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2010.11.09.19.06

けんとうし

以前こちらで書いた『けんずいし』のひそみにならって、"宝船 (Treasure Ship) の様な方舟 (Noah's Ark) の様な"と切り出して、竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) ・相原コージ (Koji Aihara) 共著の『サルまん サルでも描けるまんが教室 (Even A Monkey Can Draw Manga)』で描写された「630遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) 犬上御田鍬 (Inugami No Mitasuki)」を紹介したい欲望にふとかられるけれども、"それについては各自で原著に当たって欲しい"と斬り捨てた手前、やっぱり書かないにこした事はないのだ。

と、国会で青島幸男が決めたのだ口調を思わずしてしまったのだけれども、遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) に関しては、いくつもの謎がある。
そのひとつについて書いてみる。

最初の遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) である犬上御田鍬 (Inugami No Mitasuki) が派遣されたのが、冒頭に記した様に、630年。そして最期の遣隋使 (Japanese Missions To Sui China) が615年。この間に、 (Sui Dynasty) が滅ぼされて (Tang Dynasty) が興っている [618年] 訳だが、当時の大和朝廷 (The Yamato Polity With The Ritsuryo System) の為政者達は、 (Sui Dynasty) と (Tang Dynasty) と [そして中国大陸 (China Proper) と] をどの様に看做していたのだろうか。

つまり、彼の地で行われてしまった (Sui Dynasty) から (Tang Dynasty) へという政権の交代劇を、日本はどの様なものと観ていたのだろうか、という問題である。

中国大陸 (China Proper) と言う大きな大地を支配し、その大きな大地に先進的な文化文明を開いている民族が運営している政体、そんな意識しかないのでないか。
政権が代わったとか、支配者が代わったとか、そんな認識はなかったのではないだろうか。つまり、大和朝廷 (The Yamato Polity With The Ritsuryo System) が朝貢すべき窓口の担当者が人事異動で代わったという様な、その程度のイメージしかなかったんぢゃあないだろうか。
その証拠....となるのかならないのか、解らないけれども、最期の遣隋使 (Japanese Missions To Sui China) も最初の遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) も、犬上御田鍬 (Inugami No Mitasuki) なのである。
(Sui Dynasty) の政権では受け入れられた事が (Tang Dynasty) の政権では受け入れらない、その逆に、 (Sui Dynasty) の政権では認められなかった事が (Tang Dynasty) の政権では受容されるかもしれない、という事態は想定していないのではなかっただろうか [いや、実際のところはどうだったのかは知らないが] 。

勿論、近現代の、帝国列強時代 (Period Of The Imperialism) の植民地 (Colony) 頃あたりから行われ始めた、ひとつの土地を支配している政体を、他の諸国が認めたり認めなかったり、支持したり支持しなかったり、という様な事態は、当時の大和朝廷 (The Yamato Polity With The Ritsuryo System) と中国大陸 (China Proper) の支配者との間には、あり得なかっただろう。
宗主国が民主独立政権を否定して、自国が打ち立てた傀儡政権を擁護したり、その逆に軍事独立政権をその土地の実行支配者と認めない代わりに、その土地を逐われた亡命政権を外交的な主権者とする、という様な。
そんな立ち居振る舞いは少なくとも、 (Sui Dynasty) ~ (Tang Dynasty) の時代の大和朝廷 (The Yamato Polity With The Ritsuryo System) は成し得なかっただろうし、そんな意識は毫も持っていなかったに違いない。

images
ちなみに。
満州民族 (The Manchu People) による (Qing Dynasty) に対抗し、漢民族 (Han Chinese) の (Ming Dynasty) の復興を期して抵抗運動を行った鄭成功 (Koxinga) の生涯を脚色し、史実とは異なる (Ming Dynasty) の再興の物語『国性爺合戦 (The Battles Of Coxinga)』を近松門左衛門 (Chikamatsu Monzaemon) が書いた。初演は1715年で、実際の国姓爺こと鄭成功 (Koxinga) が台湾 (Taiwan) に"亡命政権"を樹立出来たのは1661年である [上記掲載画像は『国性爺合戦 (The Battles Of Coxinga)』のクライマックス、歌川国芳 (Utagawa Kuniyoshi) による『和藤内虎狩之図』である]。
この頃には、土地とその支配者との関係性というものを、意識出来たのだろうか。
少なくとも、日本は、清朝最期の皇帝である愛新覚羅溥儀 (Aisin-Gioro Puyi) をたてて、1932年に傀儡国家の満州国 (Manchukuo) を興すのだけれども。

<中略>

孟子 (Mencius) 等による易姓革命という概念は知識としてあっただろうし、その易姓革命の結果として (Sui Dynasty) から (Tang Dynasty) へと政権が変わったという認識を、大和朝廷 (The Yamato Polity With The Ritsuryo System) はもっていただろう。
にも関わらずに、当時の大和朝廷 (The Yamato Polity With The Ritsuryo System) から連綿と続く一筋の家系が日本に遺っているのは、どうしてだろうか。
どこかで中国大陸 (China Proper) という土地と、その支配者の構図を混濁している様にも思えるし、また、どこかで中国の [政治] 思想をはねのけている節がある。

そしておそらく、その起因のひとつが、菅原道真 (Sugawara no Michizane) による遣唐使廃止の建議 [894年] なのである。
彼の建議の主張は、だいたい、以下の様なものである。中国から学ぶべきものは学んだし、中国という国自体が疲弊している。その上に隣国との関係も相当悪化している。そんな状況下でこれ以上、危険を賭してかの地へ向かう意義があるのだろうか。
だから、日本の中で熟成しようよ、と。

次回は「」。

当初の目論みでは、遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) として (Tang Dynasty) に渡ったものの遂に帰国出来ずに彼の地で生涯を終えた阿倍仲麻呂 (Abe no Nakamaro) の物語や、その逆に、日本に招聘されてこちらに渡って来た鑑真 (Jianzhen) の物語に触れるつもりが、変な方向に論が進んでしまった。
そして、菅原道真 (Sugawara no Michizane) の遣唐使廃止の建議 [894年] も、もっと大事な要素を孕んでいる様な気もするのだけれども...。
何れ改めて、彼ら自身と彼らの物語を考えてみたい。
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