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2011.05.03.08.56

えちごのちりめんどんや

越後の縮緬問屋とは、先の副将軍 水戸光圀公が、その身をやつす時に使う隠れ蓑である。
「えぇ、わたしは光右衛門と申しまして、越後のしがない縮緬問屋隠居にございます」
この台詞は、月曜夜8時にコドモの頃から聴かされて来た台詞だけれども、その頃は、大きな誤解をしていたのだった。

当時、その台詞を発していたのは東野英治郎 (Eijiro Tono) で、少なくともぼくにとっては今でも、水戸光圀と言えば東野英治郎 (Eijiro Tono) なのである。と、いうのは現在の里見浩太朗 (Kohtaro Satomi) まで何代も水戸光圀を演じる俳優は変わったけれども、月曜夜8時にTV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』を観る習慣は幼いときから始ってはいたけれども、二代目黄門様 [1983年~1992年] となる西村晃 (Ko NIshimura) の頃にはもう、その習慣がすっぱりとなくなっていたからだ。
と、言っても、東野英治郎 (Eijiro Tono) の演技力と現在の黄門様 [2002年~ ] 里見浩太朗 (Kohtaro Satomi) の演技力を比較してどうのこうのとか、彼を支えるレギュラー陣のキャスティングがどうしたこうしたとか、そういう話ではない。
もちろん、脚本や演出に関しての問題でもない。

単に、ぼく自身が、月曜夜8時にTVを観る習慣がなくなったからである。

第一シーズンである第1部の開始が1969年で、西村晃 (Ko NIshimura) 版黄門様の初登場シーズンである第14部1983年。
かつての小学二年生 (Seven Year Old) も、青春時代と言えば聞こえはいいが、洟垂らしの十代を通り越して、建前上はいいオトナになってしまった訳である。ティーンエイジャーと言えば聞こえはいいが、身体の成長とその中身の成長にアンバランスを来していた時代あたりから、TV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』を観るよりも、それ以外の事に忙殺されていたのである。

っていうか、まぁ、『パンクでポン』な日々だったのではあるが。

だから、未だに水戸光圀を演じる以前の、東野英治郎 (Eijiro Tono) が悪役に徹していた頃の旧い映画を観ると、妙な違和感を抱いてしまうし、由美かおる (Kaoru Yumi) の入浴シーンがどうしたこうしたよりも、フロこそ入らないけれども、お新さんこと霞のお新 [演:宮園純子 (Junko Miyazono)] は色っぽかったよなぁという案配になってしまうのである。
つまりは、お年寄りの方々の、里見浩太朗 (Kohtaro Satomi) 版黄門を観て「助さんも立派になられて」と言う気持ちが、とってもよく解るのである。

そんな訳だから、小学二年生 (Seven Year Old) の知識と理解力と、そこから産まれる想像力でもって、TV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』を観ていた訳だから、ところどころにとんちんかんな記憶が産まれ、ちんぷんかんぷんな印象を抱いてしまうのである。
その代表格が本題であるところの"えちごのちりめんどんや"なのだ。

その思考過程をうだうだ書くのも煩わしいので、結論だけ書くと、"えちごのちりめんどんや"を海産物問屋と永い間、勘違いしていたのだ。つまり、ちりめんはちりめんでも、ちりめんぢゃこを商っていたと思っていたのである。
それは、越後日本海 (Sea Of Japan) に面していた事からの連想でもあるし、月曜夜8時にTV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』を観ていたぼくは、「骨にいいから」「成長にいいから」と毎朝食にちりめんぢゃこを喰べさせられていたからでもあった。
当時、ちりめんぢゃこはあまり好きではなかった。というか、むしろ、喰べたくはなかった。はっきり言えば、嫌いだった。日曜日の朝に父親が漁港まで出向いて買い求めて来た生じらすは、大好きだったのだけれども。
そんな理由で、逆に印象に残っていたのである。"えちごのちりめんぢゃこどんや"光右衛門は。

勿論、"えちごのちりめんどんや"とは、縮緬 (Crape) つまり、呉服とその素材である反物を商うのである。

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ちなみに、縮緬 (Crape) は、越後縮緬という言葉がある通り、かの地での特産品みたいだけれども、ちりめんぢゃこは、その原料となる片口鰯 (Japanese Anchovy)真鰯 (Spotline Sardine)潤目鰯 (Round herring) 等が太平洋 (Pacific Ocean) 沿岸で漁獲される処から考えると、"えちごのちりめんぢゃこどんや"は存在しなさそうだ。

えぇっ、一体、いつ頃にその間違いに気づいたかって?

