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2011.09.20.18.17

ほうしゃのう

武装した一団が、闇の中を歩く。なにが起きつつあるのか、なにが起きたのかは、誰も確信に至っていない。ただ、事件の核心へと近づきつつあるのは確かな事と思われる。
先頭をいくモノが気配を察し、全体を押しとどめる。そして、後方に指示を出し、ある人物の到着を待つ。
「せんせい、あれを」
不思議なものがそこにある。
指揮官に呼び出された男は無言で頷き、小脇に抱えた装置を起動させる。
手にしたマイクロフォンを、謎の物体に差し向ける。
耳障りな雑音がその装置から鳴り響く。
無言の部隊の沈黙は、こうして破られるのである。

ある時代に、映画少年とかテレビッ子とか呼ばれた世代のモノには、御馴染みの描写だと思う。
事件の発端に続き、その調査と解明にある一群が向かったシーンである。その装置がたてる耳障りな音は、いまそこに危険が差し迫っているとも、人智の及ばぬナニモノかがそこに顕われた証左とも、言える。
その装置こそが、放射能 (Radioactivity) を帯びた物体の存在を知らせる、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) なのである。

ところが、この装置がある時期を境に、物語に登場しなくなる。

放射能 (Radioactivity) と放射線 (Radiation) と放射性物質 (Radioactive Material) を渾然一体となって語る、学術的見地から観た、誤りがその原因なのだろうか。

大雑把に整理して言うと、放射性物質 (Radioactive Material) から放射されるのが放射線 (Radiation) であり、放射性物質 (Radioactive Material)放射線 (Radiation) を発するというその科学的な反応を、放射能 (Radioactivity) と言うのだ。
冒頭の文章に則していえば、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) に付随しているマイクロフォンが向けられた物体が放射性物質 (Radioactive Material)) であり、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) が拾った雑音が放射線 (Radiation) の存在を証明し、今、そこで起きている不可視の物理的現象を放射能 (Radioactivity) と呼べばいいのだ。
多分。

尤も、そんな科学的な考証によって"放射能 (Radioactivity)"の登場が否定された訳でもあるまい。
勿論、装置が小型軽量化されて、小脇に抱える程の大きさが必要でなくなったのもその理由ではない [冒頭文の様な仰々しい演出が不必要となったとしても、事件や事故の周辺地域に起きている異常事態を告げるには、あの雑音やそれに類する警告音は必要な筈なのだ、それが鳴らなければその一群の危機は彼らの背後から顕われる事になる]。

でも、実際に冒頭の様なシーンを観る事が少なくなってしまったのは、事実だと思うのだ [それとも単に、長じた結果、その手の映像作品を観なくなったせいなのか]。
なお、論旨の展開上、放射能 (Radioactivity) と放射線 (Radiation) と放射性物質 (Radioactive Material)) を区別する事なく、これ以降も一緒くたにして放射能 (Radioactivity) として記す。ご理解願います。

映画『ゴジラ対ヘドラ (Godzilla Vs. The Smog Monster)』 [坂野義光 (Yoshimitsu Banno) 監督作品 1971年制作] で、放射能 (Radioactivity) に汚染された怪獣の前に、 (Nuclear) よりも身近でより恐ろしい存在である公害 (Pollution) を象徴する怪獣が対峙したからであろうか。
文部省推薦 [当時] を受けた映画『ノストラダムスの大予言 (Catastrophe 1999)』 [舛田利雄 (Toshio Masuda) 監督作品 1974年制作] での、被爆者の描写が問題となったからであろうか。
宇宙戦艦ヤマト (Space Battleship Yamato aka Star Blazers)』 讀賣テレビ (YTV)系列 19741975年放映] で、遥か彼方のイスカンダル星 (Iscandar) へ赴いて放射能除去装置コスモクリーナーD (Cosmo-Cleaner-D) を入手したからであろうか。
地球人類同士の争いが太陽系 (Solar System) へと舞台を移したガンダム・シリーズ (The Gundam Series) [一年戦争 (One Year War) を描いた第一作『機動戦士ガンダム (Mobile Suit Gundam)』は名古屋テレビ (NBN) 系列で1979年の放映] が誕生し、これまでの、侵略者である宇宙人とそれに立ち向かう地球人という構図が壊れたからであろうか。
映画『ブレードランナー (Blade Runner)』 [リドリー・スコット (Ridley Scott) 監督作品 1982年制作] に代表される様な、核戦争後の世界、地球全体が放射能 (Radioactivity) に汚染された"近未来"を舞台にした物語が登場し始めたからであろうか。つまり、その"近未来"ではどこへ逃げようともガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) は鳴り続けてしまうのだ。
それともスポンサーの中に、電力会社や原子力関係機関が加わった結果、放射能 (Radioactivity) や被爆が物語に登場するのが、躊躇われたからであろうか。
それとも、作劇上の演出において、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) の発する雑音以上に、事態の急変を告げる効率の良い装置を見出せたのか。

