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2011.05.10.21.13

やまもといそろく

前回の記事で「少なくともぼくにとっては今でも、水戸光圀と言えば東野英治郎 (Eijiro Tono) なのである」という言説を弄したのだけれども、その轍を踏まえると、山本五十六 (Isoroku Yamamoto) は、山村聰 (Sou Yamamura) に他ならない。
希代の名将である、かつての大日本帝國海軍 (Imperial Japanese Navy) の連合艦隊司令長官 (The Commander-in-chief Of The Combined Fleet) を演じた俳優は、何人もいるし、三船敏郎 (Toshiro Mifune) がこの人物を演じたのは数作品にも及ぶのだけれども、やっぱり山本五十六 (Isoroku Yamamoto) と言えば、山村聰 (Sou Yamamura) ですよ。
て、なんの事はない。
映画『トラ・トラ・トラ! (Tora! Tora! Tora!)』 [リチャード・フライシャー (Richard Fleischer)、舛田利雄 (Toshio Masuda)、 深作欣二 (Kinji Fukasaku) 監督作品 1970年制作] の印象が非常に根深く遺っているだけの事なのだ。

ちなみに前回の記事の後を継いで書けば、水戸光圀以外の役を演じている東野英治郎 (Eijiro Tono) を観たのは、この映画が最初だった。
彼は、第一航空艦隊司令長官 (Commander In Chief Of The First Air Fleet) の南雲忠一 (Chuichi Nagumo) を演じていて、物語の主軸を成す真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) に於いて、直接、現地で指揮する役どころだったから、もしかしたら総出演時間で言えば、山村聰 (Sou Yamamura) の山本五十六 (Isoroku Yamamoto) よりも出番が多いのかもしれない。
だから、水戸光圀のイメージをそのまま引き継いで観ても、なんの違和感もなかった。
しかし後に、東野英治郎 (Eijiro Tono) が水戸光圀以前は悪役専門の俳優である事と、真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) における、第二次攻撃を中止した南雲忠一 (Chuichi Nagumo) の采配に異議が多い事を知って、複雑な心境になってしまったのも事実ではある。
東野英治郎 (Eijiro Tono) に南雲忠一 (Chuichi Nagumo) 役を充てたのは、水戸光圀である事よりも、それ以前の悪役俳優である事が重要だったのかもしれないからだ。

何故ならば、この映画の初公開時に、家族四人で劇場に出かけて観に行った際に、次の様な記憶があるからなのだ。
上映中の事である。日本海軍による真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) が成功裡に終わった後に帰航して来た米軍空母のシーンを観た父親はこう言ったのだ。
「だから、戦争に負けたのだ」

米軍が開発したパープル暗号解読機 (Purple) や、慣れぬタイピング作業で遅々と進まぬ宣戦布告 (Japan Declares War On The United States Of America, Great Britain, Australia, Canada, New Zealand And The Union Of South Africa.) の翻訳作業等、この映画の中には、いくつも戦争に負けてしまった原因を示唆するモノが描写しているにも関わらずに、彼の視線はそこだけに注がれていた。

作戦の最優先目標である空母をたたけなかった事が最大の痛恨時なのだ。
それは、現在の視点で観れば、間違ってはいないだろう。この真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) の戦果を受けて、時代は大鑑巨砲から空母を拠点とした空の闘いの時代へとシフトする。
それを身をもって呈示した旧日本海軍はかつての時代に居続け、それを身をもって呈示させられた米軍が時代の要請に素直に従っていく。

父は決して軍国主義者でも右翼でもなかったけれども、従軍したニンゲンとして、あの時に空母をたたけなかった事が相当、悔しかった様だ。
それは父のみならず、第二陣の攻撃部隊を真珠湾 (Pearl Harbor) に出撃させずに、一路、帰路についた南雲忠一 (Chuichi Nagumo) の采配をミスと指摘する論調が、多数を占めている事からも、明らかだ。

