2011.11.28.23.58
狂えるメサイア達に捧ぐ:追悼ケン・ラッセルに代えて (RIP Ken Russell)
息子の身と将来を案ずるあまりに泥酔した母親 [演:アン=マーグレット (Ann-Margret)] は、その酔いにまかせてシャンペン・ボトルを放り投げる。投げられたそのボトルのゆく先にあるのは、テレビ画面。先刻来、下らないCMを垂れ流し続けているそれは、運悪くも彼女の怒りの矛先が向けられてしまった格好だ。
彼女の意に従順なボトルは、ものの見事にブラウン管を破砕する。
そして。
膨大な水と膨大な泡。それらが破損したブラウン管から襲って来る。しかも、それだけではない。泡まみれの濁った洗濯水のその後には、どろどろに融けたチョコレートとぐだぐだに煮込まれたビーンズが流れ込んでくるのだ。今、ブラウン管から溢れ出てくるものは総て、垂れ流され続けていたCMに映し出されたものばかりである。
己が破損したブラウン管から溢れ続けている、汚泥と汚濁にまみれて母親は狂気に陥ったとも恍惚に逝ったとも観える歓喜の表情すら魅せている。
以上は、映画『トミー
(Tommy)』 [1975年制作] のワン・シーン。
先程、訃報が飛び込んできたばかりのケン・ラッセル (Ken Russell) 監督の作品である。
と、同時に彼の真骨頂である、キッチュとも呼べる映像美が遺憾なく発揮されたシーンだと思う。
ご存知の方には蛇足でしかないのだけれども、映画『トミー
(Tommy)』 [1975年制作] は、ザ・フー (The Who) のロック・オペラ『トミー (Tommy)
』 [1969年制作] の映像化作品であり、上記の様なシーンは原作である同アルバムには一切ない。むしろ、映像化に際して、あらためてザ・フー (The Who) のリーダー、ピート・タウンゼント (Pete Townshend) に新曲を書き下ろさせたものなのだろう。
その結果、主人公であるトミー (Tommy) の内面と彼を巡る世界との対峙を主題とした原作が、この映像化によって、母親の比重が非常に重きをなした [母親を演じたアン=マーグレット (Ann-Margret) が本作品でゴールデングローブ賞 (Golden Globe Awards) のミュージカル・コメディ部門主演女優賞(Best Actress In A Musical Or Comedy) を受賞した]。
何故、故人がこの様なシーンを加えたのかは、彼の他の作品を観ると実によく解る。
彼にとって、映画の登場人物が観たり聴いたり体験したりする夢や幻や過去の記憶は総て、ありありと今ここに現実のものとなって顕われるべきものだからなのだ。
アリス・リデル (Alice Liddell) は、居眠りしている間にいつのまにか不思議の世界を侵犯してしまったり、鏡を通り抜けてもうひとつの世界に到達してしまう。
しかし、彼の作品では、その真逆で、夢や幻や過去の記憶が現実を侵犯する為に、"むこう"からやってくるのだ。しかも、それだけではない。夢やまぼろしや過去の記憶の当事者のみならず、"むこう"からやってきたモノは、その周囲も巻き込んで行くのである。
だから、彼の作品では、本来ならば夢や幻や過去の記憶として、曖昧であやふやで抽象的な存在であるべきものが総て、具体的で即物的なものとして描写される。
ドイツ人女と結婚してしまったユダヤ人の夫が観る悪夢は、彼よりも後の時代のモノどもが体験するナチズム (Nazism) への恐怖そのものである [『マーラー (Mahler)』 1974年制作] し、湖畔に臨む別荘地で観る悪夢の正体はヨハン・ハインリヒ・フュースリー (Johann Heinrich Fussli) 描く『夢魔 (The Nightmare)』そのものの姿であるし [『ゴシック
(Gothic)』 1986年制作]、同性愛者が観る『サロメ (Salome)』で演じられる七つのヴェイルの踊り (Danse des sept voiles) は男性が舞う [『サロメ (Salome's Last Dance)』 1987年制作] べきものなのである。
