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2011.10.25.18.07

ぬま

つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の全14頁からなる短編マンガ『』は、1966年に雑誌『ガロ』にて発表される [現時点では『ねじ式 』 [小学館文庫] で読む事が出来る]。
ぼくはもちろんその当時にリアル・タイムにこの作品を体験した訳ではなくて、他の彼の作品同様、後に何度となく纏められた文庫版や全集版や撰集版で体験したのであった。

だけれども、その都度、ぼくの脳髄をちくちくと刺激したり、こころの奥底の濁りを照射したり、もしくは、日常のやるせなさから浮かび上がるどうしようもない煤けた笑いを提供したりするのは他の作品ばかりで、『』がその様な解りやすい刺激を与えてくれる事は、決してなかった。
つまり、いくつものつげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作品の中で、考えさせられたり悩ませられたり暗く落ち込ませたり苦笑させらりたりするのは他の作品であって、『』がその様なものをもたらしたりする事はなかった。
だから、その作品は決して、ぼくの中で大きな地位を占めるという事はなかった様に思う。

ただ、文庫版や全集版や撰集版という形で纏められたつげ義春作品をその都度、その手に取って読む度に、『』だけがいつもと変わらぬ、そして他の作品とは異質な、輝きを示しているばかりなのであった。

それは一体、なぜなのだろうか。

もしかしたら、ひとつの作品として完結していないからではないだろうか。
たかだか14頁。
これから始るおおきな物語の冒頭とも導入部とも、その予告篇とも読む事も出来る。この作品で設けられた舞台設定とその登場人物を勘案すれば、いくつもの変奏曲ともいえる物語が編み出せそうだ。
未完の大作。それとも未刊の大作。
もしも、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) がこの作品のその後を構想していたとしたら、その様なものとして呼ばれるのかもしれない。
しかし、その実際は、それとは真逆の、作者自身にとっては、総てを語りきった、欠損もなければ余剰もない、完全な物語であるというのだ。
完璧に仕上がった」と。

この作品は、ひとりの青年がある少女と出逢い、彼女と一夜を共にする、ただそれだけが描かれている。それにもしつけ加えるべき事柄があるとしたら、その青年は猟銃を抱えていて、彼らはある沼の畔で出逢い、その夜の明けた朝、少女は近縁者に彼女のとった行動の軽卒を詰られる、というだけの事である。

この作品を例えばボーイ・ミーツ・ガール (Boy Meets Girl) の物語として解釈しようとすると、同型の他のつげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作品との差異がよく観えて来る。それは語り手である作者と主人公との距離だ。
もう少し、噛み砕いて書き直すと、他の作品は大かれ少なかれ自伝的な色彩もしくは私小説的な佇まいがあると読めたり、単純に作者自身を模した主人公と読めたりするのに比して、『』にはそれがない。

だから?
そう、だから。

この作品を読む読者は誰の視点でこの物語に接すればよいのか、という問題なのである。
物語の語り手と主人公が一体のものであれば、読者もまた主人公の視点で読む事になる。物語の作者とその被創造物である主人公が一体のものであれば、ある特殊な人物の体験記にも、もしくはそれとは全く逆の、一般的な日常的な光景を描いたものにも、なり得るのだ。
』は、そのいずれにもあてはまらない物語なのだ。
物語の登場人物総てを突き放したかの様な、その描写とそこから得られる視点は、近代から現代まで培われて来た物語の手法というよりも、むしろ、民話や伝承の類に近しいのではないだろうか。
そういう眼で観てみると、物語の舞台設定そのものもいつの時代とも知れぬものに観えて来る。主人公の服装や彼が抱えている猟銃の存在によって、明治期以降の物語であると認定出来るものの、それは発表当時の1966年の読者の為に設けられた設定と断定出来なくもない。彼が弓矢を携えた和装で登場して江戸時代以前の時代設定で語られたとしても、物語の根幹は揺るぎない様に観える。
敢て言えば、今昔物語 (Konjaku Monogatarishu aka Anthology Of Tales From The Past) や遠野物語を現在の意匠にアレンジしたものであると読んでみても、決して不可能ではない物語の構造をしているのだ。

