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2024.02.20.07.41

うちゅうのかんづめ

は、その美術作品の制作者自身が自著『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録 (Tokyo Mikisa Keikaku : Tokyo Mixer Plan)』[赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 著 1984PARCO出版 (Parco Publishing) 刊行] で紹介している。
その著書は、自身が参加しているハイレッド・センター (Hi-Red Center) [1964年結成]、すなわち高松次郎 (Jiro Takamatsu)、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) そして中西夏之 (Natsuyuki Nakanishi) の活動記録である。

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美術作品『宇宙の缶詰 (Canned Universe)』 [赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 作 1964年] は、鱈場蟹 (Red King Crab) の缶詰 (Canned Food) の内部と外部を逆転したモノだ。その外部、すなわち缶詰 (Canned Food) の表面にはなんの添付もなんの記載もなく、その裏側、すなわちその内部には鱈場蟹 (Red King Crab) をあしらった商品としてのラベルが貼付されている [上掲画像はこちらから]。
その結果、密封されたこの鱈場蟹 (Red King Crab) の缶詰 (Canned Food) は、内部と外部が転倒した事になり、その結果、缶詰 (Canned Food) に入っているのは、その内部たるこの世界 (The Earth)、すなわち宇宙 (Universe) 全体の事となる。美術作品の名称はそこによっているのだ。
そして、制作者はこの美術作品を、当時の自身が行なっていた梱包芸術 (Wrapped)、その究極のかたちと看做している様だ。
自著に次の様な記載がある。

「私、梱包というヤリクチを手にしてからは、いろんなものを包んできました。キャンバスからはじまって、<中略>これはキリがないと。いずれ自動車も包みたくなり、ビルも包みたくなり、東京タワーも包みたくなるだろう。それは努力すればできるかもしれない。しかしそれができても、できたことの意味としては努力しかないのではないか。努力でもって進めるものは、単純なエスカレートしかない。ビルのつぎには都市を包み、国家を包み、地球を包み、結局はこの宇宙を梱包するという結論に向かっての寄り道に過ぎない事になってしまう」

この引用箇所を少し斜めに読んでみると、クリスト・アンド・ジャンヌ=クロード (Christo And Jeanne-Claude) の活動とその作品への批評の様にも読めてしまう。果たしてどうなのだろう。個人的には、この2組の芸術家達によるそれぞれの梱包芸術 (Wrapped) はその開始点からして全く異なるところにあるとは思うのだが。

猶、自著では芸術作品名にある宇宙 (Universe) と謂う語句を次の様に説明している。

「この宇宙の構造は閉じているのか開いているのか、宇宙の果てというのはどうなっているのか、人類にはまだ何もわかりませんが、それがわからないまま、わからないこともひっくるめて、その蟹缶がすっぽりと包みこんでしまったのです」

どうなのだろう。本当に、この美術作品が宇宙 (Universe) を内包しているのだろうか。
と、謂う様な事を考えてしまうのは、例えば、マンガ『百億の昼と千億の夜 (Hyakuoku No Hiru To Sen'oku No Yoru : Ten Billion Days And One Hundred Billion Nights)』 [光瀬龍 (Ryu Mitsuse) 原作 萩尾望都 (Moto Hagio) 作画 19771978週刊少年チャンピオン (Weekly Shonen Champion) 連載] の最終局面に於ける主人公阿修羅王 (Asura-Oh : Asura King) と転輪王 (Tenrin-Oh : Chakravarti) の対話を思い出してしまうからなのだ。
転輪王 (Tenrin-Oh : Chakravarti) は謂う。
閉ざされた内部ということは、さらに外があるということだ、しかも無限に」 [この引用文はもしかしたらマンガからではなくて、その原作である小説『百億の昼と千億の夜 (Hyakuoku No Hiru To Sen'oku No Yoru : Ten Billion Days And One Hundred Billion Nights)』 [光瀬龍 (Ryu Mitsuse) 作 19651966S-Fマガジン (S-F Magazine) 連載] からの引用からかもしれない。]
と、同時に映画『2001年宇宙の旅 (2001: A Space Odyssey)』 [アーサー・C・クラーク (Arthur C. Clarke) 原作 スタンリー・キューブリック (Stanley Kubrick) 監督作品 1968年制作] の主人公デヴィッド・ボーマン船長 (David Bowman) [演:キア・デュリア (Keir Dullea)] が向かうスターゲイト (Jovian Monolith) の向こうの事も想い起こしてしまうのだ。
果たして、この美術作品は、転輪王 (Tenrin-Oh : Chakravarti) が語るモノ、もしくはデヴィッド・ボーマン船長 (David Bowman) が到着する場所をも内包しているのだろうか。
本題から著しくそれてしまいそうなこの思考のその先は、附記に綴ってある。

