2010.03.16.18.04
「にっちもさっちも」とは、どうしようもならないとかてのほどこしようがないとかいきずまってしまってどうしたらよいのかわからないとかの状態や心情を表す言葉で、英語表現で言えば「Have No Way Out」とか「Be In A Fix」とかになるかと想うが、もともとは算盤 (Abacus) 用語だという。
つまり、算盤で割算 (Divide By An Abacus) をする場合、「÷ 2」を「二進」、「÷ 3」を「三進」といい、素数 (Prime Number) であるふたつの自然数 (Natural Number) 、2でも3でも割り切れない事を「二進も三進もいかない」といい、それがつまって「にっちもさっちもいかない」となった、というのだ。
と、いうような語源にまつわる話はここで置いといて [苦笑]。
「にっちもさっちも」といえば「どうにも」と続いて、「ブルドッグ (Bulldog)」となってしまうのだ。
つまり、フォーリーブス (Four Leaves) の1977年のヒット曲『ブルドッグ』の歌詞の事である。作詞は伊藤アキラ、作曲は都倉俊一 (Shunichi Tokura) の作品である。
ジャニーズ (Johnnys) の衣鉢を継ぐ (Succeed) ものとして彼らがジャニー喜多川 (Johnny Kitagawa) の肝いりでデヴューしたのが1967年。
その頃のぼく達の間では『マグマ大使 (The Space Giants)』の村上マモル (Miko Mura) [演:江木俊夫] くんがオトナになって加入したグループという認識しかないのだけれども、グループ・サウンズ (Japanese 1960s Garage Punk) ブームの絶頂期にデヴューしその凋落の後を追って、唯一と言っていい程、アイドルとしての人気を誇っていたのが彼らだったのだ。
そんな彼らも1970年代も後半に入りキャリアを踏むと同時に、アイドルとしてのポジショニングが揺らいで来る。しかも、彼らの後を、所謂新御三家 (Hiromi Go, Hideki Saijo and Goro Noguchi) が猛追してくる。
どんな時に、乾坤一擲 (Stake Everything One Has On) の矢として彼らが放ったのがこの曲『ブルドッグ』なのである。
当時のぼく達にとっては奇異なパフォーマンス [縄跳び (Skipping Rope) しているのかと想った] と、そのシュールな詩の世界観は、彼らがなにをしたいのか解らない程に、混乱してみえたが、それ以上に、その曲は、とってもカッコヨク聴こえた。
後に登場するシブがき隊の『スシ食いねェ!』 [1986年発表] も似た様な立ち位置に観えるが、それは違う。シブがき隊の場合は、アイドルがノヴェルティ・ソング (Novelty Song) を唄うというずれのカッコヨサである。
『ブルドッグ』は、ノヴェルティ・ソング (Novelty Song) でもないし、むしろ、それとは逆のベクトル (Vector) だ。
ただし、通常のアイドルが唄う曲と違うのは、歌詞で唄われている光景の、その総てを引き受けるのが「ニッチもサッチもどうにも ブルドッグ」という意味不明の言葉の綾なのである。
このフレーズの切れと際どさが、カッコヨイのである。
近田春夫 & ハルヲフォンの『電撃的東京
』 [1978年発表] に収録された『ブルドッグ』を初めて聴いた時に、その切れと際どさがさらにデフォルメ (Deformation) されたヴァージョンから、ぼくだけぢゃあなかったんだよなぁと、感慨を深めたのでした。
[渋谷陽一によるライナーノーツに"フォーリーブスのおりも政夫がハルヲフォンの演奏するブルドッグを見てショックを受けたのは有名な話"とある。]
次回は「も」。
つまり、算盤で割算 (Divide By An Abacus) をする場合、「÷ 2」を「二進」、「÷ 3」を「三進」といい、素数 (Prime Number) であるふたつの自然数 (Natural Number) 、2でも3でも割り切れない事を「二進も三進もいかない」といい、それがつまって「にっちもさっちもいかない」となった、というのだ。
と、いうような語源にまつわる話はここで置いといて [苦笑]。
「にっちもさっちも」といえば「どうにも」と続いて、「ブルドッグ (Bulldog)」となってしまうのだ。
つまり、フォーリーブス (Four Leaves) の1977年のヒット曲『ブルドッグ』の歌詞の事である。作詞は伊藤アキラ、作曲は都倉俊一 (Shunichi Tokura) の作品である。
ジャニーズ (Johnnys) の衣鉢を継ぐ (Succeed) ものとして彼らがジャニー喜多川 (Johnny Kitagawa) の肝いりでデヴューしたのが1967年。
その頃のぼく達の間では『マグマ大使 (The Space Giants)』の村上マモル (Miko Mura) [演:江木俊夫] くんがオトナになって加入したグループという認識しかないのだけれども、グループ・サウンズ (Japanese 1960s Garage Punk) ブームの絶頂期にデヴューしその凋落の後を追って、唯一と言っていい程、アイドルとしての人気を誇っていたのが彼らだったのだ。
そんな彼らも1970年代も後半に入りキャリアを踏むと同時に、アイドルとしてのポジショニングが揺らいで来る。しかも、彼らの後を、所謂新御三家 (Hiromi Go, Hideki Saijo and Goro Noguchi) が猛追してくる。
どんな時に、乾坤一擲 (Stake Everything One Has On) の矢として彼らが放ったのがこの曲『ブルドッグ』なのである。
当時のぼく達にとっては奇異なパフォーマンス [縄跳び (Skipping Rope) しているのかと想った] と、そのシュールな詩の世界観は、彼らがなにをしたいのか解らない程に、混乱してみえたが、それ以上に、その曲は、とってもカッコヨク聴こえた。
後に登場するシブがき隊の『スシ食いねェ!』 [1986年発表] も似た様な立ち位置に観えるが、それは違う。シブがき隊の場合は、アイドルがノヴェルティ・ソング (Novelty Song) を唄うというずれのカッコヨサである。
『ブルドッグ』は、ノヴェルティ・ソング (Novelty Song) でもないし、むしろ、それとは逆のベクトル (Vector) だ。
ただし、通常のアイドルが唄う曲と違うのは、歌詞で唄われている光景の、その総てを引き受けるのが「ニッチもサッチもどうにも ブルドッグ」という意味不明の言葉の綾なのである。
このフレーズの切れと際どさが、カッコヨイのである。
近田春夫 & ハルヲフォンの『電撃的東京
[渋谷陽一によるライナーノーツに"フォーリーブスのおりも政夫がハルヲフォンの演奏するブルドッグを見てショックを受けたのは有名な話"とある。]
次回は「も」。
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