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2011.10.18.18.05

まりあんぬ

それは誰か!?
勿論、マリアンヌでもMarianneでも検索すれば立ち所に出て来る。
そして、そのマリアンヌ (Marianne) 達は誰も、ぼくには御馴染みの女性達だ。
でも、それはいま、ぼくが捜し出そうとしているマリアンヌ (Marianne) とは、全くの別人ではないだろうかと、思われる。
だがその一方で [ある意味で自明の事なのだろうけれども] 彼女達の名前に潜む、マリアンヌ (Marianne) が象徴するものは、共通のものなのかもしれないのだ。

ぼくが捜し出そうという女性は、ジャックス (Jacks) の『マリアンヌ (Marianne)』で唄われている彼女の事だ。その曲は、1968年に『時計をとめて (Tokei Wo Tomete)』とのカップリングでシングルとして発売されて、同年には彼らのデヴュー・アルバム『ジャックスの世界 (Vacant World) 』にも収録された。作詞:相沢靖子 (Yasuko Aizawa) ・作曲:早川義夫 (Yoshio Hayakawa) である。

しかし、この曲だけでは、彼らにとってのある女性を描いた歌でしかない。
だから、もうひとつの『マリアンヌ (Marianne)』という名の曲を紹介しよう。

アンドリュー・エルドリッチ (Andrew Eldritch) 率いるシスターズ・オブ・マーシー (The Sisters Of Mercy) の『マリアン (Marian)』だ。1985年発表の彼らのデヴュー・アルバム『マーシーの合言葉 (First And Last And Always)』に収録されている。こちらの作者は作詞:アンドリュー・エルドリッチ (Andrew Eldritch)・作曲:ウェイン・ハッセイ (Wayne Hussey) となっている。
つまらないボケや突っ込みを回避する為に、あえて補足しておく。マリアンヌ (Marianne) という女性の名詞は、英語圏ではマリアン (Marian) とその表記を変える場合もある事と、そして、この曲はデモ・テイク時には『マリアンヌ (Marianne) 』と呼ばれていた事を。だから、煩雑を避ける為に、こちらの曲も『マリアンヌ (Marianne)』と扱うし、そう呼ぶだろう。
だが、そんな些末な事は実はどうでもいいのだ。

ふたつの楽曲の詩を読み比べれば [ここここを読めばいい]、そこに描写されている女性に共通のものを見出せるのだ。
荒波が砕け散る波濤に浮かび上がるまぼろしの女性を、それぞれがマリアンヌ (Marianne) と、呼んでいるのだ。

これをどういう風に解釈したら良いのだろうか。

たまたまの偶然の一致だろうか。それとも、両者に共通のインスピレーションを与えるマリアンヌ (Marianne) という女性が実在したのだろうか。

前者の可能性は、追求しようにも追求のしようがないので、後者について考えてみる。

マリアンヌ (Marianne) と言われて先ず思い浮かべるべきは、フランス共和国 (Republique fran?aise) をシンボライズする、あの女性である。つまりはウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugene Delacroix) が描いた『民衆を率いる自由の女神-1830年7月28日 (Le 28 Juillet. La Libert? guidant le peuple [28 juillet 1830])』である。だがしかし、彼女の属性に水は存在しない。

水の属性をもつシンボリックな象徴は、ウンディーネ (Undine) またはオンディーヌ (Ondine) と呼ばれる [彼女については既にこちらで駄説を展開している]。しかし、彼女の存在を一般的に知らしめたフリードリヒ・フーケ (Friedrich de la Motte Fouque) の小説『水妖記 [ウンディーネ] (Undine)』[1811年発表] でも、それに基づくジャン・ジロドゥ (Jean Giraudoux) の戯曲『オンディーヌ (Ondine)』[1939年発表] でも、彼女自身には名前は与えられていない。単に、前者ではウンディーネ (Undine) と呼ばれ後者ではオンディーヌ (Ondine) と呼ばれているだけだ。
いずれにしろそのふたつの創作で展開されるのは、純粋で無垢な存在である水の精が、ニンゲンの妻となり、その結果、彼女のもつ純粋さが穢されて興る、哀しい復讐譚なのである。

なお、ウンディーネ (Undine) もオンディーヌ (Ondine) も、全く同じ存在である。表記の微妙な差異は、単に彼女が登場するそれぞれの小説もしくは戯曲で書かれた言語の違いに他ならない。前者がドイツ語 (Deutsche Sprache) で後者がフランス語 (La langue francaise) だ。だから、マリアンヌ (Marianne) と同様に、これ以降、彼女の呼び名をウンディーネ (Undine) として統一させてもらう。

さて、そのウンディーネ (Undine) だけれども、ドイツ語 (Deutsche Sprache) の小説に顕わされ、フランス語 (La langue francaise) の戯曲にもなったその前後にも、それぞれに触発されて、いくつものヴァリアントが存在している。
だから、もしかしたら、この悲恋物語に触発された作品のどれかに登場する彼女は、マリアンヌ (Marianne) と呼ばれているのかもしれない。
しかし、それならばそれで、水の精としての地位を得て、マリアンヌ (Marianne) が、一般的な認知を得ていても良いのではないだろうか。

だが、マリアンヌ (Marianne) という名前の語源を調べて行くと、その遥か彼方に辿り着くある言葉がある。
それは、ステラ・マリス (Stella Maris) という呼称である。それを、字義どおりに訳すと海の星、つまりは航海時になくてはならない指標としての北極星 (Pole Star) の事であり、それはそのまま聖母マリア (Blessed Virgin Mary) の別名であると言う。
そして敢て言うまでもなく、マリア (Maria) とマリアンヌ (Marianne) の出自は同じなのだ。