ところで、この芸術作品はあくまでも赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 個人の活動の一端であり、それが紹介されている自著は冒頭に記した様にハイレッド・センター (Hi-Red Center) の活動記録である。だから、自著に於いての制作者個人の芸術作品の扱いは、あくまでも落語 (Rakugo) で謂う (Makura : Pillow) と謂う役割でしかない。自著の主眼は作品展『大パノラマ展 (The Great Panorama Exhibition aka Closing Event)』[1964年開催] の紹介にある。第11章「宇宙の缶詰 (Canned Universe)」だ。

その作品展は、開催期間中ずっと、その会場である画廊内科画廊 (Naiqua Gallery) [19631966年存在] を封鎖し続けると謂うモノだ。
彼等はその趣旨を徹底する為に、会場が封鎖されている旨を通達する案内状を製作発送し、会場入口をものものしく、釘で打ちつけた後に、あたかも事件現場やなにかの様にバリケードテープ (Barricade Tape) で封鎖してしまう。そして会期最終日に会場を開放しささやかなオープニング・パーティを開催するのである。
その結果、あたかも作品展と謂うヴェントの総てを転倒させた様な光景が現出する。

この作品展の解釈の仕方はいくつもある様だ。
実際に著書でも次の様な言及がある。
「全体の見解というのは一つではない。おこないは一つでも、そこに至る道筋はいくつかあります」
と、謂う事はハイレッド・センター (Hi-Red Center) の他の2人自身も、この作品展の意義や解釈が異なる可能性もあるのだろう。
但し、著者はこの作品展を自身の梱包芸術 (Wrapped) のひとつとして分析し、紹介しているのである。

ただ、ぼくはこう思うのだ。
実際の作品展のバリケードテープ (Barricade Tape) 等による封印は、会場の外部から行われている。
もし仮に、この封印を会場内部から行う事が出来るとしたら、この作品展の展示物は、森羅万象 (All Natural Phenomena)、日本 (Japan) 否世界 (The Earth) 否宇宙 (Universe) 全体である、と謂う事が出来るのではないだろうか。

次回は「」。

附記 1. :
上に綴った美術作品にある宇宙 (Universe) と謂う語句への疑義を解決したく検索していると、作品『多次元宇宙の缶詰 (Canned Multiverse)』に横着する。そこでは「宇宙が定義上ひとつしかないなら、この装置を量産することは何を意味するのか」と謂う命題の下、宇宙の缶詰 (Canned Universe) を複数個制作しているのだ [この後、この試みに対して否定的な見解が登場するが、決して批難している訳ではない]。
先ず、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) は当初から、その美術作品を複数個制作している様なのである。自著『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録 (Tokyo Mikisa Keikaku : Tokyo Mixer Plan)』の第9章『帝国ホテルの肉体 (The Bodies In Imperial Hotel)」で紹介しているイヴェント『シェルタープラン (Imperial Hotel Body : Shelter Plan )』[1964年開催] の会期期間中、来訪者向けの商品として、主催者であるハイレッド・センター (Hi-Red Center) は様々な缶詰作品 (Canned Food Works) を制作した。そのうちのひとつとしてである。この美術作品の他にどの様な缶詰作品 (Canned Food Works) が登場したのか、それはその著書を読んでもらうべきだろう。特に篠原勝之 (Katsuyuki Shinohara) が購入した缶詰 (Canned Food) とその逸話に関しては。
と、謂う様な事は些事である。
作品『多次元宇宙の缶詰 (Canned Multiverse)』が多次元宇宙 (Multiverse) を内包しているや否や、そちらの方が問題だ。複数個あるその缶詰 (Canned Food) の外部は複数個、その缶詰 (Canned Food) の数だけ存在する。だけれども、その内部、すなわち我々がいる側は総て同一だ。つまり、ひとつの宇宙 (Universe) である [その宇宙 (Universe) が本当はなんであり、どの様な代物なのかは別にして]。その点に於いて、これらの缶詰 (Canned Food) は多次元宇宙 (Multiverse) を内包していると謂えるのだろうか。
ぼくには、マンガ『銀河鉄道999 (Galaxy Express 999)』 [松本零士 (Leiji Matsumoto) 作 19771999週刊少年キング (Weekly Shonen King) 連載] 第31話『賽の河原の開拓者 (The Pioneers From The River Of Purgatory)』の導入部に登場する、大小様々な小宇宙 (Galaxy) が浮遊する空間を想い出してしまうのだ。そのうちのひとつは列車内部に侵入し、メーテル (Maetel) の華奢な両掌の中にすっぽりとはいってしまう。そんな手乗り小宇宙 (Sitting Galaxy On The Hand) を封印したのがこの作品の様に思えてしまう。

