2011.03.15.17.46
- でも、皿としては使えるのだろう!?
- "そこ"が問題なんだ
次回は「い」。
で、終わってしまってもいい様な気がして仕様がないのだけれども、もう少し続ける事にする。
貧乏性なのか、小心者なのか、それとも単にサービス精神が旺盛なのかは、判断が尽きかねるところではあるのだけれども。
"みもふたもなくてそこにもんだいがある"物体とはなんなのか、それは言うまでもなく [と断定してしまってもいいのだろうか!?] クラインの壷 (Kleinsche Flache) の事である。
つまり、表と裏の区別のない二次元 (Two-dimensional Space) 曲面の事で、ぱっと観は溲瓶 (A Chamber Pot) の様なぐにゃっとした壷の様な瓶の様な形状をしている。
確かに、二次元 (Two-dimensional Space) 上に描写されたその独特のフォルムを観ると、"ふた"もなければ"そこ"もない。そして、表と裏の区別がないという前提がある以上、なかにナニカを収納して"み"とする事も出来ないのである。

ぼくがこのオブジェ [と言おうか概念と言おうか] を知ったのはかなり遅くて、一年の浪人期間を終えて大学生となった、上京したての頃である。
つまり、浅田彰 (Akira Asada) の『構造と力 記号論を超えて
』を読んでの事なのだ。当時、大ベストセラーとなったその単行本には、クラインの壷 (Kleinsche Flache) のイラストが描かれていて、その本文の中にも、きちんと登場していた筈なのである。
筈なのであるが、当時のぼくにとってはかなり難易度が高かった様で、クラインの壷 (Kleinsche Flache) という魔術的な響きは確かに憶えているが、そして、その特徴である表も裏もないという特徴は確かにこの本で学んだのだが、肝心要の内容はとんと憶えていない。
ぼくが憶えているのは、社会秩序の生成を円錐形のモデルで語るという件で、ぼくの友人達も殆どがその辺りを絶賛していた様な記憶がある。
とは言うものの,当時、ぼくらが参加していた自主ゼミで、その友人のひとりが言及したところ、自主ゼミの主宰者から、だからお前は読みが浅いんだと罵倒されていたから、『構造と力 記号論を超えて
』の主軸となるテーマは、きっと別のところにあったのだろう。
尤も、浅くない読み方もしくは深い読み方をその先輩から呈示された記憶はないんだけれどもね。
閑話休題 [あだしごとはさておき]。
クラインの壷 (Kleinsche Flache) の、その最大の特徴であると同時に、最も単純明快な説明である"裏と表の区別がつかない"であるが、これを純粋に言葉の羅列のみで説明しようとすると、意外と苦労する。
だから、大概は、こういう解説を加えるのではないか。
メビウスの帯
(Mobiusband) の三次元 (Three-dimensional Space) ヴァージョン。帯を一回転捻って繋いだ、あれである。
メビウスの帯
(Mobiusband) ならば、ぼくたちの世代にとっては、M. C. エッシャー (M.C.Escher) や安野光雅 (Mitsumasa Anno) らの作品のモチーフとして充分に馴染みがあるし、それ以上に、この帯を使ったテーブル・マジック (Magic Table) の素材としても、よく知られたものであった。
「ここに一本の帯があります。この帯を一回転捻って繋いだその帯を、こうやってはさみで切って行くと、 ... 、あら不思議」
「ではさらに、別の帯を、今度は二回捻って繋いで、それをさっきと同じ様に切って行くと、 ... 、ほうら不思議」
「それでは今度は、さっきと同様に一回捻った帯を、みっつに切り分けると、 ... 、おやおや今度はこぉんな不思議」
こんなたわいもない手品を通じて、ぼくたちは、TVのブラウン管や巨きなスクリーンに踊る、四次元怪獣 (Four-dimensional Monster) や異次元宇宙人 (Multi-dimensional Alien) を身近に感じたものなのである。
つまり、メビウスの帯
(Mobiusband) は、そのまま物理 (Physics) や数学 (Mathematics) で言うところの次元 (Dimension) という概念の教材であると同時に、そこからさらにSFへと踏み込んで、時間旅行 (Time Travel) の可能性をも示唆したものだったのである。
にも、関わらずに、メビウスの帯
(Mobiusband) の"一次元上の存在" [こういう言い方が不適切だとしたら、メビウスの帯
(Mobiusband) の三次元 (Three-dimensional Space) 的存在? これはこれで不都合が生じるかもしれないって、さっき既に使ってしまったけど] であるところの、クラインの壷 (Kleinsche Flache) は、なかなかぼく達の前に姿を顕わす事はなかった。
現に、就学以前に馴染んだメビウスの帯
(Mobiusband) から数えて、十数年後の大学時代にぼくはクラインの壷 (Kleinsche Flache) に出逢えたのである。
もちろんその遠因は、ぼく個人の事情で言えば、理系ではなくて文系を選択したからかもしれないし、さらに言えば、ぼくの高校では物理 (Physics) は理系学生だけが学ぶ選択科目だったからかもしれない。
閑話休題 [それはともかく]。