その様な毀誉褒貶激しい人物であるにも関わらずに、物語後半をひっぱるだけの力量のある俳優という点では、東野英治郎 (Eijiro Tono) は適役だったのかもしれない。
つまり、かつては悪役専門だったが現在は水戸光圀役で知られるという現在の視点ではなくて、むしろそれをひっくり返した、水戸光圀の様な好々爺も演じられる悪役俳優という評価、それが彼を起用する理由だったのではないだろうか。

実際にこの映画の中には、悪役と呼べる様な人物は少なくとも日本側には存在していない。本来ならば敵役になるかもしれない東條英機 (Hideki Tojo) [演:内田朝雄] や松岡洋右 (Yosuke Matsuoka) [演:北村和夫] は、ほんの端役として憎々し気な台詞を叩くのみなのだ。

むしろ、誰もが皆、これから始るであろう戦争はあやまりであり、にも関わらずに不可避のモノなのだ、そんな意識を持っている様に振る舞うのだ。
もちろん、戦争を経た後にこの作品が制作されているのだから、過去の事象に現在の認識をそのまま投影しているだけだ、当時の人物がそんな認識の下に行動されてはたまったもんぢゃあない、と言うべきなのかもしれない。
しかしながら、主戦論を吐く人物は殆ど物語に登場せずに、主戦論に抗えない非戦論者 / 不戦論者ばかりが登場するのである。

それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」 [『近衛日記』より]

山本五十六 (Isoroku Yamamoto) が実際に近衛文麿 (Fumimaro Konoe) [演:千田是也] に向かって発したこの発言が、映画冒頭に顕われて、その認識が、物語全体を牽引しているのである。

だから、制作国であるアメリカではあまり好意的に受け入れられなかったと聴く。
日本人を好意的に描きすぎているというのだ。
リメンバー・パールハーバー (Remember Pearl Harbor) は、この映画のどこにあるのだ、と。

そして一方の日本では、開戦当初の破竹の勢いに乗る日本を描いて溜飲を下げる、という様な認識は殆どなくて、何故、戦争は始ってしまったのかという疑問を投げかけるモノとして評価されて、大ヒットを記録した様だ。
今ここで、戦争を始めるではなくて、戦争は始まってしまったという謂いをしたけれども、あえてこんな表現をしたのは、日本人ならではの感性に従ったまでだ。つまり、敗戦を終戦と言い換えてしまう、アレを意識的に使ってみたのだ。

つまり、そんな想いを抱いた両親に連れられてこの映画を観た多くの少年のひとりが、このぼくという訳だ。

images
当時、週刊少年マンガ雑誌でも、この映画に登場する旗艦長門 (The Flagship Nagato) や九七式艦上攻撃機 (Nakajima B5N) や零式艦上戦闘機 (Mitsubishi A6M Zero) の写真がグラビア頁で大きく取り上げられていた記憶があるから、ぼく達の様に家族総出で観劇に出かけるのは、間違った行為ではないだろう [上記掲載画像は本邦初公開時のポスター]。

なんせ、そのグラビア特集でも大きく取り上げられていた様に、ミニチュアでもジオラマでも特撮でもない、実物大の戦艦や戦闘機が映画冒頭からバンバン登場するのだ。当時8才のぼくと3歳下の弟にとっても"ツカミはオッケー"な作品なのである。
映画冒頭に長々と映し出される旗艦長門 (The Flagship Nagato) とそこに居並ぶ兵士達の姿を負いながら「お父さんはどこに居たの、写ってる」という様な会話が出た記憶がある程なのだ。

しかし、"ツカミはオッケー"な筈なのに、なかなか戦闘シーンに入らないのが、この作品なのである。
歴史の歯車 [と言ってもいいのかどうか、むしろ、この場合はドラマツルギーとしてと捉えるべきか] の回転に任せる以外に方法はなく、総ては不可避であると劇中の人物達が充分に認識しているのにも関わらずに、彼らは皆、その決断を遅延させる事のみに腐心している。
このジリジリ感は、後にTV放映で観る事になる映画『日本のいちばん長い日 (Japan's Longest Day)』 [岡本喜八 (Kihachi Okamoto) 監督作品 1967年] でも、同様なのだ。
奇しくも、戦争の開始を告げる映画と戦争を終焉させる映画の中で、遅々と進まぬ物語に、歯噛みにも似た焦燥感を感じるのは何故だろうか。
それが、長尺の大作映画特有の物語構成なのかもしれないが、同じ様な感覚は、現在の報道番組を観ているだけでも、味わえてしまえるから不思議だ。むしろ、決断すべき時にその決定を遅延させる為に腐心する様にしかみえないその所作は、日本人の為政者が抱えている問題なのかも知れない。

