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2010.07.04.22.05

『ほぼ日刊イトイ新聞』で大沢在昌『絆回廊 新宿鮫X』を読む:その一

~を読むと、タイトルで大見得を切ったものの、実はこれから書く事は、その小説の内容に一切、関係のないものです。
ですから、ネタバレ (Spoiler) など気にせずに [尤も連載途中の小説にネタバレ (Spoiler) など本来あるわけぢゃあないんだが]、お気楽におつきあい下さい。

現時点で長編9作品に短編4作品がある『新宿鮫』シリーズはおろか、その作者の大沢在昌の作品自体も初体験だけれども、連載開始から毎週末、これまで欠かさずに読んでいる。
7月2日の更新の時点で第20回。つまり、連載開始から20週が過ぎた訳だ。

物語は、いくつか穿たれた点が少しづつ、なにかの形を顕わしてきたものが幾つか、それらが点描と呼べる様な姿を成して来た。今に、個々に描写されて来た点と点が、細い線で結びつけられて、おおきな『絆回廊』となるのだろう。
と、予測出来るし、それを期待もしている。

ところで、今回の第20回を読んでいて、非常に狼狽えてしまった事がある。

それは、ノンブルである。
何頁かを読み進めていった先に、ふと頁の左下隅の数字を読むと、244とあった。

それは変な例えだが、ちょうど、東京タワーの展望台 (Tokyo Tower Observation Decks) にあるルックダウンウィンドウ (Look Down Windows) を覗き込んでいる時に、ふいに後ろから己の背を押された様な、そんな気がした。
ほんの一瞬、己の身が危うくなる様な恐ろしさが疾る。しかし、冷静に考えると、まかり間違って己の生死に関わる様なハプニングは起きえない、絶対に安全な状況にぼくはいるのだけれども。

冷静に考えれば、連載第20回で到達した頁数であると同時に、ぼく自身が読了した頁の数である。
もう既に244頁とも言えるし、まだ244頁とも言える。

だが、ぼくが狼狽えたのは、未だ読んでいない [もしかしたら書かれてもいない] 頁数に、意識が向かったからだったのだ。

単行本であれ文庫本であれ、印刷された書籍という形式を採っていれば、自ずと、自分自身が、その書物のどこにいるのかが解る。
今、読んでいる頁に栞を挟み、書物を閉じてみればいい。
序破急 (Jo-ha-kyuu)」でも「起承転結 (Kishoutenketsu)」でもいいのだけれども、己がこれまで読み終えた物語を反芻し、これから読むであろう物語を推理出来るのだ。
総頁数10,000頁の作品の中の244頁と、総頁数500頁の作品の中の244頁、そのいずれであっても、ある推測をつけるのは可能だ。

にも関わらずにこの『絆回廊 新宿鮫X』では、それが出来ない。

別にこれは書物に限ったものでもない。
映画や演劇やTV番組には、自ずと上映時間や上演時間や放映時間が決まっていて、その中で、総てが滞りなく行われてゆく。
由美かおる (Kaoru Yumi) の入浴シーン [次回からは雛形あきこ (Akiko Hinagata)、か] に合わせてチャンネルを変える事が出来る様に、新たな証拠品の発見や、"二度目の"殺人事件が起きる頃合いを見計らいながら、作品を観る事が出来る。
だから、いつもの様に2時間番組の積りで観ていて、妙に物語の進展が遅いなぁと思ったら、番組改編時のスペシャル編成で3時間番組だった、という様な事も起きてくる。

しかし、『絆回廊 新宿鮫X』では、それが出来ない [もしかしたら、ディープな『新宿鮫』シリーズ・ファンや大沢在昌ファンならば、244頁という進捗状況から、あうんな展開を察知しえているかもしれない]。

だが、あなたはこう言うかもしれない。
この作品は、まだ連載の途上にあるのだ。作品としては完結していない、と。

では、例えば、雑誌連載や新聞連載の場合を考えてみよう。それらに掲載された物語は、物語独自の進捗から分断されて、雑誌自身もしくは新聞自身のノンブルを負う事になる。
それは、視点を変えれば、掲載雑誌や掲載新聞、それ自体が担う物語のひとつのパーツとしての役割を果たしていると言えなくもないのだ。
ある物語がある雑誌のある号で、巻頭を担うべきなのか、それとも、巻末にあるべきなのか、その担わされた掲載頁によって、その物語 [の断片] が果たす役割は変わると思うのだ。
[それとも、映画や演劇でのクレジットの様に、自ずと位置が決められてしまうものだろうか。そして、その対処療法として特別出演や友情出演 (Cameo Appearance) が用意されているのだろうか。]
絆回廊』には、その様な役割は担わされているのだろうか。確かに『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』のコンテンツのひとつとして毎金曜日に更新されている。しかし、だからと言って、『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』全体に流れる時間、もしくは『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』というシステムの、一部を担っているかと言うと、その役割は随分と希釈されたものの様な気がする。
少なくとも、雑誌の一部を担う連載よりも、遥かに自由な位置を獲得している様な気がする。

そこで、ぼくは『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』の他の連載のノンブル表記を見てみた。

さそうあきらさよなら群青』は、各回の扉頁が1頁扱い。総頁数が把握出来るノンブルではない。
だから、第三者に任意の頁を指摘したい場合は、第○話の第△頁という表現しか出来ない。

和田ラヂヲ猫が出ますよ。』とたかしまてつをブタフィーヌさん』、いしいしんじふしあな』が、毎回1頁の連載で、掲載日もしくは掲載回数の表記がそのままノンブル扱いとなっている。

この違いはなんなのだろう。
そう言えば、ダーリンこと糸井重里 (Darling aka Shigesato Itoi)の対談コンテンツは、事前に掲載回数が告知されているものと、されていないものとの二種類があるんだっけ。

だから、結局のところ、『絆回廊』のノンブルの意図しているものは解らない。
単に、書物を読む際の意識のあり方に、限りなく近づけようとしているだけかもしれない。

ただ言える事は、ネット連載であるこの物語は、どこまで来たかは解るけれども、どこへ行こうとしているのか、その判断材料が少なくともひとつ、欠けているという点だ。
それが物語を読み進む読者に果たして、どんな影響を与えるのであろうか。

本稿とは地続きの文章ではありませんが『ほぼ日刊イトイ新聞』で大沢在昌『絆回廊 新宿鮫X』を読む:その二は、こちらで読む事が出来ます。

ps 1:今回の更新時に「主要登場人物紹介」の文が手直しされた。これは果たしてどんな意味合いを持っているのであろうか。個人的には、入手した書物にこれがあると、最初に読むべきか、それとも、無視して読むべきか、悩ましい存在なのである。
事前に知る事ができるものであると同時に、いつでも途中で確認出来るものは、必要なのか不必要なのか、それとも、この中にだけ、物語の進行上、ある仕掛けが隠されているのか、悩み出すときりがない。

ps 2:その一方で、ネタバレ必至にも関わらずに、物語に向かうその前に、あとがきやら作品解説を読んでしまうのである、このぼくは。
『ほぼ日刊イトイ新聞』で大沢在昌『絆回廊 新宿鮫X』を読む:その一
『ほぼ日刊イトイ新聞』で大沢在昌『絆回廊 新宿鮫X』を読む:その二
『ほぼ日刊イトイ新聞』で大沢在昌『絆回廊 新宿鮫X』を読む:その三
『ほぼ日刊イトイ新聞』で大沢在昌『絆回廊 新宿鮫X』を読む:その四
なお、それぞれの記事は地続きであったり、連動したりはしていません。

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