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2010.12.14.18.28

ないたあかおに

この童話は入園したばかりの保育園 (Nursery school) で読んだ記憶がある。二年保育で入園した筈だから当時、ぼくは四歳。その時の読後感を辿ろうとしても流石に無理だ。
ただ憶えているのは、大きな絵本一面に、赤鬼が真っ赤な背中をこちらに向けて涙している姿と、その片隅にある、白雲に乗りながら、手を振る青鬼のにこやかな笑顔だった。

この記憶が正しいのかどうなのか、今、確認する術はない。ネットで検索して登場する、幾つかのこの絵本の表紙を観ても、なぜだかぼくの記憶と違う。四歳のぼくが観た絵本と同じ表紙をしたものを見出す事は出来ていない。

この絵本『ないたあかおに』の作者は浜田廣介偕成社から1965年に出版されたものが初出だという。
と、言う事は、四歳のぼくは新刊間もないこの童話を読んだ事になるのだけれども、ちょっと意外な印象だ。

読んだばかりの四歳のぼくが解る筈はないのだけれども、この童話が、江戸時代以前からある旧くからの童話でない事も、戦前戦中の作品でもない事も、もう数年すれば解ってしまうのである。
しかも、戦後の民主主義教育とやらの賜物であるに違いないとは、次第に知れてしまうのである [なぜ知れてしまうのかは、後でこっそりと触れる]。が、それにしても1965年とは思わなかった。戦後間もなく、例えば憲法 (The Constitution Of The State Of Japan) とか教育基本法 (Fundamental Law Of Education) とかが制定された直後に発表された作品だとばかり思っていたのだ。

と、いうのは、この童話の物語に準拠したと思われるドラマツルギーを、嫌という程に、ぼく達は観て来たからだ。
例えば、赤鬼青鬼の友情を軸に観れば、育んできた友情が存在するが故に、袂を分って相争わなければならなかった伴宙太星飛雄馬の物語がある[『巨人の星』 [1968年~1971よみうりテレビ]]。
例えば、己の出自を否定し、ただ人間との友情を求め彷徨っていた三匹の妖怪人間の物語がある [『妖怪人間ベム』 [1968年~1969フジテレビ]]。

つきつめて考えれば、鬼太郎にもウルトラマンウルトラセブンにも、『ないたあかおに』は潜在している。
妖怪族の最期の生残りから徐々に正義の味方へと変節していった鬼太郎に関しては、実写版映画第一作『ゲゲゲの鬼太郎』[ 2007本木克英監督作品] の原作となった『妖怪大裁判』と言うエピソードにおいて、鬼太郎の妖怪としてのアイデンティティーは、既に疑われているのだ。
「お前は妖怪の仲間なのか、人間の味方なのか」と。
ウルトラ・シリーズで言えば、侵略者たる宇宙人からウルトラマンウルトラセブンは、[地球人ではない] 宇宙人としてのアイデンティティーを疑われる一方で、侵略者ではない、地球人に友好的な宇宙人も登場する。

そん連想を展開して行くと『怪獣使いと少年』 [1971東條昭平監督作品] も思い浮かぶ。

images
しかし、敢て言えば『ダーク・ゾーン』 [1967満田かずほ監督作品] に登場したペガッサ星人に、ぼくは『ないたあかおに』を観てしまうのだ。
己の同朋を救うが為に独り、地球に顕われるダーク・ゾーンの住人。彼は地球破壊指令を受けているのにも関わらずに、地球人達と親交を結んでしまう。そして、己の使命を達成出来ず、その結果、同朋総てを喪ってしまったが為に、独り、地球の闇の中に活きてゆくのだ。
ないたあかおに』を非常にペシミスティックなドラマへと舵を切らせたら、こんな物語になっても不思議ではないと思うが、どうだろう。