それを踏まえて、では、そこに普遍的な物語を見出そうとすると、ぼく達はあまりにもあけすけで明示的な、性のメタファーが散乱している事に気づかされてしまう。
少女にもぎ取られた雁の頸や、少女の部屋に飼われている蛇や、蛇に成り代わって少女の頸を絞めてしまう主人公や、物語最終コマでの発砲や。
否、そもそも、森の奥深くにある沼という舞台設定自体が、既に"それ"ではないか、と。

だからと言って、そんな陳腐なフロイト的な解釈 (Die Psychoanalyse) には、この物語の読者は陥りたくないのだ。
何故ならば、そんなあけすけなリビドー (Libido) 的な発想とは無縁の、禁欲的な恋愛譚を描く事を、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) というマンガ家が出来る事を知っているからなのだ。
そして、それは熱心なつげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の読者ではなくとも、同じではないだろうか。初めて読むつげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作品が、この『』であったとしても、性的なメタファーの開陳に辿り着く前に気づくべきものは多いと思う。

例えばそれは、コミュニケーションの不成立さである。
主人公と少女との、会話の成り立たなさはどうだろうか。しかも、単に会話が成り立たないだけではない。
お互いがお互いの意思の疎通が出来ているのか否か、読者であるぼく達は不確かなままに、しかし、それにも関わらずに、ふたりの事態は物語が進むがままに進展していく。
それは、表面的には主人公の使う標準語と少女の使う方言との落差によって、生じるものかもしれない。
でも、物語の最終部に登場する少女の近縁者と彼女との会話との不成立具合をみれば、あながち、両者が語る言語のずれが、その理由の総てではないと言える。
もしかしたら、意図的に彼女は会話の成立を回避しているのではないだろうか。
少なくとも、主人公が観た、近縁者と少女の会話をそう解釈する事はそれほど難しくはない。なぜならば、険しい詰問が突きつける回答を回避するのには、相当に有効な手段だからだ。
そこで、読者であるぼく達は主人公と同じ様な思考に耽る事になる。
己に対しての彼女の言動の、その真意はなんだったろうか、と。

つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の作品には、往々にして、この様なコミュニケーションの不成立を発見する事が出来る。
それは、二者の会話の噛み合なさが産むオフ・ビート (Offbeat) の笑いである場合もあれば、会話の不成立そのものが物語の主題と読み取れる場合もある。そして、それとは全く逆に、二者の発するそれぞれの言葉の殆どが呼応しないのにも関わらずに、彼らの真意をそのどちらも解してしまっている恋愛をも描かれている作品までもあるのだ。
もしかしたら、それは、本来ならば語り交わされるべき二者間の冗長な会話を削りに削った結果、なのかもしれない。コマのひとつひとつに書き加えられた吹き出しの中のことば以外の、二者間の様々な応酬が、その物語にはあるのかもしれない。
だから、『』でも、主人公と少女との間の会話は成り立っていないと読むのは、ぼく達の誤読なのだ。実際には、ふたりの間には、濃厚な了解が既に出来上がっているのである。そんな解釈も決して誤りであるとは断定出来ないのだ。

でも、それはある一時のものでしかないのではないだろうか。表面的なものでしかないのではないだろうか。
主人公が己の獲物である筈の雁の頸を観せられた時、主人公が彼女の住いに一夜の宿を求める事になった時、その部屋に蛇が飼われ、その蛇によって彼女の頸が夜半絞められる事を聴かされた時。
主人公はその都度、彼女が語ることばの中から、常識的で最も理解しやすい部分のみを抽出して、それを是とする。
つまり、少女は語るのではない。少女が騙るのである。その語り=騙りに翻弄されて追いつめられて、主人公はその夜、蛇に成り代わって少女の頸を絞めあげようとしてしまうのだ。

