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2011.08.16.21.20

かがいしゃとひがいしゃ

1970年代のその前半に圧倒的な存在感を顕示していた漫画家の一人に真崎・守がいる。1980年代以降、活動の場所をアニメーションの世界に移してしまったから、漫画家としては半ば忘れられた存在かもしれない。
ぼくは、週刊少年チャンピオン (Weekly Shonen Champion) の全盛期の一時代である1976年に連載された『エデンの戦士』 [原作:田中光二] で間にあって、そこから遡る様にして、彼の作品群に出逢える事が出来た。
その作品の連載が終了してしばらくすると、彼の撰集が出ていたのである。

殆どの作品は、立ち読みで読破した。馴染みの書店に足げく通った結果でもあるし、その書店の管理の甘さのおかげでもある。少年誌や少女誌に掲載された作品の単行本は、当時も現在と同様、ビニール・コーティングされていたのに対して、青年マンガの単行本や文庫化された作品は、全くのノー・マークだった。
その為に、エロ劇画誌から出て来た新進漫画家の作品や、所謂ガロ系の作品や、1970年代後半に既に名作と断定されていた劇画系には、簡単に出逢えたのである。

そんな形で出逢った真崎・守の作品群のひとつに、『共犯幻想』がある。原作を斎藤次郎が担当し、1972年から1973年にかけて週刊漫画アクション (Weekly Manga Action) で連載された作品だ。
その撰集では三分冊になる大作である。その後、様々な形で復刻された様だけれども、現在では入手困難の模様だ。

先程、殆どの作品は、立ち読みで読破したと書いたけれども、何故だか、この作品は購入した。多分、家捜しすれば、埃まみれで再会出来るだろう。

立ち読みで済ませた筈の作品を何故、買い求めたのかというと、実はどうしようない、思春期特有の理由があるのだけれども、ここには書かない。

その代わりにこう記しておく。
作品の至る所に、まるで喉元の小骨の様に、こころの片隅にひっかかって外す事が出来ない、いくつもの台詞の断片があり、その台詞を支える映像表現がさらに深くこころの喉元に突き刺さるのだ。
と、いう事にここではしておこう。

当時の学生運動の余波を背景にして、母校の時計台に籠城した四人の高校生の物語である。その時計台陥落前夜、四人は己が何故、ここに至ったのかを、語り出す。そのそれぞれの理由は、反体制とか異議ありとかいう場当たり的なスローガンとは全く異なった、個人的な、内面の体験が契機にあった。それが彼らがこの時計台に籠城する事となった、それぞれのテーゼなのだ。
四人がそれぞれの過去を語り終えたその時に、現在が顕われて、彼らの時計台は警察によって鎮圧、四人は補導される [未成年だからね]。
補導された四人に対し、家庭裁判所でのその審判が行われるまでの間ひとりひとりとなって隔離された、四人の内面には常に、時計台の最後の夜が照射されていく。四人それぞれの過去が四人が共有する過去となり、四人各々が抱えていたテーゼが四人共通のテーゼとなったのだ。
そしてそれと同時にその一方で、肉親や友人や教師といった彼らの周囲もまた、少なからぬ影響を受けて、次第に変わりつつあった。

永い物語の粗筋をざっくりと書くと、上の様なものになるだろう。
物語としては、時計台の夜に語られたそれぞれの過去を語るその語り口や、彼らが語る過去の映像表現は、今の視点で観ても素晴らしいと思う。
しかし、過去を語り終えて、彼らの現在を語るそのトーンが急に甘くなるのが、ぼくとしては、嫌なのだ。そんなにも簡単に、共有した過去やテーゼを乗り越えたものとして、未来を祝福出来るのだろうか、とぼくは思う。
その甘さは、多分、現在では通用しないのだろう。学生運動という半ば忘却された題材を扱っているからではない。その学生運動を支えた甘い認識が、既に通用しなくなっているからなのではないか。
だからと言って、その甘酸っぱい認識が、当時の同世代人 [現在ならば還暦前後のヒトビト] に切ない郷愁を与えられるかと言うと、それは出来ない。何故ならば、それを認めるには、物語の中の四人も含めて、己の敗北を認めなければならないからだ。
作品の至る所で、「ひとりではない四人なのだ」と語られる。しかもその台詞は彼らを蹂躙し管理し支配しようとする側のモノからも発せられる。それがこの作品のモチーフではあるのだけれども、それと同じ感慨を今、同じものとして共有出来るのであろうか。
「ひとりではない四人」である事が、救済にも癒しにもならずに、重い責めとなって、抱え込まざるを得ない状況は、ざらなのだ。たった独りならば、逃げる事も忘れる事も出来る筈のものが、それを共有するモノの存在によって、逝き場を喪い、立ち往生してしまうのだ。
それに立ち向かう為の、それに立ち向かってくれる筈の「ひとりではない四人」なんか、今更、いる訳がない。

この作品が忘れ去られ、永遠の名作の地位を得られないのは、それが理由ではないか、と思う。

だから、現在では読む事の出来ない作品を取り上げてそれを語っても徒労感が増すばかりなので、その中で語られているいくつものテーゼの中から、ひとつだけ取り上げる。

自殺未遂者は、己を殺めようとした加害者なのだろうか、それとも、己から亡き者にされようとした被害者なのだろうか、と。
その答えはふたつにひとつなのだろうか、それとも、相互いに反駁するものなのだろうか。
自殺未遂者は、いずれかの途を選んで活きて逝かなければならないではないのだろうか。己の殺人未遂を犯した加害者であるその生と、己に殺害されかけた被害者である生と。
であるならば、そのいずれのうちのひとつを選んで活きて逝けばいい。
その選択した結果が、現在の己である、と。

「一億総懺悔」という言葉がある。
太平洋戦争直後に組閣した東久邇宮稔彦王 (Prince Higashikuni Naruhiko) 総理が提唱したものだ。その戦争における責任の所在を全国民に問うたものであるとすべきところなのだけれども、むしろ当時の指導者の責任の所在を曖昧にさせるものとしてしか、機能していない。

その一方で、敗戦を終戦と言い換えて、占領軍を進駐軍と言い換えた便法がある。「一億層懺悔」とは逆に思えるかもしれないが、その効用は全く同じだ。
この言葉もまた、己自身の立場と、それを引き受けるべき責任の所在を曖昧模糊とさせるものでしかない。

相も変わらずの、馬鹿のひとつ覚えか。
そして、そのひとつ覚えで阿呆どもから逃れようというのか。

誰もが皆、そうやって、己の罪をうつろにさせて、加害者でもある事を忘却し、被害者として活きて逝こうというつもりなのか。

もう一度、己自身の両腕をみつめてみればいい。
べっとりと、血にまみれたその両腕を。
その血は決しておちる事はないだろう。
洗っても無駄だ。否、洗う暇なぞ、ありはしない。
両腕が紅く染まっているのは、己自らが手を下したからだ。
刃ならば、そこに転がっているだろう。
そして、遠のく意識の果てに、己自身の頸から噴出する迸りに、ようやく気がつくのだ。

images
マクベス夫人に扮したエレン・テリー (Ellen Terry As Lady Macbeth)』 by ジョン・シンガー・サージェント (John Singer Sargent)

次回は「」。
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