と、『ないたあかおに』はぼく達にとっては好む好まざるとに関わらず、非常に馴染み深い物語でもあるのだが、それを支えるものは逆に非常に脆弱だ。

それは鬼とはどんなものであるのか、という事前の認識がなければ、この童話は成立しないという事だ。
例えば、『桃太郎』に登場する鬼は、主人公の一行によって退治されるべき存在である、という事さえ解っていれば、物語は成立する。
また例えば、『こぶとりじいさん』では、夜な夜な集まる得体の知れない、しかし、何故だか親近感を抱かせるモノという認識で充分だ。
しかし、『ないたあかおに』では、そうはいかない。何故、彼が人間に忌み嫌われなければならないのか。もうちょっと突っ込んだ言い方をすれば、鬼に対して持っている人間の偏った見方を、読者も共有していなければ、この物語は成立しないのだ。

それは、大仰なものではないんだよ。

英雄に退治されるべき鬼だとか、身体の一部=瘤をとったりくっつけたり自在に出来る鬼だとか、要は、物語に登場する人間達が鬼を畏れる理由が理解出来ていればいいのだ。

物語はそこ、つまり人間が持っている鬼への偏見から始る物語であると同時に、それに立ち向かった二匹の鬼の物語なのだから。

とは、いうもののそんな勇ましい物語ではない事は自明の事だ。

その時の読後感を思い出すのは無理だと最初に書いたけれども。こうやって書いて行くに連れて、初めて読んだ時の印象を想い出した。
なんて女々しい奴なんだ、と。

と、いうのも当時のぼくが、この『ないたあかおに』の様に、よく泣いたからだ。けんかに負けてよく泣いていた。しかも、泣くくせによくけんかした。母親に叱られてよく泣いた。しかも、泣くくせによく叱られてしまう様な事をしでかした。しかも、けんかしない様にしろとか、叱られない様にしろ、お前は要領が悪いと父親に言われて、さらに涙ぐんだりする。

だから、読んだ当時から『ないたあかおに』の女々しさが許せなかったし、こんな女々しい童話は、長じてからも嫌いで、今でも大嫌いだ。
泣いてばかりいたぼくにとっては、やさしさと言えば聞こえはいいが、それは甘えにも通じる様に思えて仕様がない。

思春期を迎えたぼくが、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche) を読み耽った意味を、これで"きみ"に理解してもらえるだろうか?

と、言う様な句繰り言はさておき。

この物語を冷静に、もう一度読み直してみる。

底辺にあるのは、誤解と偏見だ。人間と鬼との間にある分ち難いそれを、どうやって打開出来るかと言う、物語である [ちなみに上に掲載した画像、すなわちひし美ゆり子 (Yuriko Hishimi) 扮する友里アンヌ隊員の背後から襲いかかろうとするペガッサ星人という構図は、本編には一切登場しない。にも関わらずに、ウルトラセブンに登場する宇宙人の類型を観るに、これ程、相応しい構図もないのも事実なのだ] 。
そしてそれを乗り越える為に発動された作戦が、誤解と偏見を逆に利用するというものだった。
その作戦の結果、主人公自身は、誤解と偏見を乗り越えたところに無事に着地出来る。
しかし同時に、それによってあるものを喪ってしまう。
しかも、本来ならば克服すべき誤解と偏見は、未だにそこにある。だからこそ、二匹の鬼は、二度と会う事は出来ない。

物語の最期に登場する一文、「その後、赤鬼が青鬼と再会することはなかった」の重みをもう少し、考える必要があるのではないか。

次回は「」。

p.s.:ところで、童話に登場する二匹の鬼の性格付けが、赤と青というふた色の肌の違いで行われているところに関心していたりする。
激情型のあかおにと理性派のあおおにという差別化だ。『ゲッターロボ1974年~1975フジテレビ] では赤青黄の三原色だし、戦隊ものでは五色だけれども、相対峙するふたりのキャラクターの色分けと観れば、基本中の基本だ。
しかも男同士ではなくて、女同士の図式の中で、それは明瞭にある。それは髪の色。ブロンド (Blonde) とブルネット (Brunette) の物語だ。例証を漁り出したらきりがないので一例だけ挙げる。『何がジェーンに起ったか? (What Ever Happened to Baby Jane?)』 [1962ロバート・アルドリッチ (Robert Aldrich) 監督作品] で姉妹を演じた、ベティ・デイヴィス (Bette Davis) とジョーン・クロフォード (Joan Crawford) だ。
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