2011.03.22.19.13
小学校一年生の夏休みが終わった時、ぼくは転校した。以前から何度も申し込んでは落選していた市営の団地への入居が決定した為で、転校した先もクルマで十数分、その気になれば小学一年生だったぼくでも歩いていける距離だった。
でも、そこはぼくがそれまで棲んでいた街並とは全く違う光景だった。
新しく通う小学校も住宅街の中にあった。しかし、そこにはぼくの遊び場だった児童公園も家電メーカーのショールームも映画館もパチンコ屋も甘味処もなかった。駄菓子屋と呼べる様な店は一軒あったけれども、転校生であるぼくがそことそこのおばちゃんとに馴染むのには、しばらくの時間が必要だったと記憶している。
ぼくにとってはなにもない様な場所だったけれども、ひとつだけ昔の場所になかったものがあった。
その小学校は海のそばにあったのだ。そばと言っても、歩いていくには数十分はかかる。だけれども、日帰りの遠足は勿論、春や秋の天気のいい日には授業時間を使って、よく担任に引率されて向かったものだった。それは、理科や社会科の課外授業の素振りをみせていたり、"マラソン"だといって体育の授業中、突然駆け出す場合もあった。
でも、夏場にそこに向かわなかったのは、この近辺の海が遊泳禁止区域だったからだ。堤防を越えるとすぐに狭い砂浜が広がっているが、波は荒く高い。それは急に深くなっているからだという。
小松左京の『日本沈没
』がベストセラーになって映画化
された頃、その海を観おろしながら、ぼく達は今、日本海溝の縁にいるんだと、冗談まじりで話した事もあった。
そんな具合で年に数度、授業中に"海"に行けば、そこもぼく達の遊び場のテルトリーと化してゆく。
ぼく自身も、自転車の補助輪がとれたあたりから、友人数人と一緒に、もしくはたった独りで浜辺に向かった事が、何度もある。
その"海"に向かう路は、いくつかのルートがあった。
北から南へと真直ぐに向かう四車線の道路を向かう路。細くて狭い川に沿って向かう路。遠回りして、観光地とは名ばかりの遺跡を巡って向かう路。途中途中に本屋やらお菓子屋やら寄り道しながら向かう路。
いくつもあるのだけれども、いずれの場合も"海"に向かう途中で街並が次第に途絶え、田圃が広がり出す。そして、その頃には向かう先を通せんぼする様に、高速道路が右から左へと抜けてゆく。
その先の向こうにその一角があった。さっき書いた川沿いのルートを選べば、嫌でもそこに辿り着く。
最初は狭くて細い川も、その辺りに着いた頃には、かなり広いものとなっている。道路に例えると、一車線の小道が四車線の産業道路になった様な広さだ。広くはなっても護岸工事の様なものはされてなくて、川の両側には雑草が生い茂り、近隣の生活排水が流れ込んでいるのだろうか、濁った澱んだ色彩を放っていた。
と,同時に"海"からの潮の香りも混じり、独特の歪んだ匂いが辺り一体に満ちていた。
そこを通るぼく達は、口々に臭い臭いとこれみよがしに大騒ぎした。授業の一環でそこを歩き抜けたり"マラソン"して通る時は、尚更だった。実際に臭かったけれども、ぼく達が騒いだのは別の理由があった。その匂いで、その先にある"海"がもうまもなくの近さに辿り着いたと気づかされるからだった。引率の担任達は、くちぐちに臭い臭いを注意したけれども、注意されればそれだけ余計に騒ぐものだ。
だって、先生、ホントに臭いんだよ、と。そして"海"の予感にこころ踊らせていたのだ。
しかし、ぼく達の騒ぎを他所に、その一帯は静まり返っていた。いつ沈没してもおかしくない様な幾艘かの小舟が岸に繋がれていて、川沿いに並んだ木造家屋は軒並み古ぼけていた。色あせた壁や貼付けたトタンから赤茶けた錆色がのぞいていたのだ。
ヒトは棲んでいる筈なのに、そしてその家々のどこかには誰かが居る筈なのに、なぜだか、不気味に押し黙っているのだった。
そこがどういう場所だったかは、もうしばらく後になって理解する事だった。
