2010.10.05.18.42
宝船 (Treasure Ship) の様な方舟 (Noah's Ark) の様な湾曲した構造をしている船底をした、木造の大型船舶の甲板 (Upper Deck) に、何故だか鉄棒 (Horizontal Bar) があつらえられていて、その鉄棒 (Horizontal Bar) で、まるで『天才バカボン
(The Genius Bakabon)』のバカボン (Bakabon) の様な格好の、絣の着物 (Kasuri) を着た、間抜け面の女の子 [1?] が焼きたての薩摩藷を口にくわえて、一生懸命に懸垂 (Pull-up) をしている。
と、いうのは竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) ・相原コージ (Koji Aihara) 共著の『サルまん サルでも描けるまんが教室
(Even A Monkey Can Draw Manga)』の一齣だけれども [多分]、この一齣が表象しているのが、「607年 遣隋使 (Japanese Missions To Sui China) 小野妹子 (Ono No Imoko)」なのである。
上に掲載したのは、東京ガス(Tokyo Gas) 『ガス・パッ・チョ!』のCMに登場した小野妹子 (Ono No Imoko)。演ずるのは酒井若菜であります。妻夫木聡 (Tsumabuki Satoshi)もたじたじだ [ってか、彼はいつだってたじたじだけど]。
それに続いて描かれる「630年 遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) 犬上御田鍬 (Inugami No Mitasuki)」は、さらにトホホな画像なのだけれども、それについては各自で原著に当たって欲しい。
と、いうのも、ここやここで触れた"一枚の絵は一万字にまさる" [週刊少年マガジン グラビア『劇画入門』
1970年] に象徴される様な、ヴジュアル論のつづきは、ここではやらないからだ。
607年に、聖徳太子 (Prince Shotoku) によって、中国に派遣された遣隋使 (Japanese Missions To Sui China)・小野妹子 (Ono No Imoko) は、推古天皇 (Empress Suiko) の親書を携えて、隋 (Sui Dynasty) の皇帝・煬帝 (Emperor Yang Of Sui) に謁見している。
その親書には「日出處天子致書日沒處天子無恙云云 (日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや… / The Son of Heaven in the land where the sun rises addresses a letter to the Son of Heaven in the land where the sun sets. We hope you are in good health.」とあって、それを読んだ煬帝 (Emperor Yang Of Sui) の怒りを買った。
この叙述は、『隋書倭国伝 (Book Of Sui)』でみる事が出来る。
と、いうのは学校の歴史の授業で、誰もが皆、習った事柄であると思う。
そして、ぼくもそうだし、このエピソードを学んだ殆どの児童・生徒は、大きな疑問符を抱いたと思う。
なぜ、その親書が中国皇帝の怒りを買ったのだろうか、と。
その疑問符を解消する為に、恐らく次の様な記述が続いていたと思う。
中国から観れば、文化的にも政治的にも遅れているちいさな島国が、帝国と対等に交渉しようとしている点。
「日出處天子 (The Son of Heaven in the land where the sun rises)」という言葉が、己の国が今後さらに発展していくと主張している一方で、「日沒處天子 (the Son of Heaven in the land where the sun sets)」という言葉がその逆に、いずれは中国が没落していくであろうと主張している点。
この二点のいずれか、もしくは、その両方が、親書の解釈であると同時に、煬帝 (Emperor Yang Of Sui) が怒った説明となっていたと思う。
その解釈が正しいのかどうかは、いずれにしても後世の解釈だから、その決着はつかないだろう。
少なくとも後者に関しては誤りであると指摘もし、その上に仏教での用法である「日出處 (the land where the sun rises)」「日沒處 (the land where the sun sets)」を用いたことで中国による冊封体制からの離脱を表明する表現である、という教科書にはもられていない解釈も存在している。
そして、その一方で、日本側がどういう意図をもって、この親書を贈ったのかも解らない。
単純に、聖徳太子 (Prince Shotoku) が執ったいくつかの行動とその結果を推し量っての、推論でしかない。と、そう思う。
一本の親書の解釈を巡って、日本と中国の双方で大きな隔たりがあったと解釈すべきかもしれない。
この両者の認識の齟齬が、当時の為政者のみならずに、国民意識とか国民感情の様な、大きなどんよりとした濁りとなって、ふたつの国の間に留まっている様な気がしてならない。