高校生時代に読み耽ったブルーバックスの、次元 (Dimension) の解説書やその次元 (Dimension) の理解の先にある相対性理論 (Theory Of Relativity) の解説書にも、クラインの壷 (Kleinsche Flache) は、登場してこなかったと記憶している。
例えば。六つの正方形 (Square) を折り畳んで出来るのが立方体 (Cube) であるとするならば、八つの立方体 (Cube) を折り畳んで出来るのが四次元 (Four-dimensional Space) 上の超立方体 (Hypercube) なのである。
例えば、ある平面を球 (Ball) が通り抜けるとしたらそれは、ある一点が発生してそれがちいさな球 (Ball) となりそれがどんどんと膨らんでいく。その膨らんだ球は今度は徐々に縮んでいってひとつの点となり、最後には消失してしまう。それと同様な事を、三次元 (Three-dimensional Space) 空間を四次元 (Four-dimensional Space) 的な存在である超球 (Four-dimensional Ball) が行ったら、我々にはどう観えるか。
その言に従って思考を飛躍させると、メビウスの帯
(Mobiusband) をどうにかするとクラインの壷 (Kleinsche Flache) が出来そうな気もするし、四次元 (Four-dimensional Space) 上の存在であるクラインの壷 (Kleinsche Flache) が我々の眼の前に顕わしたその姿が、メビウスの帯
(Mobiusband) であってもいい様な気もする。
しかし実際には、そんな思考実験の素材としての、クラインの壷 (Kleinsche Flache) にぼくが出逢う事はなかったのである。それは、偶々に、ぼくが遭遇出来なかっただけで、他の多くのヒトビトは容易くクラインの壷 (Kleinsche Flache) に出逢えていたのだろうか。
それは、分らない。
ただひとつ言えるのは、その後に観た書物やネット上に登場するクラインの壷 (Kleinsche Flache) の言い訳がましい、心もとないあり様の事だ。
メビウスの帯
(Mobiusband) が三次元 (Three-dimensional Space) 空間で再現可能なのは当然なのだが、クラインの壷 (Kleinsche Flache) は"ここ"では存在不可能なのだ [だからこそクラインの壷 (Kleinsche Flache) の"ここ"での姿がメビウスの帯
(Mobiusband) ... という様な発想をしてしまうのである]。
二次元 (Two-dimensional Space) 画面のクラインの壷 (Kleinsche Flache) の描写に顕われる破線の存在や、実際のオブジェやCG空間での壷自身を交叉させて、ようやくこの壷は描写出来るのだ。手前から観て観えない部分を想起させるのに破線を使って描写するのは致し方ないとしても、自身の中に突っ込んだ部分を平然と観せて、それで"表と裏の区別のない"と宣言されても、眉唾してしまうのだ。
そんな、ある意味、惨めな佇まいが、ぼくにはどうしても溲瓶 (A Chamber Pot) を思い起こさせてしまうのかもしれない。
とっても、やるせない気持ちになってしまうのである。
せめて、メビウスの帯
(Mobiusband) のテーブル・マジック (Magic Table) の様に、クラインの壷 (Kleinsche Flache) を素材にしてだれか片付けてくれないものだろうか?
「ここに一本の棒があります。この帯を一回転捻って繋いだその環を、こうやってはさみで切って行くと、 .... 、あら不思議」
附記:
エントロピー (Entropy) という概念を、トマス・ピンチョン (Thomas Pynchon) という作家の名とともに彼の短編『エントロピー
(Entropy)』でぼくが知り得た様に、岡嶋二人の小説『クラインの壷
』で慣れ親しんだヒトビトも、今は多いんだろうなぁ。
尤もその刊行は1989年だから、作家が『構造と力 記号論を超えて
』を読んだ後の事なのかもしれないが [刊行は勁草書房より1983年]。
- "そこ"が問題なんだ
次回は「い」。
で、終わってしまってもいい様な気がして仕様がないのだけれども、もう少し続ける事にする。
貧乏性なのか、小心者なのか、それとも単にサービス精神が旺盛なのかは、判断が尽きかねるところではあるのだけれども。
"みもふたもなくてそこにもんだいがある"物体とはなんなのか、それは言うまでもなく [と断定してしまってもいいのだろうか!?] クラインの壷 (Kleinsche Flache) の事である。
つまり、表と裏の区別のない二次元 (Two-dimensional Space) 曲面の事で、ぱっと観は溲瓶 (A Chamber Pot) の様なぐにゃっとした壷の様な瓶の様な形状をしている。
確かに、二次元 (Two-dimensional Space) 上に描写されたその独特のフォルムを観ると、"ふた"もなければ"そこ"もない。そして、表と裏の区別がないという前提がある以上、なかにナニカを収納して"み"とする事も出来ないのである。

ぼくがこのオブジェ [と言おうか概念と言おうか] を知ったのはかなり遅くて、一年の浪人期間を終えて大学生となった、上京したての頃である。