そして、沈黙の中で、臭い臭いと囃し立てているぼく達を、彼らがじっと観ていた事も。
次回は「り」。

映画『泥の川
』 [宮本輝 (Teru Miyamoto) 原作 小栗康平 (Kohei Oguri) 監督作品] より。
でも、そこはぼくがそれまで棲んでいた街並とは全く違う光景だった。
新しく通う小学校も住宅街の中にあった。しかし、そこにはぼくの遊び場だった児童公園も家電メーカーのショールームも映画館もパチンコ屋も甘味処もなかった。駄菓子屋と呼べる様な店は一軒あったけれども、転校生であるぼくがそことそこのおばちゃんとに馴染むのには、しばらくの時間が必要だったと記憶している。
ぼくにとってはなにもない様な場所だったけれども、ひとつだけ昔の場所になかったものがあった。
その小学校は海のそばにあったのだ。そばと言っても、歩いていくには数十分はかかる。だけれども、日帰りの遠足は勿論、春や秋の天気のいい日には授業時間を使って、よく担任に引率されて向かったものだった。それは、理科や社会科の課外授業の素振りをみせていたり、"マラソン"だといって体育の授業中、突然駆け出す場合もあった。
でも、夏場にそこに向かわなかったのは、この近辺の海が遊泳禁止区域だったからだ。堤防を越えるとすぐに狭い砂浜が広がっているが、波は荒く高い。それは急に深くなっているからだという。
小松左京の『日本沈没
そんな具合で年に数度、授業中に"海"に行けば、そこもぼく達の遊び場のテルトリーと化してゆく。
ぼく自身も、自転車の補助輪がとれたあたりから、友人数人と一緒に、もしくはたった独りで浜辺に向かった事が、何度もある。
その"海"に向かう路は、いくつかのルートがあった。
北から南へと真直ぐに向かう四車線の道路を向かう路。細くて狭い川に沿って向かう路。遠回りして、観光地とは名ばかりの遺跡を巡って向かう路。途中途中に本屋やらお菓子屋やら寄り道しながら向かう路。
いくつもあるのだけれども、いずれの場合も"海"に向かう途中で街並が次第に途絶え、田圃が広がり出す。そして、その頃には向かう先を通せんぼする様に、高速道路が右から左へと抜けてゆく。
その先の向こうにその一角があった。さっき書いた川沿いのルートを選べば、嫌でもそこに辿り着く。
最初は狭くて細い川も、その辺りに着いた頃には、かなり広いものとなっている。道路に例えると、一車線の小道が四車線の産業道路になった様な広さだ。広くはなっても護岸工事の様なものはされてなくて、川の両側には雑草が生い茂り、近隣の生活排水が流れ込んでいるのだろうか、濁った澱んだ色彩を放っていた。
と,同時に"海"からの潮の香りも混じり、独特の歪んだ匂いが辺り一体に満ちていた。
そこを通るぼく達は、口々に臭い臭いとこれみよがしに大騒ぎした。授業の一環でそこを歩き抜けたり"マラソン"して通る時は、尚更だった。実際に臭かったけれども、ぼく達が騒いだのは別の理由があった。その匂いで、その先にある"海"がもうまもなくの近さに辿り着いたと気づかされるからだった。引率の担任達は、くちぐちに臭い臭いを注意したけれども、注意されればそれだけ余計に騒ぐものだ。
だって、先生、ホントに臭いんだよ、と。そして"海"の予感にこころ踊らせていたのだ。
しかし、ぼく達の騒ぎを他所に、その一帯は静まり返っていた。いつ沈没してもおかしくない様な幾艘かの小舟が岸に繋がれていて、川沿いに並んだ木造家屋は軒並み古ぼけていた。色あせた壁や貼付けたトタンから赤茶けた錆色がのぞいていたのだ。
ヒトは棲んでいる筈なのに、そしてその家々のどこかには誰かが居る筈なのに、なぜだか、不気味に押し黙っているのだった。
そこがどういう場所だったかは、もうしばらく後になって理解する事だった。
そして、沈黙の中で、臭い臭いと囃し立てているぼく達を、彼らがじっと観ていた事も。
次回は「り」。

映画『泥の川
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