附記 2 . :
だけれども、この芸術作品の限界、それが示す宇宙 (Universe) の限界と謂うモノも否定できない。何故ならば、この芸術作品の発想の根本には、ユークリッド空間 (Euclidean Space) に於いてと謂う前提が当初から設定されている様に思えるからだ。つまり、宇宙 (Universe) とはユークリッド空間 (Euclidean Space) で総ての説明が出来る存在なのだろうか、と。やはり非ユークリッド空間 (Non-Euclidean Space) を前提とした議論を経る必要があるだろう、そして最も身近にある非ユークリッド空間 (Non-Euclidean Space) 的な存在はメビウスの帯 (Mobius Strip) [アウグスト・フェルディナント・メビウス (August Ferdinand Mobius) 発見 1858年] なのだ、そんな連想の下に検索していくと作品『メビウスの輪の缶詰 (Canned By Mobius Strip)』に横着する [ここでもこの後、この試みに対して否定的な見解が登場するが、決して批難している訳ではない]。
だけれども、そこに記されている制作動機と実際の作品に関する言及を読んでぼくは吃驚してしまうのだ。そこにはこうある。「"なにも閉じ込めない” 缶詰」と。
逆ぢゃあないのか?
メビウスの帯 (Mobius Strip) は表も裏もない。だから、それを缶詰 (Canned Food) 化すれば、なにもかも閉じ込めている缶詰 (Canned Food) になるのではないだろうか。
そして、もしかしたら、これこそが本当の宇宙の缶詰 (Canned Universe) なのではないだろうか。
でも、そう思いながらも、そう断定出来ないモノがみえてしまう。
今、ここは3次元空間 (Three-dimensional Space) だ。だとしたら、それを封入するには、3次元空間 (Three-dimensional Space) を超えた次元の存在でなければ、缶詰 (Canned Food) 化出来ないのではないか、と。つまり、メビウスの帯 (Mobius Strip) の缶詰 (Canned Food) 化ではなくてクラインの壺 (Kleinsche Flasche) [フェリックス・クライン (Felix Klein) 1882年考案] の缶詰 (Canned Food) 化ではないだろうか。そう思うのだ。で、この時点で実際にその缶詰 (Canned Food) をつくる事は不可能となってしまう。
宇宙 (Universe) を考えるのに、3次元空間 (Three-dimensional Space) の超、すなわちn次元空間 (n-dimensional Space) の認識が必要ならば、それを封入する缶詰 (Canned Food) は、2次元空間 (Two-dimensional Space) に於けるメビウスの帯 (Mobius Strip) や3次元空間 (Three-dimensional Space) に於けるクラインの壺 (Kleinsche Flasche) に相当するn次元空間 (n-dimensional Space) に於けるそれ、でなければならないのかもしれない。つまり、少なくとも(n +1) 次元 (n-plus-one -dimensional Space) を想定する必要がある。そうおもうのだ。

附記 3. :
こんな事ばかりに懊悩しているとやはり専門家、数学者 (Mathematician) か物理学者 (Physicist) か哲学者 (Philosopher) の誰かにこの芸術作品に関する見解と謂うモノを糺したくもなる。
附記 2. にはおおきな誤謬が内在している様に思えるからだ。
ぼくの様なモノが語れるのは、精々が一休 (Ikkyu) や 吉四六 (Kichommu) や彦一 (Hikoichi) 等の頓知話 (Witty Tales)、さもなくば落語 (Rakugo) の八っつあん (Hattsan)、熊さん (Kuma-san)、ご隠居 (The Retirement) それに与太郎 (Yo-taro) 達が語る様な代物だからだ。

附記 4. :
だからそれを留保した上での目下の検討課題は、この芸術作品の素材となった鱈場蟹 (Red King Crab) の缶詰 (Canned Food)、その製造販売元なのである。
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