2011.11.22.17.35
タイトルにあるのは、平沢進 (Susumu Hirasawa) 率いるピー・モデル (P-Model) [現在は三度目の活動休止期間=培養中である] のデヴュー曲『美術館で会った人だろ (Art Mania)』 [作詞作曲:平沢進 (Susumu Hirasawa) 1979年7月25日発表] である。彼らのファースト・アルバム『In A Model Room
』[1979年8月25日発表] にも収録されている。最近ではポリシックス (Polysics) がカヴァーしている様なので、そちらのヴァージョンでご存知の方も多いかもしれない。
ポリシックス (Polysics) 云々という以前の段階から、ピー・モデル (P-Model) はヒカシュー (Hikashu)、プラスチックス (Plastics) とともに、所謂テクノ・ポップ御三家のひとつとして数えられていて、彼らのこの曲もそのテクノ・ポップ (Technopop) の代表的な楽曲のひとつとして挙げられている。
しかし、以前もどこかに書いたけれども、真性の意味でのテクノ・ポップ (Technopop) だったのはプラスチックス (Plastics) だけで、ピー・モデル (P-Model) もヒカシュー (Hikashu) もテクノ・ポップ (Technopop) ではない。
そもそもがテクノ・ポップ (Technopop) の魁となったワイ・エム・オーことことイエロー・マジック・オーケストラ (YMO aka Yellow Magic Orchestra) 自体が、テクノ・ポップ (Technopop) だったのかどうかも怪しいものなのである。
例えば、本稿の主題である『美術館で会った人だろ (Art Mania)』も、効果音的に挿入されるシンセサイザー (Analog Synthesizer) の音色がその風情を匂わせているものの、楽曲の構成とその性急感はパンク (Punk) のそれに近いものがある。
と、言うよりも大事なのは、演奏スタイルやジャンルの棲み分けではなくて、唄われている歌詞の方にある。
それは、好いた惚れたといった古典的なラヴ・ソングでもなく、政治的な主張を掲げるメッセージ・ソングでもない。
だからといって、日常をスケッチしたものでもなくて、その日常に感ずるあるモノを抽出しようとしている様に観える。
歌詞にメを通せば、単純に、歌の主人公が遭遇したある人物を『美術館で会った人だろ』『夢の世界で会った人だろ』と難詰しているのにすぎない。
殆どいいがかりである。
しかし、主人公にとっては、その言いがかりを言う事自体が必要かつ不可欠であり、早急に言及すべき最重要課題なのである。
己の中にある尺度で世の中の総てを測って量って、その計測結果に基づいて計って行動しようとすると、秤そのものを間違えてしまったのか、上手くいかない。否、巧くいかないどころの騒ぎではなくて、どこでどう謀られて図られてしまったものなのか、まるでナニモノかの美味い話に嵌められてしまったかの様な状況に陥っているのである。
その結果、自身の尺度で観れば、至極真っ当な発言をしているつもりであっても、他者から観れば難癖以外のなにものでもない言説となって発露されてしまう。
恐らく、世の中のオトナと呼ばれるヒトビトから観れば、その様な歌にしか観えないだろう。
困ったヒトであり、無茶なヒトであり、しかも時と場合によれば、事件や事故を引き起こしかねない犯罪者予備軍にすら観えてしまう、怖いヒトなのである。
でも、唄っている当事者であるホンニンから観れば、その己の出逢ったその人物をどこの誰かを特定する事が、唯一にして最初で最後の、最重要な案件なのである。
何故ならば、それ以外に、己の存在のありどころを"ここ"とする必然性が見出せないからだ。
しかも、タチが悪い事に、"ここ"以外の場所に己のありどころを見出す事も覚束ない。只管、"ここ"にしがみつくしか、身の施しようがないのである。
ホンニンとしてはただただ、こんな事を暴言したいのでもなく、その暴言の成れの果てに暴発したくもなくて、誰もが発する極当たり前の疑問を呈したいだけなのに。
ぼくがここで指摘したかったパンク (Punk) のそれとは、その様なものなのである。
なにをもってパンク (Punk) とするのかという点に関しては、議論し出すと、それはそれで言い出したらキリがないテーマになりかねないのだけれども、少なくとも、シド・ヴィシャス (Sid Vicious) の『マイ・ウェイ (My Way)』だけがパンク (Punk) ではない事だけは、解っていて欲しい [シド・ヴィシャス (Sid Vicious) ホンニンにしてみれば、あんな映画に出演し、あんなシーンであんな歌をあんな風に唄う事自体は、『美術館で会った人だろ (Art Mania)』の主人公と似た様なものなのだけれども]。
次回は「ろ」。

附記:
では何故、その場所が美術館なのかと、あなたは問うかもしれない。