真相のところは解らない。

解らないけれども、平成ゴジラ・シリーズ (Godzilla Heisei Era Series) の端緒となった『ゴジラ (The Return Of Godzilla)』 [橋本幸治 (Koji Hashimoto) 監督作品 1984年制作] の中に登場する三種類の (Nuclear) の、その存在とその描写の不整合感、物語のつじつまのあわなさはどこに起因するのだろうと、思う。

三種類の (Nuclear) とは、米ソの戦術核兵器 (Tactical Nuclear Weapon) と原子力発電所 (Nuclear Power Plant) と、そしてゴジラ (Godzilla) だ。
ここに登場するみっつの (Nuclear) は、総ておなじものではない。違うモノとして語られ、違うモノとして扱われている。
そして、その理由として、この物語の中で、既に、次の様な主張がなされている様なのだ。
ひとつは"良い核"と"悪い核"が存在する事、ふたつはその"良い"と"悪い"は絶対的なモノではなくて、相対的なモノである事。しかも、その相対性は個人的なモノに起因するのではなくて、その個人が属する集団 [国家とか組織とか] によって決定づけられている事。
"悪い核"は"良い核"を蹂躙し、"悪い核"を抹殺する為に登場する核の"良い"と"悪い"は、各国の思惑によってその判断が異なってしまう。

だから、この映画が公開される地域によって、"良い"と"悪い"の扱いが微妙に異なってくるのだ。
日本国内版では、全滅したソ連部隊から誤作動によって核ミサイルが発射されるのに対して、北米公開版ではその最後の一人によって発射スイッチが押されるというのだ。
いずれにしても、その核ミサイルは米国からの迎撃ミサイルによって、最悪のシナリオは阻止されるのだが。

当時の世界情勢と国内情勢を素直に反映した結果だとは思う。
米国の戦略防衛構想 (SDI : Strategic Defense Initiative)、通称スターウォーズ計画 (Star Wars) がロナルド・レーガン (Ronald Reagan) 米大統領によって発表されたのが1983年。映画では、この夢の様なシナリオがそのまま敷衍されて、ものの見事に成功裡におさめるのだ。

だがそれでは、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) のあの音が鳴り響くわけにはいかない。あの耳障りな音は、そこに絶対的な危機や絶対的な恐怖が間近に控えている事の顕われなのだ。しかも、それは人間社会の埒外からもたらされるものでなければならない。

この『ゴジラ (The Return Of Godzilla)』 [橋本幸治 (Koji Hashimoto) 監督作品 1984年制作] は、原点回帰を意図とし、物語の設定では第一作『ゴジラ (Godzilla)』 [本多猪四郎 (Ishiro Honda) 監督作品 1954年制作] の続編となっている。従って『ゴジラの逆襲 (Godzilla Raids Again)』 [小田基義 (Motoyoshi Oda)監督作品 1955年制作] 以降の、ぼく達にとっては馴染みの深い"人類の味方"や"正義の味方"的な要素は徹底的に排除されている。
それならば、本来のゴジラ (Godzilla) が有している"核の脅威"のメタファーがより強調されてもいい筈なのだ。

本作に続く平成ゴジラ・シリーズ (Godzilla Heisei Era Series) 以降では何度となく、原点回帰が叫ばれ、その試行が試みられた筈なのに、"核の脅威"であるゴジラ (Godzilla) は何故だか、忘れ去られている様なのだ。

ちなみに、スリーマイル島原子力発電所事故 (Three Mile Island Accident) が1979年、チェルノブイリ原子力発電所事故 (Chernobyl Disaster) が1986年だ。

でも、例えば原子力発電所 (Nuclear Power Plant) の事故を描いた映画『チャイナ・シンドローム (The China Syndrome)』 [ジェームズ・ブリッジス (James Bridges) 監督作品 1979年制作] は、そのとっくの昔にあって、メルトダウン (Nuclear Meltdown) の危機的状況を象徴する言葉「チャイナ・シンドローム (The China Syndrome)」は未だに有効なのだ。誰がいつどの時点で言及したかは定かではないけれども、今回の福島第一原子力発電所事故 (Fukushima Daiichi Nuclear Disaster) の際ですら、「チャイナ・シンドローム (The China Syndrome)」という言葉は登場しているのだ。
"核の脅威"の役割は、原子力発電所 (Nuclear Power Plant) の事故に限っていえば「チャイナ・シンドローム (The China Syndrome)」が引き受けているのかもしれない。

ゴジラ (The Return Of Godzilla)』 [橋本幸治 (Koji Hashimoto) 監督作品 1984年制作] では、"悪い核"であるソ連の核ミサイルを在日米軍から発射された迎撃ミサイルが撃墜する事の余波として、都心は大停電に陥る。ゴジラ (Godzilla) に襲われて破壊された井浜原子力発電所 (Ihama Nuclear Power Plant) といい、電力供給源としての"良い核"は、いつでも被害者として描かれている。
この構図は図らずも、福島第一原子力発電所事故 (Fukushima Daiichi Nuclear Disaster) の原因を津波に求めようと謀るヒトビトの口説とどこか似ていないだろうか。

