2010.03.02.18.30
新垣結衣 (Yui Aragaki) が「結衣は朝、十六茶から」とパジャマ姿で唄っているので、ふと、想い出したのだけれども、この替歌のオリジンは、松本伊代 (Iyo Matsumoto) の『センチメンタル・ジャーニー』。
1981年発表の彼女のデヴュー曲で、作詞:湯川れい子 / 作曲:筒美京平 / 編曲:鷺巣詩郎 (Shiro Sagisu) によるものである。
ぼく達の世代で言えば、もう蛇足以外のナニモノでもないのだけれども、オリジナルの歌詞は「伊代はまだ16だから」。
この歌詞が当時、凄くショッキングに聴こえたのは、ぼくだけだったのだろうか?
と、いうのも、歌詞の中に、それを唄う張本人が登場し、しかも、一人称の語り口で、自身の年齢を発露するのである。
それはそのまま、自身の若さの宣言であると同時に、自身の幼さを肯定している事になる。
つまり、その曲をもってデヴューした翌年、もしくはそれ以降に、その歌をあなたは唄えるのでしょうか、そしてそれをあなたがたは受け入れられるのでしょうか?という疑問である。
"16"を"17"に変え"17"を"18"に変えてゆく事は出来るかもしれないけれども、いつか唄えなくなる時が来る。
デヴュー曲、特にアイドルのデヴュー曲とはそういうものだと思うかもしれないけれども、その考えはどこかにシンガーを育てるという発想が欠落している。でも、認知度の低い新人シンガーの名前をそのデヴュー曲と共にインプリンティング (Imprinting) するには最適かもしれない。だが、しかし...。
と、疑問に対する回答はいくつも浮かぶのだけれども、それがいっかな、解決の方向に向かわないで、回答が新たな疑問を誘導して堂々巡りを繰り返してしまうのである。
それは彼女がデヴューした状況が、余計にそう思わせるのかもしれない。と、いうのは、彼女が所謂「花の82年組」だったからである [彼女自身は1981年のデヴューだったけれども]。
続々と、新人アイドルがデヴューした年であって、しかも、そのどれもの個性が花開いて、恰も群雄割拠の様相を呈していたのだ。それもこれも松田聖子 (Seiko Matsuda) という存在があって、彼女が入手したパイをどうやって切り分けるのか、という事に、だれもが腐心していたからであるのだが。
あまりアイドル系の音楽には入り込んでいないぼく達の間ですら、好みのアイドルは誰それ...というレベルはとうに終えていて、松本伊代 (Iyo Matsumoto) と早見優 (Yo Hayami) の区別をどうやってつけるかとか、堀ちえみ (Chiemi Hori) のファンはマニアックだとか、小泉今日子 (Koizumi Kyoko) の二の腕はやけに太いとか、訳の解らない差別化を図っていたのである。
ついでに書いとくと、堀ちえみ (Chiemi Hori) がどじでのろまな亀になるのも、小泉今日子 (Koizumi Kyoko) がサブ・カルのアイドルになるのも、中森明菜 (Akina Nakamori) がポスト松田聖子 (Seiko Matsuda) としてその牙城に肉迫するのも、まだ先の話である。
そして、その訳の解らない差別化は、後々に、おニャン子クラブ (Onyanko Club) の会員ナンバーやモーニング娘。 (Morning Musume) の第何期生とかいうトコロまで、脈々と受け継がれて行くのである。さすがにAKB48 (AKB48) までには、今のぼく達は食指を蠢かしてはいないだろうけれども。
ところで、ウィキペディア (Wikipedia) では「日本の歌謡曲では初めて歌詞に歌手自身の個人情報(名前と年齢)が含まれた曲であった」とあるのだけれども、では海外の楽曲ではどうなのか、というと、皆目検討がつかない。
湯川れい子の事だから、海外の有名楽曲に範をとったとしても不思議ではないのだけれども。
思いつくままに、書き連ねてゆく。
ポールとポーラ (Paul & Paula) の『ヘイ!ポーラ (Hey Paula)』では、恋人同士のポール (Paul) とポーラ (Paula) の恋の語らいをそのまま、デュエットでポールとポーラ (Paul & Paula) が唄っている。
