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2011.01.04.00.10

黒澤明『七人の侍』をリメイク出来るのか? 第三回 / Can We Remake "Seven Samurai" directed by Akira Kurosawa? part 3

第一回 (Part One) では、現在活躍中の俳優 / タレント / 芸人で、実際にキャスティングし、第二回 (Part Two) では、その反省会(?) を兼ねて総評を書いてみた。

これでお仕舞い。

でも、いいのかもしれないのだけれども、映画はキャスティングが総てではないし、むしろ、ここから本格的な制作が始る。

と、いう訳で、もう少し、その可能性を考えてみる事にする。

現実的には、リメイク (Remake) 作品の脚本と監督を、どうしたらよいのだろう、誰に委ねたらよいのだろう、という問題である。

第一回 (Part One) で発表したキャステイング案では、そんな事は一切、考えていない。と、いうか、あの台詞を誰に語らせたいのか、とか、あのシーンでのあの行動を誰にやらせたいのか、そんな事ばかりに拘わっていた。
つまり、『七人の侍 (Seven Samurai)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1954年制作] の脚本をそのまま流用し、そのカット割りやアングルをそのまま盗用する事しか考えていなかったのである。

勿論、そんなリメイク (Remake) だって、一向に構いやしないのだ。そんな事は充分に解っている。だけれども、それはこの映画の脚本を共同執筆した橋本忍 (Shinobu Hashimoto)、小国英雄 (Hideo Oguni) やその映像を撮影した中井朝一 (Asakazu NAKAI)、そして彼らを束ねた黒澤明 (Akira Kurosawa) を顕彰する事しかできやしない。
リメイク (Remake) であると言う事は、モノを創る事を生業にするモノにとっては、それだけで敗北宣言を掲げる様なものだけれども、せめて一太刀だけでも浴びせかけて、忘れられないリメイク (Remake) を創り上げたいとも思うのだ [そうは思わないかい??]。一介の映画ファンでしかないぼくですら、そう思うのだから、もし仮に、この『七人の侍 (Seven Samurai)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1954年制作] を再び手掛けようと思う物好きな怖い者知らずな映画関係者が現れるのならば、そのぐらいの気概は発露してもらいたい。と、思う。

そこで、とりあえず、映像の事は忘れて、物語だけに執着してみよう。

とはいうものの、改めて、この物語の脚本を改稿したくても、実は手の付けどころがないのだ。

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しかし、だからと言って、この物語の脚本が、綿密に緻密に、そして堅牢に構築された物語かと問えば、実は、そうでもない。むしろ、エピソードやシーンを結びつけるものの間には、断絶もあれば飛躍もある。敢て言えば、御都合主義 (Deus ex machina / God From The Machine) の連続だ。
例えば、映画は野武士が数騎、村を臨んで言葉を交わすシーンから始る。それを物陰から偶々聴いていた伍作 (Gosaku) [演:榊田敬二 (Keiji Sakakida)] が村に報告する訳なのだが、次のシーンでは、既に農民達が集まって車座となって悲嘆に暮れている。
本来ならば、あり得る筈の村の危急存亡を告げて廻るシーンもなければ、伍作 (Gosaku) [演:榊田敬二 (Keiji Sakakida)] が観て来た事聴いて来た事を報告するシーンすらない。
これがどんなに凄い事なのかは、TVで御馴染みの時代劇 (Jidaigeki) を想い出してみれば解る。
「親分、てぇへんだ、てぇへんだ」「おう八、やぶからぼうにどした、てめえのてえへんだは、いい加減、聞き飽きたぜ」という定型が一切、ないのである。
勿論、そんなシーンがない理由もよく解る。つまり尺の問題だ。『七人の侍』の上映時間は、本編207分。上映時間だけを考えれば、かなり長いし、それは興行収益にもそのまま響く。だから、定型はとことんまでも切り詰められている。

変な例えで申し訳ないのだけれども、『津軽海峡・冬景色』 [作詞:阿久悠 (You Aku) 作編曲:三木たかし (Takashi Miki) 歌唱:石川さゆり (Sayuri Ishikawa)] が、以前の艶歌 (Enka) では上野発の夜行列車に乗るシーンから始るところをいきなり青森駅に着いたシーンから唄い始めている様なものなのである。

