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2011.05.24.18.50

くちなしのはな

と、聴けば、渡哲也 (Tetsuya Watari) のヒット曲で、作詞が水木かおる、作曲が遠藤実1973年だ。

と、言う事とはあまり関係のないところから、この文章を書き起こしてみる。

と、言うか、つまりは語感の問題なのである。くちなしって、一体なんだ。他のヒトはどうなのかは知らないけれども、妙に薄気味が悪い。嫌な語感なのである。

ほの暗い闇の中に佇んでいて、恨みがましい目つきでこちらに視線をなげかけているその女には、くちがないのであった。

と、こんな具合に、古典的な怪談を紡ぎ出してしまいそうな、そんな印象なのである。

とは言っても、微妙に既視感をそそられるそんな怪談は、既視感をそそられこそすれ、記憶の片隅までもまさぐっても、怪談の名称はおろか、その具体的なエピソードに辿り着く事は出来ない。

単なる思い違いなんだろうか?

それでも、くちのない怪人や怪物は、確かに存在する。

映画『氷柱の美女』 [久松静児 (Seiji Hisamatsu) 監督作品 1950年制作] には、唇のない怪人が登場するらしい。しかし、その映画は未見。
尤もそれ以前に、ぼく自身が公開時には産まれてもいないし、彼の存在は『ガメラ画報』 [ぼくが所有しているのは初版で1996年発行とあった] というムックで初めて知ったという次第。そこに短く紹介されている粗筋とともにある小さなスチル写真によって、ようやくその怪人らしきモノの姿も確認出来るだけなのである。
しかも、検索してみたところで、怪人の姿もネット上には顕われて来ない。

また、オムニバス映画の『トワイライトゾーン/超次元の体験 (The Twilight Zone : The Movie)』 [1983年制作] の第3話『こどもの世界 (It's A Good Life)』 [ジョー・ダンテ (Joe Dante) 監督作品] には、くちを喪った少女が登場するけれども、恐ろしいのは彼女ではなくて、彼女からくちを奪った少年の特殊能力なのだ。

もちろん、似た様な名称のカオナシ (Kaonashi aka No-Face) は『千と千尋の神隠し (Spirited Away)』 [宮崎駿 (Hayao Miyazaki) 監督作品 2001年制作] に登場するけれども、似て非なるものである事は、言うまでもない。
例え「みんなの中にカオナシはいる」と、真顔で言われたとしても。

と、挙げてみた様に、くちのない怪人や怪物は、確かに存在する。しかし、その拠り所はあまりに覚束なく、心許ない。

しかも、ぼく達の世界には、くちがない怪人や怪物よりも、くちの多い怪人や怪物の方が、遥かに多いのだ。
二口女 (Futakuchi-onna aka Two-mouthed Woman) や、彼女を映画的に解釈した二面女 (Two-faced Woman) [映画『妖怪大戦争 (Yokai Monsters : Spook Warfare)』 [黒田義之監督作品 1968年制作] ]等。
あぁ、TV番組『超人バロム・1 (Barom One)』 [よみうりテレビ系列 1972年放映] には、くちしかないクチビルゲ [第21話『魔人クチビルゲがバロム・1を食う!!』登場] も登場したんだっけ。

それに、ぼくの妄想の中に存在している怪談に登場するくちなしのおんな以上に、世間を騒がせていたのは、口裂け女 (Kuchisake-onna aka Slit-Mouth Woman) という別のおんななのだ。

と、言う具合で、くちの過剰を誇る怪人や怪物は数多く存在するし、それ以上に彼らをメタファーとする口数の多い女ときたら ....。

と、続けて行くと、単なる愚痴にしかならないから大慌てで軌道修正すると、くちの多い怪人や怪物よりも、くちのない怪人や怪物の方が圧倒的にマイノリティであり、しかも、その数少ない彼らが醸し出す気配は、ぼくが抱く恐怖感とは異なるものなのである。

くちのない怪人や怪物は、確かに存在する。
しかし、彼らや彼女に出逢う遥かな以前から、ぼくのこころの底には、くちなしの怪し気な佇まいが巣食ってているのである。

両眼を潰し、両耳をちぎり、鼻を削いでも、くちは遺る。
これ以上に悪口や悪態を吐けない様に、例え、舌を抜いたとしても、だ。
くちがある以上、怨みつらみは言うまでもなく、笑みもこぼれれば、嗚咽も洩れる。その口先から言葉を紡ぎ出す術を奪われていたとしても、だ。
つまり、おんなの顔には、表情が産まれ、感情を顕わす事が出来るのだ。

だから、逆に考えるといい。
くちなしとは、その総てを喪ったモノ、その総てを奪われたモノの謂いなのかも知れないのだ。

それとも、「死人にくちなし」の連想から、この妖しさは発せられているのであろうか。
城昌幸の『死人に口なし』を代表格に、ジャンルや時代を問わず、ヒトがヒトを殺すシーンもしくはそれを類推させるシーンで、何度となく登場した、敢て言えば、陳腐なこの台詞のせいなのであろうか。

この台詞ならば、どこかの映画やどこかのTVドラマで、銃口を向けた仇敵から渡哲也 (Tetsuya Watari) が聴かされたり、もしくは銃を握りしめた彼自身のくちから発せられたとしても、不思議ではない。

そんな渡哲也 (Tetsuya Watari) が梔子 (Gardenia) に例えて歌うおんなとは、どんなおんななのだろうか。
彼が唄う『くちなしの花』からの連想から、ぼくの怖れは産まれているのだろうか。

最初に書いた様に、この曲は1973年のヒット曲。ぼくの実感としては、この曲が世に出る以前から、くちなしへの畏れは既にぼくのこころの中にある。

しかし、指輪が廻る程の痩せたおんなの不在を唄うこの曲の、陰花的な佇まいは、ぼくのくちなしへのイメージを助長するばかりで、決してそれを打ち消してはくれないのだ。

次回は「」。

附記:
梔子 (Gardenia) は、ビリー・ホリデイ (Billie Holiday) が愛した花で、彼女のアルバムかなにかで観る事が出来る。そこを飾る彼女の写真の、耳許に大きく咲く白い花がそれだと言う。
くちなしの花』の作者達は、もしかしたら、ビリー・ホリデイ (Billie Holiday) に準えて、この曲を創ったのかも知れない。何故そんな事を想ったのかは、彼女の自伝『奇妙な果実 (Lady Sings The Blues)』を読めば痛い程、良く解るだろうから、ここでは理由は説明しない。
つまり、その花言葉 (Floriography) は「秘めた恋 (Secret Love)」。

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彼女のベスト盤『 レディ・デイ:ザ・ベスト・オブ・ビリー・ホリデイ (Lady Day : The Best Of Billie Holiday)』より。
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