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2011.09.13.18.07

ざっへるまぞっほ

マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) と彼の著作からサディズム (Sadism) という呼称が産まれた様に、マゾヒズム (Masochism) という呼称は、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) と彼の小説『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] から産まれた。
そのどちらもが『性の精神病理 [変態性慾ノ心理] (Psychopathia Sexualis)』 [1866年初版発表] の第6版 [1886年発表] においてリヒャルト・フォン・クラフト=エビング (Richard Freiherr von Krafft-Ebing) によって命名されたのである。

下世話な似非SM小説と言うと、二重にも三重にも侮蔑的な表現なのかもしれないが、その大半の物語の構造は、性的には無知で無垢な主人公が、あるきっかけで性的な修錬 (Discipline) を経て、サディスト (Sadist) もしくはマゾヒスト (Masohist) としての己の本性に次第に開眼していくというものである。
先程"下世話な似非SM小説"と貶めておきながら、実はこの構造は古典的な名作である、『O嬢の物語 (Histoire d'O)』 [ポーリーヌ・レアージュ (Pauline Reage) 作 1954年発表] にも『家畜人ヤプー (Yapou, betail humain)』 [沼正三 (Shozo Numa) 作 1956年発表] にも、観出す事は出来る。

しかし、世界最初のマゾヒズム小説 [敢て言えば] である『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] は、その咎から自由であると同時に、さらに複雑な構造を持っている。
それは、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) が、物語の主人公であるゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) そのままに活きたから、もしくは主人公ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) がレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) そのままに描かれたからである。

では、『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] は、小説に仮託した自伝なのかというと、そおゆう単純なものではない様なのである。

彼自身の経歴は松岡正剛の『千夜千冊 放埓篇第586夜に詳しいものがある。

大学教授であった25歳の彼は、ある医者からその妻を略奪愛してしまうが、その女性を自称ポーランド人である詐欺師に奪われてしまう。その後、男爵夫人を名乗る女優バグダノフ男爵夫人ことファニー・ピストール (Baronin Bagdanow aka Fanny Pistor) と恋に堕ち、フィレンツェ (Firenze) に出奔、その地では数人の女性と恋愛契約を交わして情事を愉しむのだ。

レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) とバグダノフ男爵夫人ことファニー・ピストール (Baronin Bagdanow aka Fanny Pistor) のフィレンツェ (Firenze) 行と、そこでの情事は『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] でも、そのまま踏襲されて描写されている。
では、バグダノフ男爵夫人ことファニー・ピストール (Baronin Bagdanow aka Fanny Pistor) がその小説のヒロイン、ワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) なのかというと、それが必ずしもそうだとは断言出来ない事態が現出する。

毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] が刊行された同年、小説のヒロインであるワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) と同名のワンダ・フォン・マゾッホことアウローラ・リューメリン (Wanda von Sacher-Masoch aka Aurora von Rumelin) が顕われ、『ワンダの告白 (Meine Lebensbeichte)』 [1906年発表] を発表するのだ。
そこでは彼との出逢いから、彼による女王としての修錬 (Discipline)、そして"ギリシア人 (Griechen)"の登場による破局までが語られているのである。

現実が小説という虚構を産み出して、その虚構が新たな現実を産み出したのであろうか。いや、そもそもが現実と虚構の二律背反で語り尽くされる程の、単純な物語なのであろうか。

ここまで読んできて解る様に、25歳のレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) から愛人を略奪した自称ポーランド人である詐欺師を皮切りに、己の正体を虚々実々に語る、仮想と現実を横断する人物達が、作家の周囲に横行しているのである。
昼の顔と夜の顔、差し出された名刺にある肩書きとその実際、現実に存在するヒトビトとそれを投射した作中の登場人物。

騙されてはいけない。
この小説を翻訳した種村季弘 (Suehiro Tanemura) が、アレッサンドロ・ディ・カリオストロ (Alessandro di Cagliostro) やカスパール・ハウザー (Kaspar Hauser) といった、如何わしくも謎多き人物達の紹介者であるのは、偶然の一致なのだ。