その描写が観るモノを選ぶのかもしれない。史実に準じる事はおろか時代考証なんてもっての他でその上に、エキセントリックだし華美だし過剰だし、観方によってはトゥー・マッチでコミック的なカリカチュアライズされたものにしか観えないのかもしれない。
しかし、それは故人が徹頭徹尾描こうとした主題を表現するのに、最適なものだったからではないだろうか。
ピョートル・チャイコフスキー (Pyotr Ilyich Tchaikovsky) [『恋人たちの曲 / 悲愴 (The Music Lovers)』 1970年制作]、グスタフ・マーラー (Gustav Mahler) [『マーラー (Mahler)』 1974年制作]、フランツ・リスト (Liszt Ferenc) [『リストマニア (Lisztomania)』 1975年制作]、メアリー・シェリー (Mary Shelley) [『ゴシック
(Gothic)』 1986年制作]、オスカー・ワイルド (Oscar Wilde) [『サロメ (Salome's Last Dance)』 1987年制作]、...。
彼が主人公に選んだのは総て、創作者であり、その創作の現場だ。
冒頭に紹介した『トミー
(Tommy)』 [1975年制作] の主人公トミー (Tommy) も、ピート・タウンゼント (Pete Townshend) の鏡像と看做せば、そのラインアップに並べる事も出来るかもしれない。
恐らく、故人は創作のモチーフなり創作のモチベーションは、その様なものとして顕われると確信していたのではないだろうか。
そしてその立ち顕われる瞬間を何度も何度も描き続けたのではないのだろうか。
故人の冥福をお祈りします。
ちなみにこの駄文を書いている際のBGMは、ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) の歌劇『トゥーランドット (Turandot) より『誰も寝てはならぬ (Nessun dorma)』。オムニバス映画『アリア
(Aria)』 [1987年制作] に参加した際に彼がその主題とした曲である。
追悼の意を表すのに相応しいって!? 馬鹿を言っちゃあいけない。その作品の中では、ヒト一人の命を救う為に『誰も寝てはならぬ (Nessun dorma)』と唄われているのだから。
附記:
ケン・ラッセル (Ken Russell) 作品に、上に書いた様なあまり良い印象を持たない方は、観る機会さえあれば『狂えるメサイア (Savage Messiah)』 [1972年制作] を観てみるといい。これまでのケン・ラッセル (Ken Russell) 観を快く裏切るストイックな作品だからだ。
若くして亡くなった彫刻家アンリ・ゴーディエ・ブルゼスカ (Henri Gaudier-Brzeska)を主人公としたこの作品は、猪突猛進とも言える疾走感に満ちた作品で、そこで描かれている主人公の姿はそのまま若き日のケン・ラッセル (Ken Russell) 自身を彷彿とさせるのだ。
彼女の意に従順なボトルは、ものの見事にブラウン管を破砕する。
そして。
膨大な水と膨大な泡。それらが破損したブラウン管から襲って来る。しかも、それだけではない。泡まみれの濁った洗濯水のその後には、どろどろに融けたチョコレートとぐだぐだに煮込まれたビーンズが流れ込んでくるのだ。今、ブラウン管から溢れ出てくるものは総て、垂れ流され続けていたCMに映し出されたものばかりである。
己が破損したブラウン管から溢れ続けている、汚泥と汚濁にまみれて母親は狂気に陥ったとも恍惚に逝ったとも観える歓喜の表情すら魅せている。
以上は、映画『トミー
先程、訃報が飛び込んできたばかりのケン・ラッセル (Ken Russell) 監督の作品である。
と、同時に彼の真骨頂である、キッチュとも呼べる映像美が遺憾なく発揮されたシーンだと思う。
ご存知の方には蛇足でしかないのだけれども、映画『トミー
その結果、主人公であるトミー (Tommy) の内面と彼を巡る世界との対峙を主題とした原作が、この映像化によって、母親の比重が非常に重きをなした [母親を演じたアン=マーグレット (Ann-Margret) が本作品でゴールデングローブ賞 (Golden Globe Awards) のミュージカル・コメディ部門主演女優賞(Best Actress In A Musical Or Comedy) を受賞した]。