ザ・ビートルズ (The Beatles) の『ジョンとヨーコのバラード (The Ballad Of John And Yoko)』では、その唄われている内容こそ、ジョン・レノン (John Lennon) とオノ・ヨーコ (Yoko Ono) のハネムーンのすったもんだだけれども、歌詞中には二人の名は顕われて来ない。むしろ、ふたりのアルバム『ウェディング・アルバム (Wedding Album)
』の『ジョン・アンド・ヨーコ [ジョンとヨーコ] (John & Yoko)』では、『ヘイ!ポーラ (Hey Paula)』よろしく、LPの片面を費やして双方がそれぞれの相手の名前を呼んではいる。
例えば、シンガー・ソング・ライター系のミュージシャンが、究めて個人的な事柄を唄うという曲の中に、同じ様な構図が見出せるのかもしれないが、それは「伊代はまだ16だから」とは無縁な気がする。
敢て言えば、ぼくの知っている楽曲の中では、セルジュ・ゲンズブール (Serge Gainsbourg) がジェーン・バーキン (Jane Birkin) に唄わせた『ジェーン.B~私という女 (Jane B.)』が、最も近いのかもしれない [1969年発表の『ジェーン・バーキン / セルジュ・ゲンスブール (Je T'Aime...Moi Non Plus)
』に収録]。
はたちかそこらのイギリス人の女性。蒼い瞳に栗色の髪...。
ジェーン・バーキン (Jane Birkin) は自身と同じイニシャルの女の容貌を淡々と綴って行くのだ。それはジェーン・バーキン (Jane Birkin) でありながら、彼女そのものではなく、だからと言って、セルジュ・ゲンズブール (Serge Gainsbourg) が凝視めているジェーン・バーキン (Jane Birkin) でもない。セルジュ・ゲンズブール (Serge Gainsbourg) は、もうひとりの女を描写しているのだ。
もう一度書くけど、作詞者は湯川れい子。大のエルヴィス・プレスリー (Elvis Presley) のファンを自認している。だから、彼の曲の中に、「伊代はまだ16だから」のヒントがあったのだろうか。
閑をみつけて捜してみよう。まずは、エルヴィス映画 (Elvis Presley Filmography) 辺りから...。
次回は「ら」。
1981年発表の彼女のデヴュー曲で、作詞:湯川れい子 / 作曲:筒美京平 / 編曲:鷺巣詩郎 (Shiro Sagisu) によるものである。
ぼく達の世代で言えば、もう蛇足以外のナニモノでもないのだけれども、オリジナルの歌詞は「伊代はまだ16だから」。
この歌詞が当時、凄くショッキングに聴こえたのは、ぼくだけだったのだろうか?
と、いうのも、歌詞の中に、それを唄う張本人が登場し、しかも、一人称の語り口で、自身の年齢を発露するのである。
それはそのまま、自身の若さの宣言であると同時に、自身の幼さを肯定している事になる。
つまり、その曲をもってデヴューした翌年、もしくはそれ以降に、その歌をあなたは唄えるのでしょうか、そしてそれをあなたがたは受け入れられるのでしょうか?という疑問である。
"16"を"17"に変え"17"を"18"に変えてゆく事は出来るかもしれないけれども、いつか唄えなくなる時が来る。
デヴュー曲、特にアイドルのデヴュー曲とはそういうものだと思うかもしれないけれども、その考えはどこかにシンガーを育てるという発想が欠落している。でも、認知度の低い新人シンガーの名前をそのデヴュー曲と共にインプリンティング (Imprinting) するには最適かもしれない。だが、しかし...。
と、疑問に対する回答はいくつも浮かぶのだけれども、それがいっかな、解決の方向に向かわないで、回答が新たな疑問を誘導して堂々巡りを繰り返してしまうのである。
それは彼女がデヴューした状況が、余計にそう思わせるのかもしれない。と、いうのは、彼女が所謂「花の82年組」だったからである [彼女自身は1981年のデヴューだったけれども]。
続々と、新人アイドルがデヴューした年であって、しかも、そのどれもの個性が花開いて、恰も群雄割拠の様相を呈していたのだ。それもこれも松田聖子 (Seiko Matsuda) という存在があって、彼女が入手したパイをどうやって切り分けるのか、という事に、だれもが腐心していたからであるのだが。