五大パンク・バンド (The Top Five British Pink Bands) のひとつにも数え上げられたりもするストラングラーズ (The Stranglers) のジャン・ジャック・バーネル (Jean-Jacques Burnel) に、『ユーロマン・カメス (Euroman Cometh)
』[1979年4月6日発表] というソロ・アルバムがある。
『巴里の米国人 (An American In Paris)』でも『紐育の英国人 (Englishman In New York)』でも、はたまた『倫敦の人狼 (Werewolf Of London)』でもない"ロンドンのフランス人 (倫敦の仏国人)"である彼が、自己のアイディンティティを"ヨーロッパ人 (Euroman)"として呈示した作品である。
ストラングラーズ (The Stranglers) のフロント・マンとして、己のバンドの最も攻撃的な側面を演出した彼の、その作品では、当時のバンドの音楽性とは一旦離れた、ジャーマン・テクノ (German Technopop) 的な音楽を聴く事が出来る。
蛇足と知った上で補足しておけば、所謂テクノ・ポップ (Technopop) の源流となったのが、それであり、バンドとしてはクラフトワーク (Kraftwerk) やノイ! (Neu!) やラ・デュッセルドルフ (La Dusseldorf) が挙げられる。というか、そのみっつのバンド総てに関与しているクラウス・ディンガー (Klaus Dinger) という人物が、そのものずばりのジャーマン・テクノ (German Technopop) である [と結論づけて果たして大丈夫か??]。
上に掲載した画像は、その『ユーロマン・カメス (Euroman Cometh)
』。
幾重にも奔り回るダクトやパイプの階層の下に、本作品の主人公であるジャン・ジャック・バーネル (Jean-Jacques Burnel) が佇んでいる。
と、持って廻った言い方をしているが、知っている人間は既に知っているし、有名な観光名所のひとつだから、"今更何を"感に陥っている方もいるかもしれないが、この無骨な建造物はポンピドー・センター (Centre Pompidou)、パリ (Paris) にある。現代美術の牙城だ。
単なる偶然の成せる業かもしれないが、パンク (Punk) とテクノ・ポップ (Technopop) と美術館で三題噺をしようとすれば、この作品が出て来ない訳にはいかないのだ。
平沢進 (Susumu Hirasawa) が夢の世界の美術館で逢ったのは、ジャン・ジャック・バーネル (Jean-Jacques Burnel) なのかもしれない。それがピー・モデル (P-Model) を結成させる一因であると断言するのは、果たして妥当か否か。
ポリシックス (Polysics) 云々という以前の段階から、ピー・モデル (P-Model) はヒカシュー (Hikashu)、プラスチックス (Plastics) とともに、所謂テクノ・ポップ御三家のひとつとして数えられていて、彼らのこの曲もそのテクノ・ポップ (Technopop) の代表的な楽曲のひとつとして挙げられている。
しかし、以前もどこかに書いたけれども、真性の意味でのテクノ・ポップ (Technopop) だったのはプラスチックス (Plastics) だけで、ピー・モデル (P-Model) もヒカシュー (Hikashu) もテクノ・ポップ (Technopop) ではない。
そもそもがテクノ・ポップ (Technopop) の魁となったワイ・エム・オーことことイエロー・マジック・オーケストラ (YMO aka Yellow Magic Orchestra) 自体が、テクノ・ポップ (Technopop) だったのかどうかも怪しいものなのである。
例えば、本稿の主題である『美術館で会った人だろ (Art Mania)』も、効果音的に挿入されるシンセサイザー (Analog Synthesizer) の音色がその風情を匂わせているものの、楽曲の構成とその性急感はパンク (Punk) のそれに近いものがある。
と、言うよりも大事なのは、演奏スタイルやジャンルの棲み分けではなくて、唄われている歌詞の方にある。
それは、好いた惚れたといった古典的なラヴ・ソングでもなく、政治的な主張を掲げるメッセージ・ソングでもない。
だからといって、日常をスケッチしたものでもなくて、その日常に感ずるあるモノを抽出しようとしている様に観える。
歌詞にメを通せば、単純に、歌の主人公が遭遇したある人物を『美術館で会った人だろ』『夢の世界で会った人だろ』と難詰しているのにすぎない。
殆どいいがかりである。
しかし、主人公にとっては、その言いがかりを言う事自体が必要かつ不可欠であり、早急に言及すべき最重要課題なのである。
