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2011.09.06.18.03

ぐれごーるざむざ

言わずと知れた、フランツ・カフカ (Franz Kafka) の小説『変身 (Die Verwandlung)』 [1915年発表] の主人公の名前、それが、グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) である。
同名のバンド、グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) も存在するが、それについては今回は書かない。とは言っても、そのバンド名自身が、『変身 (Die Verwandlung)』 [1915年発表] の主人公の名前に由来するのだから、いずれにしてもその本質的なものには触れる事になるのかもしれない。

この小説と、その主人公が有名なのは、作品自体の質によるよりも、むしろその量なのである。新潮文庫では、わずか定価340円で買える。
その価格とそれを裏付ける薄さの上に、「ある朝、不安な夢からふと覚めてみると (awoke one morning from uneasy dreams / eines Morgens aus unruhigen Traumen erwachte」というショッキングな冒頭が加わるのである。決して逆ではない。
だから、この時季、遅れて提出する羽目に陥った、夏休みの宿題の読書感想文としてやっつけるのには、丁度、よい頃合いなのである [だからと言って、偶然このサイトに辿り着いたきみは、これ以降の駄文をそっくりそのまま引き写そうとは考えない様に、無茶だよ]。

もしも、 (Ungeziefer) に変身してしまったグレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) の生涯が、『カラマーゾフの兄弟 (Brat'ya Karamazovy)』 [フョードル・ドストエフスキー (Fyodor Dostoyevsky) 1879年発表] 並のヴォリュームを持っていたとしたら、現在の様な知名度を得ていただろうか。

と、いうのも、「ある朝、不安な夢からふと覚めてみると (awoke one morning from uneasy dreams / eines Morgens aus unruhigen Traumen erwachte」己が別のモノになっていた、という設定だけが、この物語の主眼であり、この後に語られる物語はその後始末に終始するだけなのである。
嘘だと思ったら、「ある朝、不安な夢からふと覚めてみると (awoke one morning from uneasy dreams / eines Morgens aus unruhigen Traumen erwachte」別のモノになった物語がこの後に数限りなく登場した事を憶い出せばいいのだ。

例えばそのヴァリエーションのひとつとして、今様『とりかへばや物語 (Torikaebaya Monogatari : If Only I Could Exchange Them!)』的な、ふたりの人物のこころと躯が入れ替わってしまう物語や、ふとした弾みで記憶喪失 (Amnesia) となって己がナニモノだか解らないという物語や、海難事故で何処とも知れぬ無人島 (Desert Island) に辿り着いたという物語も加えてもいいのかもしれない。
もしかしたら、これを読むあなたはそれは全然違うテーマでしょうと、言われるかもしれないけれども、今まで己のモノとして内在化させてきたモノモノの、一切合切を奪われて、新たな環境を理不尽にも与えられてしまうという意味では、同じテーゼなのだ。

閑話休題。

元来、フランツ・カフカ (Franz Kafka) という小説家の語る物語の殆どが、物語の基本設定にのみ擦り寄った作品ばかりなのである。その基本設定を語り終わり、基本設定が充分に機能を果たした時点で物語は、終焉を迎える。
しかし作品によっては、本来ならば、その基本設定を語り終えた時点で、登場人物なり、その舞台設定なりも役割を終えている筈にも関わらずに、彼らやその場所は物語の中にとり遺されたままになっている。彼らやその場所は、その本来の物語が終えた時点から、ナニカを始めなければならないのだ。
むしろ物語冒頭で、既に終わっってしまった物語が、そこにある場合すらあるのだ。
さらに加えると、だからと言って、先程終了したばかりの基本設定を際限もなく繰り返す訳にもいかず、しかも、その応用問題すらも呈示されていないのだ。
それが、フランツ・カフカ (Franz Kafka) という小説家に未完成の作品が多い所以であり、その一方で、その物語のあり方が、物語世界で完結せずに、現実のぼく達の生活にねっとりと滲み出してくるのである。
つまり、一言で断定してしまえば、それが不条理 (Absurditat) というモノなのだ。

変身 (Die Verwandlung)』 [1915年発表] でも、同じ事が言える。
(Ungeziefer) になってしまったグレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) にとって、彼が選び得るその選択肢は、僅かに過ぎない。
大雑把に二者択一 (Two Alternatives) で呈示してみれば、人間であるグレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) としてあくまでも活きて行こうとするのか、それとも、 (Ungeziefer) としてのグレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) の新しい生を追い求めるのか、だ。

グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) がさっさと、ふたつの可能性のいずれかを選んでしまえば、もう少し異なった物語になったのかもしれない。

だが、彼はそのいずれも選択出来ない。 (Ungeziefer) の姿のまま、自室に引き蘢る事しか出来ないのだ。
だから、グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) の運命は、彼の中にある逡巡と躊躇によって明快な意思決定がなされないままに、彼と同居している家族の意志が常に先行し優先されて、様々なモノごとが決定されていく。そして、彼は既に決定された家族の意志に逆らえぬままに、それに順応する事が己の使命であるかの様に、活きて行くのである。
この様にして、この物語は急な下り坂を転げ落ちる様に、まっすぐまっすぐに結末へと向かって行く。しかも、その結末はぼく達読者が「ある朝、不安な夢からふと覚めてみると (awoke one morning from uneasy dreams / eines Morgens aus unruhigen Traumen erwachte」という冒頭を読んだ最初にし想定した、まさにそのものの結末なのである。

ヒトやそれに類するモノがその己以外のものに変身するという物語は、古代から数多く語られて来た。
事例ならいくらでもある。オウィディウス (Publius Ovidius Naso) の『変身物語 (Metamorphoses)』 を引っ張り出してもいいし、好みの女性を発見するや否や、その時々に応じてあらゆるモノに変身して己の思いを遂げる好色なゼウス (Zeus) の物語を憶い出してもいいし、悪い魔法使いによって蛙に変身させられた王子の物語 (Der Froschkonig oder der eiserne Heinrich) だっていい。
しかし、そこで語られる変身は、喪失と獲得の物語に過ぎない。地位や名誉や財力を喪う代わりに得るナニカだったり、ナニカを喪って変わる結果として得る能力や体力や智力なのである。その費用対効果 (Cost Effective) がプラスになれば喜劇だけれどもマイナスになれば悲劇になるのである [もしかすると逆かもしれない]。

ヒト本来に潜む変身願望 (Obsession With Changing One's Appearance) が、望ましい方向へと実現したらどうなるのか、それとも、畏れている方向へと実現したらどうなるのか、その思考実験にすぎない。
しかも、変身願望 (Obsession With Changing One's Appearance) はある特殊なモノどものみに潜んでいるものではない。
そらをじゆうにとびたいな」という夢を実現させてくれるタケコプター の代わりに、鳥の様な翼が欲しいと考える様なものだから。ヒトが抱く様々な欲望を実現する為の、シミュレーション機能 (Simulation) が変身願望 (Obsession With Changing One's Appearance) と考えた方がいい。
つまり、だれでも、あなたでも、持っているものなのだ。

だが、『変身 (Die Verwandlung)』 [1915年発表] 登場以降、変身譚はこれまでと異なる装いを示す様になる [読書感想文としては、この装いがなにかをきちんと書けていれば及第点をもらえるのに違いない]。
だから、パロディ (Parody) やパスティーシュ (Pastiche) も含め、ありとあらゆる「ある朝、不安な夢からふと覚めてみると (awoke one morning from uneasy dreams / eines Morgens aus unruhigen Traumen erwachte」別のナニカになってしまった己を発見する物語が、これ以降、様々な物語作者によって語られ始めたのである。
己が己でなくなる事によって己自身を発見するという物語と、己でなくなってしまった己を他者はどの様に認識するのかという物語、恐らく、この二本立てのいずれかに、それらの物語はなるとは思うのだけれども。

だけど、ぼく達はもういい加減、そんな物語には食傷しているのだ。
いっその事、己自身だけが (Ungeziefer) である事を知っていて、周囲のモノは未だに相変わらずのグレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) として接する、その違和感を描いてはどうだろうか。

それとも、それは単に『罪と罰 (Pryestupleniye i nakazaniye)』 [フョードル・ドストエフスキー (Fyodor Dostoyevsky) 1866年発表] の主人公ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ (Rodion Romanovich Raskolnikov) の様な、一方的な自己認識と世界観を描く事になるのだろうか。
つまりは、己の飽く事なき野望と、それが立ち向かう現実との乖離に、押しつぶされてしまうモノの哀れな物語となって。

次回は「」。

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虫になったらよろしく
虫 (Mushi)』 by ザ・スターリン (The Stalin) 告知フライヤー [画:丸尾末広 (Suehiro Maruo)) 1983年発表]
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