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2010.08.03.19.49

みひつのこい

上に掲げた表題を読み誤って「密室の戀」なんて漢字をあててしまうと、凄く淫美な気配が漂う。
例えば、横溝正史 (Seishi Yokomizo) の初期の傑作『蔵の中・鬼火』や手塚治虫 (Tezuka Osamu)の『奇子 (Ayako』なんかが頭の中をよぎる。そう、大正期 (Taisho Period) から昭和初期 (The Early Showa Period) を時代背景にした、一地方の名家・豪商・本陣の類が舞台となった、頽廃的で濃厚な血が流れ交わる探偵小説 (Japanese Mystery) か日本浪曼派小説 (The Japan Romantic School) を想い浮かべてしまうのだ。
一体に、そんな浅ましい発想をしてしまうのは、ぼくだけだろうか。

しかし、残念ながら「密室の戀」はあくまでも読み誤りなのである。
あくまでもこれは「みっしつのこひ」ならぬ「みひつのこい」。
正しくは「未必の故意」とあてるのです。

未必の故意 (dolus eventualis)」とは、辞書的な説明をすれば、"認識した犯罪事実の発生を積極的に意図しあるいは希望はしないが、その事実が発生してもやむをえないと認容した心理状態" 『法律学小辞典』 [有斐閣 (Yuhikaku Publishing Co., Ltd.)] をいう。
と、書いただけではなんの事やら解らない。
だから、これとよく似た概念である「認識のある過失」を調べてみる。
認識のある過失」とは、"過失のうち、犯罪事実の認識が全く存在しないときが認識のない過失、犯罪事実を認識していたが、その発生は絶対にあるはずがないとしていたときが認識のある過失である" [同上] という。
やっぱりよく解らないから、もう少し先を読み進めてみる。
"なお、認識した犯罪事実が発生してもやむをえないとしたときは、<中略>'未必の故意'となる"とある。

解ってもらえただろうか?

例えばの、仮定の事例を考えてみよう。

"わたし"が、眼をつぶって、ある民家の中へと石を投げ入れる、とする。
その投げ入れる石が、偶々、その民家を訪問していた"わたし"の許嫁 (Fiance) に当たり、殺してしまう、とする。
"わたし"は一体、どんな罪を問われ、どんな罰を贖わなければならないのだろうか。

さて。
石を投げ入れる当人の意識下は、どの様なものであるのだろうか。
"わたし"は、石を投げ入れる行為は犯罪でも危険行為でもないという認識にあるのかもしれない。幼い子供や刑事責任能力 (Insanity Defense) のないモノは、そう考え得るだろう。
石を投げ入れれば、ガラス窓や金魚鉢ぐらいは破損するかもしれないが、まさかヒトに当たるとは、"わたし"には、到底考えが及ばない。そんな認識なのかもしれない。
ここの家人を懲らしめてやろうと思いたち、器物を破損させてやろう、もしかしたら、家人の誰かが傷ついてしまうかもしれないし、なぁに、それくらいは致し方あるまい、そんな程度の酷い目に一度遭うのも彼らにとっては良い経験だろうという認識下に、"わたし"は、いるのかもしれない。
しかし、実際には、器物損壊 (Property Damage) どころではない上に、被害者は家人でもない。偶々、そこを訪なっている客で、しかもそれは、"わたし"の許嫁 (Fiance)。
さらに拙い事に、被害者は死んでしまうのだ。
つまりは、"わたし"は、彼女を殺してしまう事となる。

はて。
行為の結果としては、ヒト一人が死んでしまう、それだけの話である訳だけれども、それではその結果を誘引する、行為者としての"わたし"の意識は、如何にあるのだろうか。
そして、その"わたし"の意識のありどころを如何に配慮して、それに相応しい量刑を、"彼ら"は"わたし"に科する事が出来るのだろうか。

