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2010.08.22.18.59

『Money Is ...』もしくは"貨幣論":『みうらじゅんに訊け! お金篇』と『千夜千冊連環篇 1378夜 エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』

ISIS本座』での『松岡正剛の千夜千冊 連環篇』がスタートしたのが、200911月25日の1330夜。レナード・ムロディナウ (Leonard Mlodinow) の『たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する (The Drunkard's Walk)』からだった。
一方、『ほぼ日刊イトイ新聞』の年間プログラム『MONEY IS ...』がスタートしたのが、今年5月31日。『お金のことを、あえて。 糸井重里によるイントロダクション。』からだった。

前者はリーマン・ショック (Lehman Shock) から始った100年に一度と言われる金融危機 (The Financial Crisis Of 2007–2010) を契機に、それを結果的に呼び起こす事になった新自由主義 (Neoliberalism) の思想やその方法論を踏まえて、そこからあらゆる方面を渉猟し、至る所へと思考を延ばしてゆく。時には歴史や科学に眼を配りながらも、根底にあるのは、あるシステム=経済に対するまなざしだ。
そして、その視線はいつしかそのシステムの原動力、というか象徴、というか可視化された存在、というか、つまりは貨幣へと向けられていく。

後者は、そんなシステムの下で、なんらかの形で、好む好まざるに関わらずに、オカネに対峙してきたヒトビトへと、興味と関心を向ける。しかも、本来ならば、経済の埒外にあるヒトや埒外にありたいヒトでありながらも、否応なく巻き込まれてしまったヒトビトが、対談相手に選ばれている様に思える。

まったく同じ素材を扱いながらも、それぞれの立脚点も指向性も全く違う。もしかしたら、同じ素材に思えてしまうそのモノつまりオカネも、実は全然異なる存在かも知れない。

双方のメインとなる読者層が、どの様なものであるかは知らない。そして、双方を共に読む読者層が存在するのかしないのか、また、もし、存在していたとして、どの様な認識を持って、それぞれの連載を読んでいたのか。そんなモノを知る術は、今のところない。
逆に、そういう統計資料なんかがあったら、是非、参照させて欲しいくらいだ。

偶々ぼくは、両者を愛読していたけれども。それはこれまでのネット上での読書習慣がそうさせて来ただけである。
両者を読み比べたりはしていないし、一方を語るのに他方を参照したり、他方を難じる為に一方を称賛したりした事はなかった。
単純に、それぞれのサイトの主宰者である、松岡正剛の嗜好と糸井重里の試行を、楽しんでいただけなのである。

例えて言えば、黄河 (The Yellow River or Huang He) と長江 (The Yangtze River or Chang Jiang) が決して交わらない様に、このふたつの連載は交錯しないだろうと、思っていたのだ。もしかしたら、このふたつの大河が同じ大きな大陸を西から東へと流れていて、同じ海に注ぎ、それを遡って行くと同じ源に辿り着くかもしれないとしても。

ところが、8月16日に公開された『松岡正剛の千夜千冊 連環篇』の1378夜『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』 [河邑厚徳 + グループ現代著]を読んで、もしかしたら~という気がしてきたのだ。
ここで紹介されているミヒャエル・エンデ (Michael Ende) の経済観、それに影響を及ぼしたルドルフ・シュタイナー (Rudolf Steiner) やハンス・ビンスヴァンガー (Hans Christoph Binswanger) の経済観、そしてシルヴィオ・ゲゼル (Silvio Gesell) の試みを読んでいる際に、ふと、みうらじゅんの顔が浮かんだのだ。

つまりは、『ほぼ日刊イトイ新聞』での『みうらじゅんに訊け! お金篇』での、彼の語りだ。
そこで述べられている、一見、支離滅裂でウケとしてのネタ的なモノとしか感じられないいくつかの提言と、根底でどこか、『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』で紹介されている突拍子もない思考実験や社会実験とが、繋がっているのではないかと、思えて来てしまったのだ。

具体的になにがどう結びつくと言える程、強いものではない。
ただ、「信号機に名前を入れよ。」とか「土中の缶に気をつけよ。」とか、一聴、破綻しているとも聴こえるみうらじゅんの主張が、実は「善行を積めば善行の報いあり。」とか「領収書が景気を支える。」といった究めて堅実的で保守的な経済感覚に裏付けられているのを知ると、こう思わざるを得ない。
ルドルフ・シュタイナー (Rudolf Steiner) の老化する貨幣 (Aging Money) やシルヴィオ・ゲゼル (Silvio Gesell) のスタンプ貨幣 (Freigeld) といった、これまでの一般常識を覆す様な視線でありながら、実は貨幣の正体を見極めている彼らの主張を、異なる観点から述べているのではないだろうか、と。

単なる印象論でしかない。
それとも。
両者が採り上げる素材が、オカネであるからかもしれない。

ただ、1374夜『金(かね)と魔術 『ファウスト』と近代経済 (Hans Christoph Binswanger)』 [ハンス・ビンスヴァンガー (Hans Christoph Binswanger) 著] で語られる、オカネの魔術的な有様を物語る松岡正剛の語り口と、対談『ルールを原始的に。 ルディー和子さんと、お金と性と消費の話。』で対談者のルディー和子と交わす糸井重里の言葉の端々に顕われる感情は、それぞれがもう一方のそれぞれの姿を思い起こさせる。

と、書くとちょっと詭弁も入ってしまうが(苦笑)。

ただ、先の大河の例えに準えて書けば、このふたつの連載は、もしかしたら、互いに干渉し互いに侵犯し合う様な関係性を持ち得るのかもしれない。まるで、木曽川 (Kiso River) と長良川 (Nagara River) と揖斐川 (Ibi River) の流れの様に。

偶々、『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』の最後の方で言及されているから書く訳ではないが、両者の共通の知人であると思われる、原丈人 [『ほぼ日刊イトイ新聞』では、『とんでもない、原丈二さん。』等で登場している] を間に挟んで、彼の視点から双方を観てみたい。木曽川 (Kiso River) と長良川 (Nagara River) と揖斐川 (Ibi River) の氾濫を防ぐ為に、宝暦治水に携わった薩摩義士の様な役目を担ってくれるかもしれないからだ [御本人にとっては、大変迷惑千万なオファーだと思うのだけれども]。

蛇足:平田弘史 (Hiroshi Hirata) の劇画に『薩摩義士伝』がある。これを映画化しようという感性は顕われないだろうか? 尤も実写化しようとしたら、黒澤明 (Akira Kurosawa) の『七人の侍 (Seven Samurai)』の豪雨の戦闘シーンの様な激しい描写が物語の終始に顕われるだろうし、だからと言って、平田弘史 (Hiroshi Hirata) の画をアニメとして動かせるのだろうか?
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