちいさな感情のさざ波の様なものだけに、逆に、その起因となるものの奥深さや底知れなさを恐ろしく感じてしまうのだ。
その奥深さと底知れなさを描いて、その小説は終わる。
では、現実はどうなのだ、という作者の問いが『自作自註』を書かせたのに違いないのだ。

images
上記掲載画像は、ウィージー (Weegee) の1940年のコニー・アイランド (Coney Island) の夏を撮影した連作『ディ・アット・ザ・ビーチ (Weegee's Day At The Beach)』の一点。"A lifeguard And A Doctor Attempt To Save A Swimmers Life On Coney Island Beach, New York, 1940."
タイトルを敢て訳せば「溺れたヒトを救命するのに奮闘中」。
こちらのサイトにアクセスし、"View More Photos"を数回クリックすると、この作品の詳細を観る事が出来る。そこでは、「カメラを向けられた際の条件反射だろう、写真中央に写る女性がカメラ目線で微笑んでいる (A woman oblivious to the trauma smiles at the camera from the center of the image.)」と解説されている。

次回は「」。
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