未必の故意 (dolus eventualis)」とは、そおゆう問題である。

そして、その問題をひっくり返してみる。
"わたし"の許嫁 (Fiance) の殺害を完遂する為に、殺人罪 (Murder) を逃れようと過失 (Negligence) を装い、あわよくば嫌疑や量刑を免れる事が、"わたし"にも出来るのではないのか。
そんな問題へのすり替えは、"わたし"にも可能ではないだろうか。

この問題を、かの江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) は「プロバビリティーの犯罪」と位置づけ、それをテーマにした作品の嚆矢は、谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) の短編『途上』 [1920年発表] であると指摘している。
また、江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) 自身も、「プロバビリティーの犯罪」をテーマに据えた『赤い部屋 (The Red Chamber)』という短編を1925年に発表している。

そしてぼくはと言えば。
赤い部屋 (The Red Chamber)』は、江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) のその他の初期の傑作群と同時に、小学生時代に体験し、面白く読めたという記憶がある。
勿論,江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) 作品はそれ以前に充分に、『『怪人二十面相』シリーズ (Kaijin Niju Mensou)』で体験していた。ポプラ社(Poplar Publishing Co., Ltd.) 刊行のそれらは、殆ど小学校の図書室から借出したものであって、借りたその日のうちに、読み終えてしまう。それが一時期のぼくの日常であった。

しかし、そんな未熟な江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) ファンが、その延長線上で、彼と同時期に活躍した作家群の作品に触れる事になる。所謂、『新青年』の作家群である。
彼らの作品を知るのは、既に上京し、都下のある大学へと通っていた頃の事となる。
その作家群の一人が、浜尾四郎であった。

そして、入手したばかりの浜尾四郎短編集を読み進めて行くに従って、次第にぼくは気が重くなっていくばかりであった。と、言うのも彼の作品の殆どが「未必の故意 (dolus eventualis)」をテーマにしたものばかりだったからなのである。
しかもそれは単純に「プロバビリティーの犯罪」であるのではない。彼の作品に於いては、己の意図した行為は必ずしも結実する事もない代わりに、無自覚な行為が偶然性に委ねられて思わぬどんでん返しを演じてみせるのだ。つまりそれは疎外感に悩まされた結果、不条理な結末が待っていた、そんな体験なのだ。

と、言う様な、読み終えたばかりの感想をある日、同窓の女性に向かって、さえずってみた。
「わたしもちょうど刑法で、それを勉強しててうんざりしているんだよね」
彼女は法曹を目指していて、そのときのぼくたちは、午下がりのキャンパス内の食堂にいた。
「なんで、そのヒトはそんな小説ばかり書いたんだろう」
浜尾四郎は、本業は法律家だったんだ。木々高太郎が医学士だった様に」

何故か、ぼくは答えをはぐらかしてみせた。
彼女は浜尾四郎を知らないばかりか、勿論、木々高太郎も知らない。だから、彼女にとっては、ぼくのその回答は彼女にとって、なんの意味もなさない。
しかし、ぼくがそうやって解答を回避したのは、ぼくが"うんざり"している理由が、ぼく自身にとってはあまりに明瞭だったからなのだ。

"わたし"が犯した行為を裁く為に、何故、"わたし"の内面まで"彼ら"は踏み込もうとするのか。"わたし"そのものを裁く必要はない。"わたし"の行為だけを裁いてくれ。
何故ならば、とうに彼女は、"わたし"の投げた石で、死んでしまっているのだから。

ここで、夢野久作 (Yumeno Kyusaku) の『ドグラ・マグラ (Dogra Magra)』の、開幕であると同時に終演もである、あの音がなってもいいくらいだ。

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

もう数十年も前の会話だけど、妙に生々しく、記憶の底から再現出来る。
それは何度も。

次回は「」。

images
上記掲載画像は、浜尾四郎の処女作『彼が殺したか』への挿絵 [画:竹中英太郎新青年』昭和4年1月号より]
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