農民も侍達 (Samurai) も一堂に会した場所で、喪ったものの大きさに悲嘆にくれているシーンがある。風が強く吹いて、村の集会所であるそこには、昨日までいた筈の者達の何人かが欠けている。その欠落と沈痛に絶えかねた菊千代 (Kikuchiyo) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune)] が、いきなり旗を掴んで、百姓屋の一軒によじ上る。そして、手にした旗を屋根に掲げる。旗が強い風に煽られて、その旗に描かれたシンボル:七人の侍 (Seven samurai) と農民達が大きく画面に映し出される。
そして、菊千代 (Kikuchiyo) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune)] は観る。迫り来る敵、野武士達の姿を。
彼は、歓喜に絶えかねて、叫ぶ。

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先程まで沈痛の限りに絶えかねたモノが、その沈痛の源である敵を見出して、恐怖でも絶望でも悲鳴でもなく、何故、喜びの声を挙げられるのか。
この大きな感情のうねり、これは物語の断絶と飛躍の筈なのに、この映画に向き合うぼく達も菊千代 (Kikuchiyo) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune)] と同じ様に、歓喜の渦に巻き込まれるのだ。

本来ならば、そんな断絶と飛躍が存在するのならば、物語は破綻するのである。例え破綻はしなくとも、観るモノに必要以上な想像力と創造力を働かさせて、その結果,物語を観るモノのヒトリヒトリに、異なる解釈や異なる物語を創り出させるのだ [勿論、作品によっては、意図的にそれを行っているものもあるし、ある種のミステリーやホラーはその錯誤を演出してこそ成立しているのだが]。

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ところが、『七人の侍 (Seven Samurai)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1954年制作] では、その様な事は先ず、起こりえない。その様な事態を誘発され得ない様な、構築がされている。
例えば、利吉の女房 (Rikichi's Wife) [演:島崎雪子 (Yukiko Shimazaki)] だ。己の居住している野武士の隠れ処が火災に見舞われている事に気づき、火災現場から辛くも逃れたとみれば、眼前にかつての夫、利吉 (Rikichi) [演:土屋嘉男 (Yoshio Tsuchiya)] がいる。火災の原因がその夫である事を知るや、業火の中に我が身を投じてしまう。
彼女のこの行為で、彼女の身に何があったのか総て解った気になるし、利吉 (Rikichi) [演:土屋嘉男 (Yoshio Tsuchiya)] が何故、野武士と戦おうとしその隠れ処への道案内をかって出たのか、その一切が解ってしまう。と同時に、万造 (Manzo - Father of Shino) [演:藤原釜足 (Kamatari Fujiwara)] が何故、己の娘である志乃 (Shino) [演:津島恵子 (Keiko Tsushima)] の髪を切って男装させたのか、そこまでも理解が行き届いてしまう。
それと言うのも、彼女自身を名指ししないまでも、物語が進む過程の中で、彼女 [の様な境遇に陥った女] の存在を推察させる物謂いが、物語の発端から農民達の語る台詞の端々に登場しているからなのだ。
"伏線"...と、呼べるものかどうかは解らないけれども、その様な言及は彼女に関してのみならず、随所に登場している様に思える。
だからこそ、最期の決戦前夜に志乃 (Shino) [演:津島恵子 (Keiko Tsushima)] が岡本勝四郎 (Katsushiro Okamoto) [演:木村功 (Isao Kimura)] の許へと忍んで行ったのかも、理解出来てしまうのだ [尤も、本作品が公開された1954年では、観客の殆どが戦争体験者だったから、ぼくがここで書いた事柄のいちいちも、言わずもがなのかもしれないが。つまり、いつ死ぬか解らないその時に、ナニをしたいのかという事なのだけれども]。

ひとつひとつの映像の中に込められた情報量が究めて濃厚だからなのかもしれない。

と、同時に削るところは思い切って削っているのだ。
喜怒哀楽を始めとする感情の迸りの一切は、殆ど、菊千代 (Kikuchiyo) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune)] ひとりに任せてある。島田勘兵衛 (Kanbei Shimada) [演:志村喬 (Takashi Shimura)] が感情的になる事は、殆どない。
ある意味、登場人物のひとりひとりは記号化させてある。