と言う事にしておいて、この問題からそそくさと逃げ出してしまおう。と、言うのは、戦争の開始とその終焉に於いて、決断すべきニンゲンがその回答をひたすら遅延させていたのではないかという疑問に応着しそうだからだ。例え史実に基づいてはいるといえども、虚構は虚構。
戦争責任は誰が負うべきなのか、それをここでは書かない。
虚構に引きずられる様に精製された誇大妄想的な歴史認識を、ここで披露する訳には、流石にいかないのだ。

映画は、戦争を回避する方法を模索する政治の物語と並走しながら、開戦の準備に勤しむ軍部の姿が描かれて行く。
開戦と言っても、誰もアメリカとがっぷりよっつに組んだ長期戦を望んでいない。
先の山本五十六 (Isoroku Yamamoto) の発言「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる」をそのまま実行する事だけが主眼だ。

そして、その基軸を成すのが、田村高廣 (Takahiro Tamura) 演じる攻撃隊総指揮官 赤城飛行隊長 (Leading The First Air Wave Attacks On Pearl Harbor) 淵田美津雄 (Mitsuo Fuchida) なのである。物語の初登場シーンから颯爽と新型戦闘機である零式艦上戦闘機 (Mitsubishi A6M Zero) に搭乗して顕われ、メインの真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) でも部隊を率いて、「トラトラトラ (Tora Tora Tora)」と叫ぶ。
ぼくの様な少年の視点から観れば、ある意味で、彼こそが主役に写るのである。

だから、ぼく達が映画の中で熱狂したシーンは、映画の主軸となる物語よりも細部に徹しているのである。
物語冒頭で、市街を滑空する戦闘機に快哉をあげる若い女性達の姿 [彼女達は女学生だったのかそれとも娼婦達だったのか] や、軍楽隊の演奏華々しく掲げられる星条旗のはためく姿 [真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) のシーンで国旗掲揚は再度演じられる] や、航行中の艦艇で敵艦のシルエットを観てその名称をあてる"ゲーム"や、渥美清 (Kiyoshi Atsumi) ["フーテンの寅 (Tora-san)"になったばかりの] 演じる炊事兵が日付変更線 (International Date Line) を解説するシーン ... 。
そんな細部がいくつもいくつも重ねて描かれて、クライマックスへと向かって行くのである。
そして、そんな細部の積み重ねを後にパロディにした作品をとり・みき (Miki Tori) が『キネコミカ』で発表して、思わず納得したのである。
ぼくの観方は間違えていなかったのだなぁ、と。

映画は、クライマックス・シーンである真珠湾奇襲攻撃 (Attack On Pearl Harbor) を余すところなく描いて、終わる。
しかし、そこには爽快感も優越感も存在しない。
ぼくの父は「だから戦争に負けたのだ」と断言したが、映画の中では山村聰 (Sou Yamamura) 演じる山本五十六 (Isoroku Yamamoto) が次の様な台詞を吐いて幕を引く。

「眠れる巨人を起こしてしまった」

つまり、山村聰 (Sou Yamamura) の発したふたつの台詞の振幅の中に、この映画の物語は描かれているのである。

次回は「」。

附記:
今回殆ど、映画で描かれている事の記述に終始してしまい、表題である「やまもといそろく」に関しては殆んど触れなかった。
連合艦隊司令長官 (The Commander-in-chief Of The Combined Fleet) であるところの山本五十六 (Isoroku Yamamoto) に関しては、何れ書く時が来るかも知れない。
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