いやだよ、そんなものぁ聴くもんぢゃない。えらい、恥ずかしいぢゃあないか。
誰がそんな恥をいけしゃあしゃあと話すもんかい。
この記事を書く為に検索して初めて知ったたぁ、口が裂けても金輪際言えた義理ぢゃあない。

と、思わず現在の八兵衛 [演:林家三平] の本業の口調で書いてしまったが、まぁ、半分はホントで半分はウソである。
ヒトの書いた文章なんか、書いてある事をそのまま鵜呑みになんかするもんぢゃあない。
書いている側がホントのコトを書くとは限らないし、例え、書いたとしても、読む側に読解力がなければ、書いている側の真意も伝わらない。
その逆に、書く側が騙すつもりで書いているならば、それにも関わらず、否,それ故にこそ絶対に、その文章のどこかにここに書かれてある内容は事実に即してはおりません、虚偽に違い相違ありません、と訴えている筈なのだ。
だからと言って、間違い探しにやっきになると、それだけで陽が暮れてしまうし、逆にそこに書かれている真実を見失う事もあるだろう。
そんな訳で、書かれてある言葉は総て、話半分という前提で、薄笑いを浮かべながら読み進めるべきなのだ。
そう、思わないかい?

ところで、何故、水戸光圀は"越後の縮緬問屋"を名乗ったのか。
第4部 [1973年放送] に、水戸光圀にそっくりの、ホンモノの"越後の縮緬問屋"光右衛門 [東野英治郎 (Eijiro Tono) 二役] が登場する。しかし、似ているのは外面だけで、絵に描いた様な、意地悪爺の頑固爺なのである。
この回を挙げて、"越後の縮緬問屋"に身をやつしている己にそっくりな、"越後の縮緬問屋"光右衛門が忘れられずに、彼との出逢い以降、水戸光圀は"越後の縮緬問屋"を標榜する様になった、という説がある。

確かに、TV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』シリーズには、毎シーズンお約束の、贋の黄門様という物語設定がある。それは、いくつかのヴァリエーションがあって、水戸光圀を騙るニセモノとホンモノが遭遇する場合もあれば、ホンモノがホンモノであるにも関わらずにニセモノの一行を演じる羽目に陥る場合もあれば、水戸光圀自身が己に瓜二つの人物に出逢う場合もある。
そしてそれぞれのヴァリアントに従って、ニセモノとホンモノが入れ替わりホンモノがニセモノとなって、一人二役が二人一役となり二人一役が一人二役と化して、事件はもつれにもつれるのだけれども、きちんと決まった時間になれば入浴シーンも拝めれば、ひょーっと風車 (Pinwheel) も飛んでくる。そして、きちんと葵の御紋の入った印籠 (Inro) が出て来て大団円、街道で別れを惜しみながらも高笑いが聴こえてくるのである。

それならそれでよい。
ニセモノの水戸光圀がいてホンモノの水戸光圀がいる様に、ホンモノの"越後の縮緬問屋"光右衛門を騙るニセモノの"越後の縮緬問屋"光右衛門がいても、なんら差し障りはない。単純にニセモノの"越後の縮緬問屋"光右衛門の正体がホンモノの水戸光圀であるだけなのだ。

