fc2ブログ

2011.08.30.17.58

らぴっどあいむーぶめんとすりーぴんぐ

闇の中でなにかが囁く。

もうおわりだよ。

そんな得体の知れない言葉に驚かされて、跳ね起きるとベッドの中にいる。
ことばの余韻に怯えながらあたりを見回してみると、そこには眠る前にあった日常がそのままある。
部屋の中の調度も、眠る前の記憶のままだし、同居人もぐっすりと眠っている。
朝はまだだった。
ふと、目覚ましを観ると、そんなに時間が経っていないのに気づく。

一体、なにがおわりだと言うのか。あの声はだれだったのか。そのおわりはこれから訪れるのか。それともすでにおわってしまったのか。

ただ解っているのは、そのことばはなぜだかおそろしく、そのおそろしさを反復するたびに、ぼくの胸は昂り、息は荒くはやまっている、その事だけだ。

夢を貪る彼女を起こして一笑にふされるか、さもなければ、その肢体に腕を這わせれば、もう少し、たしかなものが解るのかもしれない。

しかし、何故だか、それは躊躇われる。
とてつもないおそろしいことが起こるのかもしれない、絶対にありえないことがおきるのかもしれない。
そんな気がしてしかたない。
彼女のたてる寝息は、いつもの彼女のままなのに。

ぼくは朝がやってくるまで、身じろぎも出来ずに、そうして待っている。
ほんとうにおわりなのか。
なにがおわりなのか。
すでにおわりなのか。

上に記したのは、ぼくが観た最も怖い夢だ。
このつづきをそのまま綴っていくべきなのかもしれないけれども、観た夢を綴るシリーズは、別枠で既にこちらでやっている。
だから、少し違った角度から書いてみる事にする。

夢というものをぼく達はいつ知ったのか。
夢と現実という二項対立が存在して、ぼく達の生活や日常は、その片方の側にしかない、そんなごく当たり前の認識は、一体、いつ芽生えたのか。

それは、なんだかわけのわからない理由で泣きじゃくっているぼく達を、その親達がなだめすかしたからだろうか。
「あれは夢だよ。怖くないよ」
そうやって、少しづつ、本来はひとつながりの世界の間に、大きな壁を構築していったのだろうか。

しかし、"夢"を観てその夢に怯える我が子をなだめるのと同じ手法で、"現実"から眼をそらせようと躍起になる親達がいるのも事実なのだ。
「あれは夢だよ。怖くないよ」
そう言って、己の犯した罪や己の性行為や、これから起きる惨劇を、我が子から隠匿しようと躍起になるのも親達なのだ。

荘子 (Zhuangzi) の『胡蝶の夢 (The Dream Of The Butterfly)』については語らない。
あれはもう手垢にまみれているし、美しい幻想譚にも、見苦しい現実逃避にも、いずれの立場でも語る事が出来るのだから。
ご都合主義の夢物語にすぎないのだ。

夢物語と言えば、夢オチと言い習わされている類型がある。
波瀾万丈だったり危機一髪だったりの窮余から主人公を救い出す、それこそご都合主義の物語だ。
邯鄲の夢』とか『一炊の夢』とか呼ばれるあの説話も、その中に入るのかもしれない。
どちらにしても古式ゆかしいその語り口は、現在では殆ど顧みられない方法論と化しているし、もしもその手法を導入するとしたら、余程に巧妙に語りきらないと、さんざんな眼にあってしまう。

[ここでその最たる例を紹介しようと思ったけれども、ある作品のその結末が夢オチであると語る事は、ネタバレ以上でもそれ以下にもならないから、ここではしない。最低限の礼儀はわきまえるべきだろう]

だから今、夢オチ的な物語を語るとするのならば、一切合切を夢という一言で斬り捨てたとしても、その夢物語は再びぼく達の前に顕われてくる、そんな語りかけに終始する事になるのだ。

一切が夢の中にしかあり得ない筈の不思議な世界へと、何故、アリス・リデル (Alice Liddell) は再び向かわねばならなかったのか。
底なしの穴の代わりに、鏡が果たす役割をぼく達は知るべきなのだろうか。

[ここでぼくは、夢が重要なメタファーとなっているシュルレアリスム (Surrealisme) を語るべきなのか、それとも、幾重にも重なる夢を彷徨うヤン・ポトツキ (Jan Potocki) の『サラゴサ手稿 (Manuscrit trouve a Saragosse)』を語るべきなのか]

夢の回廊に独り分け入る前に、夢野久作 (Yumeno Kyusaku) の綴る巻頭歌 (Prefatory Poem) に返歌を遺しておこう。

ははよ
ははよ
何故畏るる
孕む前のその児とともに
夢観る夢に惑わされるのか

レム睡眠時 (Rapid Eye Movement sleeping) 時にひとは夢を観るという。
ならば、観る意思を放棄した脳髄の支配から逃れて、眼窩の中に蠢く眼球は、ひとりの胎児ではないだろうか。
つまり、ぼく達は彼の観る夢をそのまま追体験しているのに違いない。

images
『眼球譚 (Histoire de L'oeil)』 by ハンス・ベルメール (Hans Bellmer)

次回は「」。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/702-5871c85a

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here