この凄まじく細くも遠い途を辿ってようやく、ぼく達は水の属性の可能性を得たマリアンヌ (Marianne) に辿り着く事が出来る。
だけれども、実際問題、どうなんだろう。
いずれにしろ、カトリック (Ecclesia Catholica) の素養がないと、この途を辿る事は出来ないだろうし、それぞれの楽曲の作者達に、それが備わっているか否かは、今更に、確認の仕様もないのだ。

ただ、個人的にはこのふたつの曲目に顕われるマリアンヌ (Marianne) は、聖母マリア (Blessed Virgin Mary) でも、ウンディーネ (Undine) でもない。そんな気がしてならない。
と、いうのは、ここで唄われるそれぞれのマリアンヌ (Marianne) は、聖母マリア (Blessed Virgin Mary) の聖性とも、ウンディーネ (Undine) の純性とも無縁の様な気がするからだ。
ましてや、航海の指針であるステラ・マリス (Stella Maris) とも違う。むしろ、その逆だ。
その対極にある荒々しいもの、禍々しいものを憶い起こさせるのだ。

もう一度、それぞれの楽曲を聴き、それぞれの歌詞を読んでもらいたい。

images
ウンディーネ (Undine) や聖母マリア (Blessed Virgin Mary) とは全く異なるものが実は、ぼくの中にあるのだ。
それは、ジョン・エヴァレット・ミレイ (John Everett Millais) 描く『オフィーリア (Ophelia)』なのである。ウィリアム・シェイクスピア (William Shakespeare) の『ハムレット (The Tragedy Of Hamlet, Prince Of Denmark)』[1600年頃成立] に登場し、主人公の婚約者でありながらも、その主人公によって「尼寺へいけ (Get Thee To A Nunnery!)」と破談を申し渡され、その結果、狂死せざるをえなかった彼女だ。
彼女の屍体が流れ流れて海へと辿り着き、その過程で水へと同化して行き、そしてその行き着いた先で、ぼく達を待ち構えている、そんな気がしてならないのだ。
ジョン・エヴァレット・ミレイ (John Everett Millais) 描くこの作品を観ると、見開かれた両眼と、なにかを語りた気なその唇の気色が、その思いを婚約者に告げる事の出来ぬまま、その生涯を遂げた無念を、いずれどこかでだれかにそれを告げるに違いない。そう、思えて仕方ないのだ。
だからもし、物語の主人公の復讐劇が終演した後に、ハムレット (Hamlet) が海に向かったとしたのならば、『マリアンヌ (Marianne)』で唄われている様に、水の精と化した彼女が、彼を待ち受けている。
そんな映像が眼前に想起出来るのである。
そして、それを促すのがそれぞれの『マリアンヌ (Marianne) 』という曲なのである。

次回は「」。

附記 1. :
フィクションとしてのマリアンヌ (Marianne) の可能性をここでは追求してみた訳だけれども、実在の人物の中には、その存在はいないのだろうか。
真っ先に思い当たるのはマリアンヌ・フェィスフル (Marianne Faithfull) そのヒトだけれども、ジャックス (Jacks) 版『マリアンヌ (Marianne)』が発表された1968年とシスターズ・オブ・マーシー (The Sisters Of Mercy) 版『マリアン (Marian)』が発表された1985年では、彼女のパブリック・イメージ自体が全然違うのである。
1968年のマリアンヌ・フェィスフル (Marianne Faithfull) は、ミック・ジャガー (Mick Jagger) のパートナーにして、映画『あの胸にもういちど (La motocyclette / Girl On A Motorcycle)』 [ジャック・カーディフ (Jack Cardiff) 監督作品] の主演女優。既に、後にそのミック・ジャガー (Mick Jagger) 自身によって『シスター・ モーフィン (Sister Morphine)』と謳われる顛落の人生が始っていたのかもしれないが、それ故にこそ、スウィンギン・ロンドン (Swingin' London) の象徴であった。
一方、1985年のマリアンヌ・フェィスフル (Marianne Faithfull) はと言えば、そのドラッグ禍から奇蹟の復活を遂げ、その活動も活発化した頃なのである [復帰第一作『ブロークン・イングリッシュ (Broken English)』は1979年の発表]。
1985年の時点で、1968年の破滅へ向かいつつある彼女をテーマとしたとしても、恐らくその当時の彼女の様相が、曲の中に反映されるのに違いないのだが。

附記 2. :
勿論、どちらかの楽曲を愛聴していたものが、その影響下にあって創作のインスピレーションとなった可能性はなくはない。
しかし、時系列でみれば、ジャックス (Jacks) の『マリアンヌ (Marianne)』を聴いたアンドリュー・エルドリッチ (Andrew Eldritch) がその影響の下で、創り上げた事になる。
彼の視点から観れば、20年近くもの昔に創り上げられた、日本の楽曲を聴く事になるのだが、果たして、物理的にそんな可能性はあるのだろうか。しかも、ジャックス (Jacks) と言えば、今でも1985年当時でもそして彼らの現役時代である1968年でも、カルトであって、知るひとのみぞ知る存在なのだ。だから、もしも、そんなアーティストの楽曲を聴くチャンスが、アンドリュー・エルドリッチ (Andrew Eldritch) にあるとしたら、きっと悪魔が囁いたに違いない。
しかし、悪魔が囁く可能性が一切ないとは言い切れないのだ。1985年当時、ザ・スターリン (The Stalin) がジャックス (Jacks) の『マリアンヌ (Marianne)』をカヴァーしているのだ {彼らのライブ盤『フォー・ネヴァー (For Never)』で聴く事が出来る}。そのヴァージョンをアンドリュー・エルドリッチ (Andrew Eldritch) が聴いたとしたら ... 。
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