そうではない、何故、"越後"であり"縮緬問屋"なのだろうか、という点なのである。

後者に関しては、推理の働く余地もあれば筋の通った説を唱えられる可能性もある。
水戸光圀が生存していた元禄期 (Genroku Bunka) は、全国各地の商品作物の生産と消費、そしてそれを支える流通体系が整い始めた時代である。しかも、一般的な消費材ばかりか奢侈な物品や豪華な贅沢品が、地域地域の特産物と共に、商われ出した時代である。縮緬 (Crape) 自体が贅沢品でかつ特産物であり、その商品の往来を直接に担う"縮緬問屋"は、当時の富裕層なのである。
しかも、その隠居。有閑層とも言える。
そんな身分にやつしていれば、全国各地を自由気侭に旅しても、なんら不思議ではない。天下の先の副将軍である己の出自の隠れ蓑としては、申し分ない。
と、言う事くらいは推測が着く。
しかし、着くのは推測だけで、当時、縮緬 (Crape) を商う事がどの程度の潤沢な生活を保障するのかとか、越後という土地でどれだけの生産力があったのかという点は、やっぱり解らないのだ。

それと同様に、と言うか、後者の問題が解けない以上、前者である"越後"は皆目検討がつかない。

しかし、つかないはつかないなりに、ある種の憶測というか推理が出来るのである。
だから、ここでこんな仮説を披露してみる。

上杉謙信 (Uesugi Kenshin) の名前を出すまでもなく、戦国期 (The Sengoku Period) には越後上杉家 (Uesugi Clan) の領地であり、反徳川 (Tokugawa Clan) の筆頭であった。関ヶ原の合戦 (Battle Of Sekigahara) でも、豊臣 (Toyotomi Clan) 側に就いて敗退。上杉家 (Uesugi Clan) は減封を命じられて米沢へ転封となった。その一方、彼らの所領である越後は、10有余の藩に分けられて統治される事になった。
つまり、江戸期 (Edo Period) には親徳川の大名が知行する土地になり、幕末期には佐幕、戊辰戦争 (Boshin War) にあっては、殆どの藩は奥羽越列藩同盟 (Ouetsu Reppan Domei) に参加し、維新軍と対峙するのである。
また、その中のひとつ、長岡藩は"米百俵の精神"で知られ、藩校である崇徳館を中心に学問も盛んなところであった。

この辺をざっくり読むと、水戸光圀が音頭をとって編纂が開始された『大日本史 (Dai Nihonshi)』とそこから産まれた水戸学 (Mitogaku)、さらにその影響下での、幕末期での水戸派の活躍との類推も出来るかも知れない。

そんな土地と藩の気風を踏まえて"越後の縮緬問屋"を名乗った、と言いたいところだけれども、実はもうひとつある。

高田藩に興ったお家騒動、越後騒動である。しかし、本題は騒動ではない。その騒動の後に起きた事なのだ。
既に大老 酒井忠清 (Sakai Tadakiyo) の裁定が下っていたのにも関わらず、将軍職に就いたばかりの徳川綱吉 (Tokugawa Tsunayoshi) 自らが再裁定に臨み、先に出ていた裁定を覆して、厳しい処罰を下した。
この時の印象からか、後に高田藩への転封は、懲罰的な色彩が強いものとなったという。
幕政を巡る、徳川綱吉 (Tokugawa Tsunayoshi) ~柳沢吉保 (Yanagisawa Yoshiyasu) を枢軸とする側用人政治との対立から、自ら隠居せざるを得なかった水戸光圀は、越後騒動とその後始末を観て、もしかしたら己自身の境遇を越後騒動の登場人物達に準えたのではないのだろうか。

と、ここまで書いて来て、ここで指摘するのもなんだけれども、ぼくの子供時代からTV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』は、大雑把な時代考証で有名で、遠景に送電線の鉄塔が見えてしまう様な番組だから、一体、どこまで、史実を踏まえているかというと、何をか言わんやなのである。

ちゃぶ台返し的な物謂いをすれば、第37部 [2007年放送] が、その越後騒動に題をとったシーズンである。
そこでは、上に書いた様な経緯とは全く異なる、越後騒動史観を観る事が出来るのだ。
第37部 [2007年放送] それは、里見浩太朗 (Kohtaro Satomi) が水戸光圀を演じて7シーズン目というよりも、風車の弥七 [演:内藤剛志 (Naito Takashi)] が復活したシーズン。
と言うべきかな?

次回は「」。
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