果たして、その夜の出来事は、最初から少女が仕組んだ罠だったのだろうか。
それとも、飼っている蛇に頸を絞められる様な、思わぬ偶然の出来事、事故の様なものなのだろうか。
少女が自覚的なのか無自覚なのか、それが解明されぬままに、物語は突然に終りを告げる。
だが、彼女をその近親者が詰る様に、理由やその実際はどうであれ、その結果は第三者には動かぬモノとして映じてしまう。そうして、その事態は彼女ばかりを拘束するのではない。主人公をも否応もなく拘束してしまうのだ。

だから、主人公は己が今、直面している事態を観て、なす術もなく、物語冒頭と同じ様に、沼に向かって猟銃を放つしかないのである。

そうして、その空虚な音がこだまする中、ぼく達読者は再びこの物語を反芻せざるを得ないのだ。そのこだまが耳をついて離れないのであるならば、読者であるぼく達は物語冒頭に立ち返って、それを追体験するしか術はないのである。

結局は、少女に翻弄されただけなのだろうか。
そして、その少女とは一体、ナニモノなのだろうか。

images
ズドーン

次回は「」。

附記 1.:
「これから始るおおきな物語の冒頭とも導入部とも、その予告篇とも読む事も出来る」と上に書いたけれども、さしずめ楳図かずお (kazuo Umezu) ならば、そのまま『へび女シリーズ (Reptilia)』 [1966週刊少女フレンド連載] の冒頭にしたのかもしれない。と、考えが及んでしまうのは、流石に安易だ。
でも、企画としては、この14頁を受ける形での、短編作品の連作集 [パロディも含めて] は、あり得るのかもしれない。
ただ、それは描くモノ / 創るモノにとっては、恐ろしく無謀な試みとなるだろう。
だが、ぼくが言いたいのは、そうではない。
この作品を読む度にぼくは、ちばてつや (Tetsuya Chiba) の短編マンガ『蛍三七子 (Hotaru Minako)』 [1972週刊少年マガジン掲載] を憶い出してしまうのだ。
青年とヒロインが邂逅する舞台設定を、当時の社会問題を絡めて巧妙に用意し、その中で行きずりのふたりが恋に陥る過程を丁寧に描く。そしてそこには思ってもみない結末が用意される。
ぼくはこの作品を、掲載誌でリアルタイムで読んだのだけれども、そのまま次号からその続きが掲載されるものとばかり思い込んで、大慌てをした記憶がある。
物語の結末をああいう形で完結させる手法があるとは、幼いぼくはまだ、知らなかったからだ。

附記 2.:
』に登場した少女は、その後のつげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作品に形を変えて何度か登場すると言う。『紅い花 (Akai Hana aka Red Flowers)』 [1967ガロ掲載] のキクチサヨコや『もっきり屋の少女』 [1968ガロ掲載] のコバヤシチヨジだと言う。そのどちらもが年格好からおかっぱ頭のヘアスタイルそして時代錯誤とも思える和装をした上に、主人公と会話の成立し難い方言を放つからだ。
だが、その様な少女ならば、他のつげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作品のどこかに必ず佇んでいるのだ。
オンドル小屋』 [1968ガロ掲載] の「どっちも、どっちも」の声が悩ましい女性従業員や、『海辺の叙景』 [1967ガロ掲載] でビキニ姿で登場して「あなたいい人ね」と囁くヒロインは、その変奏ではないだろうか。そして彼女達が経験を重ね成熟すれば、『ねじ式 (Nejishiki aka Screw Style)』 [1968ガロ掲載] の女医の様に「ではお医者さんごっこをしてあげます」と言ってくれるのかもしれないし、『隣りの女 』 [1985コミックばく掲載] のヒロインの様に己の性欲を満たす為に、主人公の前に「また来ちゃった」と顕われるのかもしれないし、さらに年老えば『リアリズムの宿』 [1973漫画ストーリー掲載] のかみさんの様に「サンビスしますから」と懇願して、ぼく達の行手を阻むのかもしれない。
つまり、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) はたったひとりの女性だけを描き続けているのではないだろうか。
それとも、ぼく自身が、あるマンガ家の創作物の中に、たったひとりの女性だけを憶い描いてしまっているのだろうか。
そんな堂々巡りの想い / 憶いに、ふと囚われてしまうのだ。
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