それは、それぞれの国の、内部での経済的な充実や対外的な政治力や文化の成熟度がどうなろうと変わらない、なかなかやっかいなものではないかと思う。
つまり、今回の尖閣諸島 (釣魚台列嶼 / Senkaku Islands) での衝突事件に限らず、日中間での問題や事件が起きる度に、ぼくはこの親書の記述とそれにまつわるエピソードをふと、想い出してしまうのだ。
次回は「し」。
と、いうのは竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) ・相原コージ (Koji Aihara) 共著の『サルまん サルでも描けるまんが教室
上に掲載したのは、東京ガス(Tokyo Gas) 『ガス・パッ・チョ!』のCMに登場した小野妹子 (Ono No Imoko)。演ずるのは酒井若菜であります。妻夫木聡 (Tsumabuki Satoshi)もたじたじだ [ってか、彼はいつだってたじたじだけど]。
それに続いて描かれる「630年 遣唐使 (Japanese Missions To Tang China) 犬上御田鍬 (Inugami No Mitasuki)」は、さらにトホホな画像なのだけれども、それについては各自で原著に当たって欲しい。
と、いうのも、ここやここで触れた"一枚の絵は一万字にまさる" [週刊少年マガジン グラビア『劇画入門』
607年に、聖徳太子 (Prince Shotoku) によって、中国に派遣された遣隋使 (Japanese Missions To Sui China)・小野妹子 (Ono No Imoko) は、推古天皇 (Empress Suiko) の親書を携えて、隋 (Sui Dynasty) の皇帝・煬帝 (Emperor Yang Of Sui) に謁見している。
その親書には「日出處天子致書日沒處天子無恙云云 (日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや… / The Son of Heaven in the land where the sun rises addresses a letter to the Son of Heaven in the land where the sun sets. We hope you are in good health.」とあって、それを読んだ煬帝 (Emperor Yang Of Sui) の怒りを買った。
この叙述は、『隋書倭国伝 (Book Of Sui)』でみる事が出来る。
と、いうのは学校の歴史の授業で、誰もが皆、習った事柄であると思う。
そして、ぼくもそうだし、このエピソードを学んだ殆どの児童・生徒は、大きな疑問符を抱いたと思う。
なぜ、その親書が中国皇帝の怒りを買ったのだろうか、と。
その疑問符を解消する為に、恐らく次の様な記述が続いていたと思う。
中国から観れば、文化的にも政治的にも遅れているちいさな島国が、帝国と対等に交渉しようとしている点。
「日出處天子 (The Son of Heaven in the land where the sun rises)」という言葉が、己の国が今後さらに発展していくと主張している一方で、「日沒處天子 (the Son of Heaven in the land where the sun sets)」という言葉がその逆に、いずれは中国が没落していくであろうと主張している点。
この二点のいずれか、もしくは、その両方が、親書の解釈であると同時に、煬帝 (Emperor Yang Of Sui) が怒った説明となっていたと思う。
その解釈が正しいのかどうかは、いずれにしても後世の解釈だから、その決着はつかないだろう。
少なくとも後者に関しては誤りであると指摘もし、その上に仏教での用法である「日出處 (the land where the sun rises)」「日沒處 (the land where the sun sets)」を用いたことで中国による冊封体制からの離脱を表明する表現である、という教科書にはもられていない解釈も存在している。
そして、その一方で、日本側がどういう意図をもって、この親書を贈ったのかも解らない。
単純に、聖徳太子 (Prince Shotoku) が執ったいくつかの行動とその結果を推し量っての、推論でしかない。と、そう思う。
一本の親書の解釈を巡って、日本と中国の双方で大きな隔たりがあったと解釈すべきかもしれない。
この両者の認識の齟齬が、当時の為政者のみならずに、国民意識とか国民感情の様な、大きなどんよりとした濁りとなって、ふたつの国の間に留まっている様な気がしてならない。
それは、それぞれの国の、内部での経済的な充実や対外的な政治力や文化の成熟度がどうなろうと変わらない、なかなかやっかいなものではないかと思う。
つまり、今回の尖閣諸島 (釣魚台列嶼 / Senkaku Islands) での衝突事件に限らず、日中間での問題や事件が起きる度に、ぼくはこの親書の記述とそれにまつわるエピソードをふと、想い出してしまうのだ。
次回は「し」。
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