小説は語り手が観た、ある夢から始る。そして、その夢が実体化したものを現実の場で発見してしまうのだ。それが"毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)"像であり、その像の据えられた邸宅の主が、物語の主人公ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) なのである。
しかも、彼は語り手にこう語りかけるのだ。
あなたが観た夢は、わたしにとって現実の出来事だったのです、と。
ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) が語り手に手渡したのが、『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』という告白本なのである。

ここまでは、よくある枠物語 (Frame Story) の域にあるだけなのかもしれない。
千夜一夜物語 (The Book Of One Thousand And One Nights)』 [リチャード・フランシス・バートン (Richard Francis Burton) 訳 1885年発表] も『カンタベリー物語 (The Canterbury Tales)』 [ジェフリー・チョーサー (Geoffrey Chaucer) 作] もそうである様に、『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス (Frankenstein: Or The Modern Prometheus)』 [メアリー・シェリー (Mary Shelley) 1818年発表] も『嵐が丘 (Wuthering Heights)』 [エミリー・ブロンテ (Emily Bronte) 1847年発表] も『ねじの回転 (The Turn Of The Screw)』 [ヘンリー・ジェイムズ (Henry James) 作 1898年発表] もそうなのだ。なんならば『吸血鬼ドラキュラ (Dracula)』 [ブラム・ストーカー (Bram Stoker) 作 1897年発表] を加えてもいいかもしれない。
ひとつの虚構がもうひとつの虚構に放り込まれる事によって、現実にはあり得ない筈の物語が、不意に、迫真的な真実さを伴って、顕われるのだ。
「今は昔 (Once Upon A Time)」とか、「昔々あるところに (A Long Long Ago)」とか、冒頭にその一語が加わる事によって生じる、語り手が担うべき責任の放棄とは、逆のものだ。
「これから語る物語は、わたしがかつて某氏から聴いたものだ」
「わたくしが某所で入手した古ぼけた手記には、驚くべき事実が記されていた」
「某氏の手紙には信じ難いその事件の意外な顛末が綴られていた」
語り手が、これから語るであろう物語の、その情報源と入手経路を詳らかに物語れば物語る程、その情報源の信用性が確保されていくのである。

しかし、『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] は、それだけではないのだ。

images
そもそも、タイトルの『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』とは、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート (National Gallery Of Art) に収蔵されている『鏡を見るヴィーナス (Venus With A Mirror)』 [ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (Tiziano Vecellio) 画 c. 1555] の事なのである。かねてから、その様に呼ばれていたのか、それとも、この小説の発表によってそう呼び習わされる様になったのかは定かではない。けれども、いずれにせよ『毛皮のヴィーナス (Venus In Furs)』という通称で、まかり通っているのがこの絵画なのである。

その複製画の獲得から、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) の告白本『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』は語られ始める。

そして、その複製画がふとした弾みである未亡人の手に渡った事によって、物語は動き出すのである。

ヒロインであるワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) は、複製画の中のヴィーナスと同じ姿で、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) の前に顕われたのだ。

この場面のワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) が複製画からの三次元化、つまり、オリジナルからのコピーのコピーである事を憶えておいて欲しい。あとでまた、登場する。

ここから、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) とワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) の支配と服従、調教と隷属、女王と奴隷の契約が成立するのだが、これが様々な局面で、逆転した構図を描いて行くのである。
情事の場面では、ワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) は女王として振舞いそれに傅くのがゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) ではあるのだが、その関係を強要するのは、常にゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) の方なのだ。打擲され蔑まれ虐げられる奴婢が、実は真の支配者であるのだ。女王は、彼の欲望を満たす為に蠢く装置でしかない。

[だから、マゾヒスト (Masohist) の最高の快楽は、彼もしくは彼女の側にいる人物が、なにもしない事ではないだろうか]

ワンダの告白 (Meine Lebensbeichte)』 [1906年発表] にもそれと同様のものが記述されていると言う。
レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) はワンダ・フォン・マゾッホことアウローラ・リューメリン (Wanda von Sacher-Masoch aka Aurora von Rumelin) と物語同様の契約を交わした後に、嫌がる彼女に女王として超然と己に対峙する様に要求したというのだ。

レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) は、己の設定による虚構の主従関係を、小説としてそのまま描くと同時に、現実の性生活においても敷衍させようとしたのである。この場合、小説が先か現実が先かを争うのは無意味だ。何故ならば、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) でもあるレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) は、ふたつの世界を同時に活きて、物語の中のワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) にも現実の世界のワンダ・フォン・マゾッホことアウローラ・リューメリン (Wanda von Sacher-Masoch aka Aurora von Rumelin) にも、打擲される事を望んだからである。
レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) は、ふたつの世界の創造主であると同時に、そこで演じられる物語の演出者でも支配者でもある。しかし、その物語の中に登場するレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) 本人は、隷属者でも被支配者でもある奴隷に過ぎないのだ。

そしてこの関係は、この物語で語られるふたりの行為が、次第に濃密なものとなっていき、その行き着く果てに第三者を巻き込む事によって、破綻を生じる。しかも、その破綻は、現実の中でも小説の中でも、全く同様のものとなって顕われるのだ。
だが、果たしてそれは、現実が先なのか、それとも、小説が先なのか。その真相は、皆目持って検討が着かないのだ。
もしかすると、ふたつの世界で生じたその破局すらも、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) 自らが作・演出を行ったものかもしれない。そんなありえもしない解読すら可能なのである。

[もしかすると、マゾヒスト (Masohist) の最高の快楽は、彼もしくは彼女の支配者を奪われ、永遠に喪う事にこそあるのかもしれない]

ところで先に書いた様に、『鏡を見るヴィーナス (Venus With A Mirror)』 [ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (Tiziano Vecellio) 画 c. 1555] がオブセッションとして物語を牽引して行く訳だけれども、それと同様に通奏低音 (Basso Continuo) として語られるのが次の言葉だ。

『汝はすべからく、叩かれる鉄床となるか、それとも叩く鉄槌となるか (Du musst Amboss oder Hammer sein / You must be Anvil or Hammer)』

この台詞は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の有名なことばの引用であると、紹介されているのだけれども、それにも関わらずに、出典が不明なのだった。

こちらの記事で『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] を典拠とした写真『毛皮のヴィーナス (Charlotte Rampling As Venus In Furs)』 [撮影:ヘルムート・ニュートン ( Helmut Newton) 被写体:シャーロット・ランプリング (Charlotte Rampling) 1973年発表] へのオマージュを掲載しているのだけれども、その際も、この文章の原文を検索し掲載しようと試みたが、叶わなかった。
そもそもがぼく自身の独語読解力の拙さに起因するのだろうけれども、少なくとも手がかりさえあれば大抵の語句は、日本語訳からでも、原文なり出典なりへと到達する事が出来るのだ。
だから、『鏡を見るヴィーナス (Venus With A Mirror)』 [ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (Tiziano Vecellio) 画 c. 1555] が『毛皮のヴィーナス (Venus In Furs)』という通称がある様に、この文章自体も、物語の中で語られる事によって、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の有名なことばへと昇華したのではないだろうか、とさえ思えてしまう。
それが今回、この駄文を綴るにあたって再調査した結果、ようやく原文というものが判明した。しかも、そのヒントはテレビ・シリーズ『プリズナー No.6 (The Prisoner)』 [1967年制作] 第10話『No.2旗色悪し (Hammer Into Anvil』にあったのだ。このタイトルそのものがヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の有名なことばの引用である上に、その物語の中にも重要な影を成しているというのだ。
つまり、ぼくはコピーのオリジナルを捜している過程で、別のコピー、さもなくば、そのコピーからのコピーを発見したという事なのだ。しかもそこからようやく、オリジナルの原文に辿り着いたのだ。
試みに検索エンジンで「Du musst Amboss oder Hammer sein」を検索してみると、その結果の上位には『プリズナー No.6 (The Prisoner)』 [1967年制作] に関する記載が登場する筈だ。つまり、ネット上ではヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の有名なことばであるより前に『プリズナー No.6 (The Prisoner)』 [1967年制作] に関係する語句としてあるのだ。
なお、そこまで辿り着きながら、未だにその出典は不明なのだ。ある記事によれば、『毛皮を着たヴィーナス (Venus im Pelz)』 [1870年発表] と『若きウェルテルの悩み (Die Leiden des jungen Werthers)』 [ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) 1774年発表] の相似形を指摘しているから、もしかしたらヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) の有名な青春小説がその出典なのかもしれない。