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させてはあるが、常にその正反対の性質をどこかで発露させている。例を挙げるならば、農民の中で、最も、惨めで臆病で非力な与平 (Yohei) [演:左卜全 (Bokuzen Hidari)] に、野武士を一人、槍で刺し貫かさせているのだ。
一見役立たずの足手まといにしか観えない彼が、侍 (Samurai) のスカウトに同行しているのは、作劇上のコメディ・リリーフ (Comic Relief) としての登用というだけではない。コメディ・リリーフ (Comic Relief) だったら、強そうな浪人 (Samurai) [演:山形勲 (Isao Yamagata)] 一人で充分だ。与平 (Yohei) [演:左卜全 (Bokuzen Hidari)] の言動が、殆どの農民達の心情を象徴させて発露させる為なのだ。スカウトに向かう他の三人:利吉 (Rikichi) [演:土屋嘉男 (Yoshio Tsuchiya)]、茂助 (Mosuke) [演:小杉義男 (Yoshio Kosugi)] そして万造 (Manzo - Father of Shino) [演:藤原釜足 (Kamatari Fujiwara)] は、一般の農民達とは少し離れたところに、己の目的意識がある。彼ら三人は、農民を代表するモノではないのだ。
しかも、いざ、戦いが始まると、その最も惨めで臆病で非力な与平 (Yohei) [演:左卜全 (Bokuzen Hidari)] が、野武士を刺し殺すシーンを描写する。
菊千代 (Kikuchiyo) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune)] が村に隠されていた武器を発見して持ち出して来た際に、島田勘兵衛 (Kanbei Shimada) [演:志村喬 (Takashi Shimura)] らが言及した農民達の狡さや強さをも、与平 (Yohei) [演:左卜全 (Bokuzen Hidari)] のこのシーンを投入する事によって、描き出しているのだ。つまり、他の農民達も大同小異、与平 (Yohei) [演:左卜全 (Bokuzen Hidari)] と同じ様に、怯え畏れおののきながらも、戦ったのであろうと、観客に想起させるのだ。
そんな与平 (Yohei) [演:左卜全 (Bokuzen Hidari)] の様な、ヒトならば誰でもが持つであろう二面性を惜しみなく、総ての登場人物達に曝け出させているのだ。

だから。だから? そう、だから。

もしこの作品をリメイク (Remake) するのであるならば、もっと登場人物ひとりひとりの内面、特に闇の部分を照射する様な脚本が出来ないのか。そんな想いに囚われる。
ヒトが喪われる度に苦悩する島田勘兵衛 (Kanbei Shimada) [演:志村喬 (Takashi Shimura)] とか、戦略上の方法論の違いで対立し激昂する片山五郎兵衛 (Gorobe Katayama) [演:稲葉義男 (Yoshio Inaba)] とか、戦い直前に怯える七郎次 (Shichiroji) [演:加東大介 (Daisuke Kato)] とか、夜這いをかけようとする菊千代 (Kikuchiyo) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune)] とか、戦線離脱を図ろうとする林田平八 (Heihachi Hayashida) [演:千秋実 (Minoru Chiaki)] とか、合戦途上であろうと眠りを貪る久蔵 (Kyuzo) [演:宮口精二 (Seiji Miyaguchi)] とか。
七人の侍 (Seven Samurai)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1954年制作] では、最も若い岡本勝四郎 (Katsushiro Okamoto) [演:木村功 (Isao Kimura)] の夜にフォーカスをしていたけれども [そしてそれは戦争を体験した当時の観客の殆どの心情だったのかもしれないけれども]、戦い前夜に抱く、こころの揺れ動きを、もっと、丁寧に描けられないかなぁと思う。
但し、あまりに人間臭い設定は、『荒野の七人 (The Magnificent Seven)』 [ジョン・スタージェス (John Sturges) 監督作品 1960年制作] で既に試みられてはいるのだが。

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今回で終わろうかと思っていたけれども、もう少し。
第四回 (Part Four) へと続きます。
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