と、こんな風に現実と虚構を横断し、それぞれを類推していけば、いくらでも、興味深い現象を導き出す事が出来るし、立場が異なれば、全く違う結論さえ導き出す事も出来る訳だが。

さて。

ここまで書いて来て、この記事の向かう先をどちらに定め、どちらに舵をきるべきなのか、実は悩んでいる。
だから、無様にもこの駄文はここで中断される事になるのだ。

ただ言えるのは、繰り返しになるけれども、冒頭に記した様なガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) のシーンは、とっくの昔に無効となってしまったと言う点だ。
事故発生現場や事件発見現場に赴かなければ、それまでその雑音を聴く必要はなかった。
謎の巨大生物の痕跡や宇宙からの飛来物に出逢わなければ、無用の存在だったのである。

だからと言って、ガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) の存在そのものが無効になった訳ではないし、それ以上に、それはぼく達の日常に深く入り込んで来てしまっている。
これから語られる物語の中で、それの新しい位置づけや役割や描写は、何れ産まれてくる事だろう。

逆に言えば、"臭いものに蓋"的に、あらかじめ存在しないものとして扱って欲しくはないのだ。
少年や少女を主人公とした成長の物語にも、恋愛をテーマとした物語にも、現在を舞台背景に選べば、否応なく、それは物語のどこかに潜んでいて、場合によっては重要な役回りを司る可能性もある筈なのだ。

と、同時にかつてのガイガー・カウンター (Geiger-Muller Counter) が果たして来た役割を引き受ける新たなモノの登場も予感させる。
今そこにある危機や、これから起こるであろうカタストロフを予見させる装置は、ある種の物語には、絶対に必要な筈なのだ。
その危機やカタストロフが、謎の巨大生物の痕跡や宇宙からの飛来物以外のモノによってもたらされるとしても。

images
クラフトワーク (Kraftwerk) のアルバム『放射能 (Radioactivity)』 [1975年発表] 発売時に行われたツアー告知ポスター (An Add For The Three Concerts In The Uk In October 1976 From A British music magazine.)。
"Radioactivity Is In The Air"

次回は「」。

附記 :
旧聞になってしまうのだけれども、例えば野田佳彦内閣 (Noda Cabinet) 組閣直後に起きた、経済産業大臣 (Minister Of Economy, Trade And Industry) の交代劇だけれども、その起因にとなった鉢呂吉雄 (Yoshio Hachiro) の失言「放射能をつけたぞ (I'll give you radiation)」を「被災者の心情に配慮を欠いた不適切な言動」と捉えるのは、どうかと思う。
勿論、彼の発言とその行為は、地域住民や被災者の神経を逆撫でするものであるし、その点は批難に値すべきものだ。発言した本人とその関係者はきちんとその責めを負うべきものだと思う。
しかし、ぼくはそれ以前の問題であると思うのだ。
例えば、彼が屎尿処理施設を視察した後に「昨夜の残飯」と言いながら己の防災服を報道関係者になすり付けようとしたらどうか。
例えば、彼が屠畜場を視察した後に「牛のうんち」と言いながら、己の防災服を報道関係者になすりつけようとしたらどうか。
なお、ここまで読んできて放射性物質 (Radioactive Material)) や放射線 (Radiation) 被爆物を「昨夜の残飯」とか「牛のうんち」と一緒にするとはなんだ、けしからん、と思われる方も居るかもしれない。
しかし、地位や立場や職種が異なれば、「昨夜の残飯」を放射性物質 (Radioactive Material)) と比較するなとか、「牛のうんち」を放射線 (Radiation) 被爆物質と同等に扱うなとか、思う方々もいる筈なのである。拙速なクレームを付ける前に、踏みとどまってもう一度、考えてみて欲しい。
いや、ぼくの言いたいのはそおゆう事ではない。
彼の行為を「被災者の心情に配慮を欠いた不適切な言動」と捉える以前に、あれは幼いこどもが「えんがちょ」している様な痴れた行為に過ぎない、と言いたいだけなのだ。そんな行為を批判するのに、地域住民や被災者を引っぱり出す程の事でもないと思うのだ。
そんな幼い戯けた行為をする人間は、指導者として相応しいか否か、そおゆう論点で、本来は語るべきモノではなかっただろうか。
それで充分に、大臣としての資質をもつや否やを糾弾出来る筈なのだ。
地域住民や被災者の心象を慮る事は必要にして充分に考慮すべき事ではあるのだけれども、だからと言って、そこに総ての、原因や問題や責任の所在を求めるのは如何かと思う。
ひとつには思考停止を誘い、ひとつには自由な思考や発言を疎外し、さらに言えば風評被害的な似非やデマも横行させる、その遠因となるに違いないのだ。
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