何故、故人がこの様なシーンを加えたのかは、彼の他の作品を観ると実によく解る。
彼にとって、映画の登場人物が観たり聴いたり体験したりする夢や幻や過去の記憶は総て、ありありと今ここに現実のものとなって顕われるべきものだからなのだ。
アリス・リデル (Alice Liddell) は、居眠りしている間にいつのまにか不思議の世界を侵犯してしまったり、鏡を通り抜けてもうひとつの世界に到達してしまう。
しかし、彼の作品では、その真逆で、夢や幻や過去の記憶が現実を侵犯する為に、"むこう"からやってくるのだ。しかも、それだけではない。夢やまぼろしや過去の記憶の当事者のみならず、"むこう"からやってきたモノは、その周囲も巻き込んで行くのである。
だから、彼の作品では、本来ならば夢や幻や過去の記憶として、曖昧であやふやで抽象的な存在であるべきものが総て、具体的で即物的なものとして描写される。
ドイツ人女と結婚してしまったユダヤ人の夫が観る悪夢は、彼よりも後の時代のモノどもが体験するナチズム (Nazism) への恐怖そのものである [『マーラー (Mahler)』 1974年制作] し、湖畔に臨む別荘地で観る悪夢の正体はヨハン・ハインリヒ・フュースリー (Johann Heinrich Fussli) 描く『夢魔 (The Nightmare)』そのものの姿であるし [『ゴシック
その描写が観るモノを選ぶのかもしれない。史実に準じる事はおろか時代考証なんてもっての他でその上に、エキセントリックだし華美だし過剰だし、観方によってはトゥー・マッチでコミック的なカリカチュアライズされたものにしか観えないのかもしれない。
しかし、それは故人が徹頭徹尾描こうとした主題を表現するのに、最適なものだったからではないだろうか。
ピョートル・チャイコフスキー (Pyotr Ilyich Tchaikovsky) [『恋人たちの曲 / 悲愴 (The Music Lovers)』 1970年制作]、グスタフ・マーラー (Gustav Mahler) [『マーラー (Mahler)』 1974年制作]、フランツ・リスト (Liszt Ferenc) [『リストマニア (Lisztomania)』 1975年制作]、メアリー・シェリー (Mary Shelley) [『ゴシック
彼が主人公に選んだのは総て、創作者であり、その創作の現場だ。
冒頭に紹介した『トミー
恐らく、故人は創作のモチーフなり創作のモチベーションは、その様なものとして顕われると確信していたのではないだろうか。
そしてその立ち顕われる瞬間を何度も何度も描き続けたのではないのだろうか。
故人の冥福をお祈りします。
ちなみにこの駄文を書いている際のBGMは、ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) の歌劇『トゥーランドット (Turandot) より『誰も寝てはならぬ (Nessun dorma)』。オムニバス映画『アリア
追悼の意を表すのに相応しいって!? 馬鹿を言っちゃあいけない。その作品の中では、ヒト一人の命を救う為に『誰も寝てはならぬ (Nessun dorma)』と唄われているのだから。
附記:
ケン・ラッセル (Ken Russell) 作品に、上に書いた様なあまり良い印象を持たない方は、観る機会さえあれば『狂えるメサイア (Savage Messiah)』 [1972年制作] を観てみるといい。これまでのケン・ラッセル (Ken Russell) 観を快く裏切るストイックな作品だからだ。
若くして亡くなった彫刻家アンリ・ゴーディエ・ブルゼスカ (Henri Gaudier-Brzeska)を主人公としたこの作品は、猪突猛進とも言える疾走感に満ちた作品で、そこで描かれている主人公の姿はそのまま若き日のケン・ラッセル (Ken Russell) 自身を彷彿とさせるのだ。
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