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2010.08.31.19.11

だんさーいんざだーく

映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク (Dancer In The Dark)』の監督であるラース・フォン・トリアー (Lars von Trier) は、ドグマ95 (Dogme 95) という映画手法の提唱者であり、この作品も、その純潔の誓い (The Vow Of Chastity) に準じているという。

しかしながら、この映画のテーマのひとつが"音楽"であり、しかもその"音楽"のあり方を問うのに、ミュージカル (Musical Film) の手法に則っている以上、純潔の誓い (The Vow Of Chastity) を唱える事は出来ない。
その抵触するであろう条文はいくつもあるが、少なくとも「映像とは別なところで音楽を作り出してはならない。 (The sound must never be produced apart from the images or vice versa [Music must not be used unless it occurs where the scene is being shot] .)」は、ミュージカル (Musical Film) という手法とは、間違いなく抵触する。
否、ちょっと言い換える。
"これまでの"ミュージカル (Musical Film) という手法では、間違いなく抵触せざるを得ない。

だからと言って、この映画に瑕疵があると主張したい訳でもないし、観るに値しない作品であるというつもりはない。カンヌ国際映画祭 (Festival de Cannes)パルム・ドール (Palme d'Or)最優秀女優賞 (Award For Best Actress) を得た作品であるし、それを否定するつもりもない。

ただ、思うのは、「映像とは別なところで音楽を作り出してはならない。 (The sound must never be produced apart from the images or vice versa [Music must not be used unless it occurs where the scene is being shot] .)」がどこかで足枷となって、この映画が選びえたもうひとつの可能性をも削いでしまったのではないか、という事なのである。

物語は、ビョーク (Bjork) 演じる女工セルマ (Selma Jezkova) の、愚かで哀れな顛末である。
彼女は、尽き欠けんとしている己の寿命と、唯一の身寄りである一人息子の人生と、その為に貯えた決して多くない資産とが、己の数少ない友人の一人に奪われ決して戻らないかもしれないと思い、不可抗力 (Force Majeure) でその友人を殺してしまう。そして、その友人との約束とその人物のプライドを守らんが為に、己が犯してしまった犯罪の正当性 (Right Of Self-defense or Necessity) を主張出来ずに、負う必要もない罪を背負ったまま、罰を受ける。
こんな救い様のない陰鬱な物語を救うのが、セルマ (Selma Jezkova) が夢観る夢なのだ。そして、その中では、彼女が聴きたい音楽が鳴り響き、彼女が唄いたい歌を唄えるのだ。

つまり、彼女を取り巻く現実が厳しければ厳しい程、彼女は夢や空想の中に逃れ、そこで心行くまま音楽に浸り、歌に耽るのだ。
逆の視点から観れば、この映画の主人公が、夢想家だからこそ、『ダンサー・イン・ザ・ダーク (Dancer In The Dark)』という映画は、ミュージカル (Musical Film) として成立する。音楽や歌は、夢や幻の中でしか機能しないのだ。

と、こういう風にこの映画を観てしまえば、疑義が生じないだろうか。
果たして、"音楽"とはその程度の存在なのだろうか、と。勿論、現実は否応なく音楽を侵犯するけれども、"音楽"だって現実を侵蝕する事を忘れてはいまい。
この映画では前提として、現実と非現実、"音楽"の非在と音楽の存在、このふたつが二項対立となっていて、それぞれはそれぞれの共時も共遇も認めない。
しかし、実人生においては、そんな簡単な問題ではないのだと思う。もっともっと、このふたつは微妙に、相互に略奪もしあえば、時には相互に強姦すらしてしまう。

それは、この映画をよく観れば解ると思う。この映画の最大の観るべき場所は、ビョーク (Bjork) 演じるセルマ (Selma Jezkova) の愚かで哀れな人生でもなければ、そのビョーク (Bjork) の最大の見せ場となる [筈の] ミュージカル (Musical Film) ・シーンでもない[蛇足だけれども、愚かで哀れな女工を演じている彼女も、その演技は本当に素晴らしい] 。
その両者がせめぎあう場所、つまり、"音楽"が鳴り始める瞬間なのである。
と、ぼくは思う。


だからぼくが一番すきなシーンは『クヴァルダ (Cvalda)』が唄われる直前なのだ [この曲は、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク (Dancer In The Dark)』で使用された楽曲を収めたビョーク (Bjork) のアルバム『セルマ・ソングズ~ミュージック・フロム・ダンサー・イン・ザ・ダーク (Selma Songs)』にも収録されている]。

次回は「」。

映画と音楽との関係性という点に関して、個人的な体験で綴れば、次の様になる。
もう数十年も前の事だけれども、TV放映される旧い映画を観るにつけ、例えば『007 ドクター・ノオ (Dr. No)』 [テレンス・ヤング (Terence Young) 監督作品] の中での、ジェームス・ボンド (James Bond) [演:ショーン・コネリー (Sean Connery)] が寝室に忍び込んできた毒蜘蛛を叩き潰すシーンの様に、純粋に効果音の代わりとして、音楽が使われる場合がある。そんな手法を観ると、映像の婢でしかない音楽にうんざりしてしまう。
そんな時に映画『アメリカン・グラフィティ (American Graffiti)』 [ジョージ・ルーカス (George Lucas) 監督作品] での音楽のあり方は、凄く画期的に思えた。そこでの音楽は、カー・ラジオから絶えず流れているウルフマン・ジャック (Wolfman Jack) のラジオ番組の中でオンエアされている楽曲として、扱われていたからだ。つまり、物語の中で、音楽が絶えず流れている理由がきちんと説明されているからだ。
その一方で、映画『トミー (Tommy)』 [ケン・ラッセル (Ken Russell) 監督作品] での、物語の中で発せらる言葉が総て、この映画の許となったザ・フー (The Who) のアルバム『トミー (Tommy)』収録曲の歌詞であった事にも、驚かされた。つまり、台詞が総て歌詞なのだ。そして、出演者の誰もが、この歌詞を発話する為に唄わなければならず、結果的に音楽は文字通りノン・ストップで奏でられているのである。
勿論、ここに挙げた例は、いずれの作品も音楽が主題だから、なのかもしれない。
しかし、その後、平成ゴジラ・シリーズを観に、劇場に通っていた頃、ぼくがそれらの映画に期待していたのは、あの伊福部昭 (Akira Ifukube) の音楽を大音量で聴きながら、ゴジラ (Godzilla) や他の東宝怪獣 (Toho Monsters) 達の闘いを観る事だったのだ。そう、まるで、ミュージカル映画の中で奏でられ演じられる、スタンダード・ナンバーを聴きに、映画を観に行く様な心持ちだったのだ。
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