次回は「」。

附記 1. :
ここにはもうひとつの大事なオブセッションとして"ギリシア人 (Griechen)"が登場する。現実の世界にも小説の中にもその"ギリシア人 (Griechen)"は登場して、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ (Leopold Ritter von Sacher-Masoch) からはワンダ・フォン・マゾッホことアウローラ・リューメリン (Wanda von Sacher-Masoch aka Aurora von Rumelin) を、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) からはワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) を略奪してしまうのだけれども、"ギリシア人 (Griechen)"とはなにかを説明するのは、難しい。
ヨーロッパの文明の中でのギリシア文明が成した役割とか、ナチズム (Nationalsozialismus) を用意させたアーリア人 (Aryan Race) 信仰を考慮しなければならないのだろうか。それとも、晩年の三島由紀夫 (Mishima Yukio) を駆り立てた肉体美への傾倒の様な、知識人が内在しているコンプレックスの顕われなのだろうか。

附記 2. :
恋愛をするにあたって事前に契約書を交わす、もしくは契約書に従って恋愛を行うという一見奇異な行動は、ぼくには学生時代に習った沼正也の民法を憶い出させる。
通称、沼民法と呼ばれるそれは学会においては異端とみなされていて、法曹界や官僚を目指すモノは無視もしくは拒否するべき学説だった。ただ、ぼくの通った大学のその学部では、民法の講義は必修科目の上にクラス割でその受講が指定されていたから、同じ学年の何割かは渋々嫌々、沼正也教授の講義を受講せざるを得ない羽目に陥るのだ。しかも、国家試験等では民法が必修科目である為に、完全に自習独学をするか、他の民法の教授の講義に潜り込む事を要求されるのだ。
その結果、自ずと沼正也教授の講義は閑散としたものになるのだけれども、異端は異端とされているがために妖しい魅力をふりまいていて、学年の数少ないものはその学説に魅了されていく。毎年度、三四年の二年間の受講を義務づけられる各教授によるゼミナールは、講義内容や教授によっては定員割れを来すものもある中で、沼ゼミはきちんと定員を確保していたと記憶している。受講するゼミナールによってはその後の就職先にも反映される場合もあるので、冗談半分かなにかで沼ゼミを選択するものはいないと思う。
さて、肝心の沼民法だけれども、ぼくが把握している大雑把なものは次の通りだ。
民法はその構成上、総則・財産法・家族法に分類される。そして通説は、財産法と家族法の二元構成を指摘し、それぞれが異なる規範の体系を構築する。その上で、そのふたつの規程を統括する役割を総則に求める。つまり、所有権や債権の帰属やその譲渡は、親族間の規程やそこから派生する相続の問題には馴染まないとするのである。逆もまた真なりだ。
しかし、沼民法は、それを否定する。総ては一元的に民法というシステムを構築するとするのである。沼民法によれば、その体系はA対非Aの構造、つまり鏡面に映し出された逆転の構図となって顕われるというのである。
つまり、通説によれば作品中でゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー (Severin von Kusiemski) とワンダ・フォン・ドゥナーエフ (Wanda von Dunajew) が交わした恋愛契約は法的には無効となるのだが、沼民法に準拠すれば、認められうるのかもしれない、と言う事なのだ。
だから、『家畜人ヤプー (Yapou, betail humain)』 [沼正三 (Shozo Numa) 作 1956年発表] の作者の正体が隠匿されていた時代に流布していた、作者は某大学某法学部の教授という噂の出自は、沼民法なのかしらと、ぼくは怪しんでいたのである。
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