己の中にある尺度で世の中の総てを測って量って、その計測結果に基づいて計って行動しようとすると、秤そのものを間違えてしまったのか、上手くいかない。否、巧くいかないどころの騒ぎではなくて、どこでどう謀られて図られてしまったものなのか、まるでナニモノかの美味い話に嵌められてしまったかの様な状況に陥っているのである。
その結果、自身の尺度で観れば、至極真っ当な発言をしているつもりであっても、他者から観れば難癖以外のなにものでもない言説となって発露されてしまう。
恐らく、世の中のオトナと呼ばれるヒトビトから観れば、その様な歌にしか観えないだろう。
困ったヒトであり、無茶なヒトであり、しかも時と場合によれば、事件や事故を引き起こしかねない犯罪者予備軍にすら観えてしまう、怖いヒトなのである。
でも、唄っている当事者であるホンニンから観れば、その己の出逢ったその人物をどこの誰かを特定する事が、唯一にして最初で最後の、最重要な案件なのである。
何故ならば、それ以外に、己の存在のありどころを"ここ"とする必然性が見出せないからだ。
しかも、タチが悪い事に、"ここ"以外の場所に己のありどころを見出す事も覚束ない。只管、"ここ"にしがみつくしか、身の施しようがないのである。
ホンニンとしてはただただ、こんな事を暴言したいのでもなく、その暴言の成れの果てに暴発したくもなくて、誰もが発する極当たり前の疑問を呈したいだけなのに。
ぼくがここで指摘したかったパンク (Punk) のそれとは、その様なものなのである。
なにをもってパンク (Punk) とするのかという点に関しては、議論し出すと、それはそれで言い出したらキリがないテーマになりかねないのだけれども、少なくとも、シド・ヴィシャス (Sid Vicious) の『マイ・ウェイ (My Way)』だけがパンク (Punk) ではない事だけは、解っていて欲しい [シド・ヴィシャス (Sid Vicious) ホンニンにしてみれば、あんな映画に出演し、あんなシーンであんな歌をあんな風に唄う事自体は、『美術館で会った人だろ (Art Mania)』の主人公と似た様なものなのだけれども]。
次回は「ろ」。

附記:
では何故、その場所が美術館なのかと、あなたは問うかもしれない。
五大パンク・バンド (The Top Five British Pink Bands) のひとつにも数え上げられたりもするストラングラーズ (The Stranglers) のジャン・ジャック・バーネル (Jean-Jacques Burnel) に、『ユーロマン・カメス (Euroman Cometh)
『巴里の米国人 (An American In Paris)』でも『紐育の英国人 (Englishman In New York)』でも、はたまた『倫敦の人狼 (Werewolf Of London)』でもない"ロンドンのフランス人 (倫敦の仏国人)"である彼が、自己のアイディンティティを"ヨーロッパ人 (Euroman)"として呈示した作品である。
ストラングラーズ (The Stranglers) のフロント・マンとして、己のバンドの最も攻撃的な側面を演出した彼の、その作品では、当時のバンドの音楽性とは一旦離れた、ジャーマン・テクノ (German Technopop) 的な音楽を聴く事が出来る。
蛇足と知った上で補足しておけば、所謂テクノ・ポップ (Technopop) の源流となったのが、それであり、バンドとしてはクラフトワーク (Kraftwerk) やノイ! (Neu!) やラ・デュッセルドルフ (La Dusseldorf) が挙げられる。というか、そのみっつのバンド総てに関与しているクラウス・ディンガー (Klaus Dinger) という人物が、そのものずばりのジャーマン・テクノ (German Technopop) である [と結論づけて果たして大丈夫か??]。
上に掲載した画像は、その『ユーロマン・カメス (Euroman Cometh)
幾重にも奔り回るダクトやパイプの階層の下に、本作品の主人公であるジャン・ジャック・バーネル (Jean-Jacques Burnel) が佇んでいる。
と、持って廻った言い方をしているが、知っている人間は既に知っているし、有名な観光名所のひとつだから、"今更何を"感に陥っている方もいるかもしれないが、この無骨な建造物はポンピドー・センター (Centre Pompidou)、パリ (Paris) にある。現代美術の牙城だ。
単なる偶然の成せる業かもしれないが、パンク (Punk) とテクノ・ポップ (Technopop) と美術館で三題噺をしようとすれば、この作品が出て来ない訳にはいかないのだ。
平沢進 (Susumu Hirasawa) が夢の世界の美術館で逢ったのは、ジャン・ジャック・バーネル (Jean-Jacques Burnel) なのかもしれない。それがピー・モデル (P-Model) を結成させる一因であると断言するのは、果たして妥当か否か。
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