あまりアイドル系の音楽には入り込んでいないぼく達の間ですら、好みのアイドルは誰それ...というレベルはとうに終えていて、松本伊代 (Iyo Matsumoto) と早見優 (Yo Hayami) の区別をどうやってつけるかとか、堀ちえみ (Chiemi Hori) のファンはマニアックだとか、小泉今日子 (Koizumi Kyoko) の二の腕はやけに太いとか、訳の解らない差別化を図っていたのである。
ついでに書いとくと、堀ちえみ (Chiemi Hori) がどじでのろまな亀になるのも、小泉今日子 (Koizumi Kyoko) がサブ・カルのアイドルになるのも、中森明菜 (Akina Nakamori) がポスト松田聖子 (Seiko Matsuda) としてその牙城に肉迫するのも、まだ先の話である。
そして、その訳の解らない差別化は、後々に、おニャン子クラブ (Onyanko Club) の会員ナンバーやモーニング娘。 (Morning Musume) の第何期生とかいうトコロまで、脈々と受け継がれて行くのである。さすがにAKB48 (AKB48) までには、今のぼく達は食指を蠢かしてはいないだろうけれども。
ところで、ウィキペディア (Wikipedia) では「日本の歌謡曲では初めて歌詞に歌手自身の個人情報(名前と年齢)が含まれた曲であった」とあるのだけれども、では海外の楽曲ではどうなのか、というと、皆目検討がつかない。
湯川れい子の事だから、海外の有名楽曲に範をとったとしても不思議ではないのだけれども。
思いつくままに、書き連ねてゆく。
ポールとポーラ (Paul & Paula) の『ヘイ!ポーラ (Hey Paula)』では、恋人同士のポール (Paul) とポーラ (Paula) の恋の語らいをそのまま、デュエットでポールとポーラ (Paul & Paula) が唄っている。
ザ・ビートルズ (The Beatles) の『ジョンとヨーコのバラード (The Ballad Of John And Yoko)』では、その唄われている内容こそ、ジョン・レノン (John Lennon) とオノ・ヨーコ (Yoko Ono) のハネムーンのすったもんだだけれども、歌詞中には二人の名は顕われて来ない。むしろ、ふたりのアルバム『ウェディング・アルバム (Wedding Album)
例えば、シンガー・ソング・ライター系のミュージシャンが、究めて個人的な事柄を唄うという曲の中に、同じ様な構図が見出せるのかもしれないが、それは「伊代はまだ16だから」とは無縁な気がする。
敢て言えば、ぼくの知っている楽曲の中では、セルジュ・ゲンズブール (Serge Gainsbourg) がジェーン・バーキン (Jane Birkin) に唄わせた『ジェーン.B~私という女 (Jane B.)』が、最も近いのかもしれない [1969年発表の『ジェーン・バーキン / セルジュ・ゲンスブール (Je T'Aime...Moi Non Plus)
はたちかそこらのイギリス人の女性。蒼い瞳に栗色の髪...。
ジェーン・バーキン (Jane Birkin) は自身と同じイニシャルの女の容貌を淡々と綴って行くのだ。それはジェーン・バーキン (Jane Birkin) でありながら、彼女そのものではなく、だからと言って、セルジュ・ゲンズブール (Serge Gainsbourg) が凝視めているジェーン・バーキン (Jane Birkin) でもない。セルジュ・ゲンズブール (Serge Gainsbourg) は、もうひとりの女を描写しているのだ。
もう一度書くけど、作詞者は湯川れい子。大のエルヴィス・プレスリー (Elvis Presley) のファンを自認している。だから、彼の曲の中に、「伊代はまだ16だから」のヒントがあったのだろうか。
閑をみつけて捜してみよう。まずは、エルヴィス映画 (Elvis Presley Filmography) 辺りから...。
次回は「ら」。
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