つまり、浅田彰 (Akira Asada) の『構造と力 記号論を超えて
筈なのであるが、当時のぼくにとってはかなり難易度が高かった様で、クラインの壷 (Kleinsche Flache) という魔術的な響きは確かに憶えているが、そして、その特徴である表も裏もないという特徴は確かにこの本で学んだのだが、肝心要の内容はとんと憶えていない。
ぼくが憶えているのは、社会秩序の生成を円錐形のモデルで語るという件で、ぼくの友人達も殆どがその辺りを絶賛していた様な記憶がある。
とは言うものの,当時、ぼくらが参加していた自主ゼミで、その友人のひとりが言及したところ、自主ゼミの主宰者から、だからお前は読みが浅いんだと罵倒されていたから、『構造と力 記号論を超えて
尤も、浅くない読み方もしくは深い読み方をその先輩から呈示された記憶はないんだけれどもね。
閑話休題 [あだしごとはさておき]。
クラインの壷 (Kleinsche Flache) の、その最大の特徴であると同時に、最も単純明快な説明である"裏と表の区別がつかない"であるが、これを純粋に言葉の羅列のみで説明しようとすると、意外と苦労する。
だから、大概は、こういう解説を加えるのではないか。
メビウスの帯
メビウスの帯
「ここに一本の帯があります。この帯を一回転捻って繋いだその帯を、こうやってはさみで切って行くと、 ... 、あら不思議」
「ではさらに、別の帯を、今度は二回捻って繋いで、それをさっきと同じ様に切って行くと、 ... 、ほうら不思議」
「それでは今度は、さっきと同様に一回捻った帯を、みっつに切り分けると、 ... 、おやおや今度はこぉんな不思議」
こんなたわいもない手品を通じて、ぼくたちは、TVのブラウン管や巨きなスクリーンに踊る、四次元怪獣 (Four-dimensional Monster) や異次元宇宙人 (Multi-dimensional Alien) を身近に感じたものなのである。
つまり、メビウスの帯
にも、関わらずに、メビウスの帯
現に、就学以前に馴染んだメビウスの帯
もちろんその遠因は、ぼく個人の事情で言えば、理系ではなくて文系を選択したからかもしれないし、さらに言えば、ぼくの高校では物理 (Physics) は理系学生だけが学ぶ選択科目だったからかもしれない。
閑話休題 [それはともかく]。
高校生時代に読み耽ったブルーバックスの、次元 (Dimension) の解説書やその次元 (Dimension) の理解の先にある相対性理論 (Theory Of Relativity) の解説書にも、クラインの壷 (Kleinsche Flache) は、登場してこなかったと記憶している。
例えば。六つの正方形 (Square) を折り畳んで出来るのが立方体 (Cube) であるとするならば、八つの立方体 (Cube) を折り畳んで出来るのが四次元 (Four-dimensional Space) 上の超立方体 (Hypercube) なのである。
例えば、ある平面を球 (Ball) が通り抜けるとしたらそれは、ある一点が発生してそれがちいさな球 (Ball) となりそれがどんどんと膨らんでいく。その膨らんだ球は今度は徐々に縮んでいってひとつの点となり、最後には消失してしまう。それと同様な事を、三次元 (Three-dimensional Space) 空間を四次元 (Four-dimensional Space) 的な存在である超球 (Four-dimensional Ball) が行ったら、我々にはどう観えるか。
その言に従って思考を飛躍させると、メビウスの帯
しかし実際には、そんな思考実験の素材としての、クラインの壷 (Kleinsche Flache) にぼくが出逢う事はなかったのである。それは、偶々に、ぼくが遭遇出来なかっただけで、他の多くのヒトビトは容易くクラインの壷 (Kleinsche Flache) に出逢えていたのだろうか。
それは、分らない。
ただひとつ言えるのは、その後に観た書物やネット上に登場するクラインの壷 (Kleinsche Flache) の言い訳がましい、心もとないあり様の事だ。
メビウスの帯
二次元 (Two-dimensional Space) 画面のクラインの壷 (Kleinsche Flache) の描写に顕われる破線の存在や、実際のオブジェやCG空間での壷自身を交叉させて、ようやくこの壷は描写出来るのだ。手前から観て観えない部分を想起させるのに破線を使って描写するのは致し方ないとしても、自身の中に突っ込んだ部分を平然と観せて、それで"表と裏の区別のない"と宣言されても、眉唾してしまうのだ。
そんな、ある意味、惨めな佇まいが、ぼくにはどうしても溲瓶 (A Chamber Pot) を思い起こさせてしまうのかもしれない。
とっても、やるせない気持ちになってしまうのである。
せめて、メビウスの帯
「ここに一本の棒があります。この帯を一回転捻って繋いだその環を、こうやってはさみで切って行くと、 .... 、あら不思議」
附記:
エントロピー (Entropy) という概念を、トマス・ピンチョン (Thomas Pynchon) という作家の名とともに彼の短編『エントロピー
尤もその刊行は1989年だから、作家が『構造と力 記号論を超えて
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